曖昧な私(たち)
その昔お付き合いしていた人(夫にあらず)は私にこう言った。
「君が治るなら、俺は東京の病院でもどこにでも連れていく」と。
わぁ嬉しい。
そんな風に思った記憶はなくて、なんとも言えずに笑った気がする。
治らない。
治ったりはしないんだよ。
そう心の中で思ったし、もっと突っ込んで言うと
「いや何言うてんねん。
わかってるやろ、私は治る治らないの病気じゃないんだってば。
それに転院するのめっちゃ大変やで。慣れてない先生が私のことすぐに診られるわけないし、一から信頼関係築くなんてしんどいし、てか地方の病院も頑張ってるし、仮に東京が一番優れている説があるとするなら、とっくにうちの父母が連れてってくれてるって」
なんてことを、考えていたとかいないとか。
彼は真剣だったに違いない。
私への思いやりの言葉でもあったろう。
でも、難しいなと思った。
「治る」ってなんだろう。
治る疾患?
先天性心疾患は、その名の通り心疾患を持って生まれる。
いわゆる生活習慣病のような心臓病と違い、その心臓の形状に生まれたときから奇形がある。本来あるべき心臓のはたらきができないため、そのままの状態では命を失いかねない。
そこで、先天性心疾患の子どもの多くが生まれた直後、あるいは乳幼児期から治療を開始することが多い。
そして必要に応じてときには数回、心臓外科手術を受けることとなる。
では、手術を受けた子どもたちは「治る」のだろうか。
答えは、Noだと私は考えている。
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「完全に治るという意味での『根治(こんち)』という言葉は、今は使いません」
とある医師が講演でそのような話をされているのを聞いたのは、10年ほど前だったか。
面白い、純粋にそう感じたし、
「時代は変わったな」
と思った。
※私が子どもの頃は機能的根治や解剖学的根治なんて言葉はなく(あったとしても私は知らなかった)、根治=治るという認識であったので、「根治術が成功した、終わった」という人が現れると「いいな、あの人治ったんだ」と羨ましい気持ちでいた。
その後、根治術をした人たちであっても不整脈を始めとした体調不良が起こるのを見て「根治術をしても治らないんだ」と肌感覚で知った。
ということで現在、正常な心臓と同等のはたらきができるよう外科的治療を行い、修復するといった「機能的根治」を目指しておられる方たちを不安にさせる意図はありません。
その先生が話された内容を大まかにまとめると、
私が幼い頃(40年程度前)は先天性心疾患の子どもを「生かす」ことが一番の目的であり、そのために手術を行っていた。
とにかく生存率を上げたかった。
生存率が上がってくると、手術による合併症などが起こることがわかってきた。手術を行うことにより新たな課題が出てくるようになったのだ。
なお、心臓にメスを入れていることによってその傷から新たに異常な電気回路ができるので、手術をした人は将来的に不整脈が必ず起きると考える方が良いとのことだった。
成長に伴う身長や体重変化もその後の心臓の機能に影響を及ぼす。
先天性心疾患の子どもたちの持続的な生活の安定を考えたとき、長期的、継続的な観察は必要である。
であるならば、一旦状態が落ち着いていわゆる健康な子どもたちと同じように生活できるくらいに回復している子であったとしても、年に一度は病院を受診するのが望ましい。
☆
とても興味深い内容だった。
特に不整脈に関する見解は、なるほど、その考えで行くならば私や、落ち着いていたはずの人たちが成長と共に不整脈に悩まされるようになるのは、順当(?)な反応なのだろうと納得できた。
また、どれほど状態が改善していようとも継続して病院に行くように、こういう風に医師たちが考えているというのも、時代の流れだと感じる。
それほどまでに生存率が上がって、成人を迎えることのできる患者が増えた、ということだ。
成人を迎えた後も、患者は生き続ける。
その生活をいかに維持していくか、そのためには病院との関係を断ってはならない。
これはどう考えても、単純に「治る」疾患とは言えないだろう。
治ったはずなのに
以前、こんな話を聞いたことがある。
その先天性心疾患の子(Aさんとする)は乳幼児期に手術を受けて状態が改善、服薬もなかった。
いわゆる健康な子どもたちと同じように生活し運動することができたので、Aさんの保護者はこう考えたそうだ。
「痛い思いをさせたし本人の記憶にもないのならば、病気のことは伝えないでおこう」と。
Aさん自身は自分の傷がどういう経緯でついたのか知りたいと思ったけれど、親からは「心臓が悪かったがもう治った」とだけ聞かされていた。
その傷跡がきれいなこともあり、本人もそれ以上気に留めることなく成長する。
大人になり、一般枠で就職、他の社員と同じようにバリバリと働くAさん。
ある日突然倒れた。
救急搬送された先の病院で自分が「生まれつきの心臓病」だということを知る。
そして自分は今、新たに手術を必要としているらしい。
しかもその手術を受けたとしても、それまでの「動けていた自分」と同じように行動することは難しいと聞かされた。
もう、ショックなんてものでは表現できないだろう。
心臓病という話は確かに昔聞いた記憶がある。
でも、自分は治ったのではなかったのか?
これは一体どういうことなのだろう。
……今はこういうケースがあるかどうかはわからない(会社の健康診断でもすぐに引っかかるだろうし)。
ただ、ひと昔前ではあり得た話なのだ。
それにしても…救急搬送されるまでしんどさがわからないの?
もっと早い段階で病院に行けば良いのに。
そう思われる人もおられることだろう。
でも心臓のはたらきは、たいていじっくりゆっくり悪くなる。
「ちょっと最近息が切れるな」程度が続けば、いずれそれが「当たり前」になる。少しずつしんどさが重たくなっていても、気がつかない。
だからまさか自分の状態がかなり悪いなどとは考えもしない。
そして気がついたときには、にっちもさっちも動けない状態に陥っている。
☆
こうならないために、自分を知る必要がある。
と、偉そうに言っているものの、私は自分の疾患の合併具合がどんなものか今一つ把握できていない。
みんなちゃんと知ってて偉いなぁ、と感心しているくらいだ。
カテをするたびに評価が変わるし、なんだか新しい発見も毎回あるので「ま、そのときそのときで把握すりゃいいだろ」程度の気持ちだったりもする。
こんな私に言われたくはないだろうが、それでも言う。
「自分が何の病気か・その疾患名は何か・いつ手術したか・何という病院に行っていたのか」
くらいは知っておいた方が良い。
というか、たとえどんなに調子が良くとも、病院との繋がりは断たない方が賢明だ。
私は結婚以降も、それ以前にお世話になった病院へも帰省時期に合わせて年に一度は通っている。
ずっとお世話になっていた主治医が退職してからもだ。
これは何のためか、とにかく病院との繋がりを切らないためだ。
「実家に帰省中に何かあっても、受け入れてもらえるからね」
とはこちらの医師の言葉だけれど、実際これが一番大きい。
その病院には私の小さい頃からのカルテがある。ある程度の経緯がわかるのだ。繋がりができていれば一時的にせよ入院は可能となる。
それと同じなのだ。
年に一度でも病院に行けばカルテが残る。
多くの患者を診ているから医師の記憶に残るとは言えないが、何かあって入院したら「ああ、あのときの」くらいには思ってくれるかもしれない。
そして何より、その年に一度の検査で、逆流だったり不整脈の増悪だったりの変化を発見してもらえる可能性がある。
早く変化がわかれば、早く手が打てる…かもしれない。
ある日突然命の危機に直面する、という可能性は若干減るだろう。
先天性心疾患は、一時的に治ったとしても、それは「完治」ではなく、「状態が安定した」だけに過ぎない。
医師たちの言う「治してあげる」は
「生活するのが苦しくならない程度に状態を改善させてあげる」
という意味合いだと私は捉えている。
治らないのは不幸か
手術を受けると「治ったんでしょ」と言われる先天性心疾患の人は多いだろう。
なぜみんな 手術=すっきりサッパリ治る と考えるのだろう。
私は車いすを使っていたので、なんとなく「治ってはいないんだな」と思われていたらしく、「治ったんでしょ?」という質問はなかった。
が、代わりに「手術しても治らないんだねぇ」としみじみ言われたことがあった。
うーん、まあ、確かに治らないねぇ。
でもそんなしみじみ言わんでも。
治る、というよりも、私にとって心疾患は
一生付き合っていくしかない同居人、みたいなものかな。
厄介で、癇癪持ちで、気ままで、できれば別れたいのに腐れ縁でずっと一緒で。たまに態度が改善したと思ったらまたふてぶてしくなる。そしてそのふてぶてしさは回数を重ねるごとにパワーアップ。
…なんか、文字にするとどえらいひどいヤツに捕まった感じがする。
もう少し適切な表現があれば良いけれど、今の私の状況を例えようと試みると、こんな感じになってしまう。
☆
本当に、どうしてみんな手術をすれば治ると思うのだろう。
入院すれば治ると思うのだろう。
退院したらみんながみんな「快気祝い」を贈れると思っているのだろうか。
快気祝いは「病気やケガが全快したことを喜んで、その報告やお見舞いのお礼を兼ねて贈る内祝い」なんだそうだ。
…確か、私の一度目の手術のときは、退院した後に両親が快気祝いを贈っていた気がする(血液の確保などにも尽力してもらったので、親戚にだけ)。
その後、した記憶がない。
だって快気祝いを贈ってもあっという間にまた入院するんだもん。
もはやどのタイミングで快気祝いを贈れば良いのかすらわからない…。
そういえば快気祝いに洗剤を贈ると良いと聞いたことがある。
「病(障害)で辛かった体験を洗い流す」とかいう意味合いがあるとか。
私も、全力で洗い流したい…笑
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そして、治らないと気の毒がられるのはなぜだろう。
私は、先天性心疾患に限らず、他の疾患でも障害でも、治らないことはかわいそうだと思われがちなのが不満だ。
治らないことは不幸ではない。
疾患や障害の当事者、その家族が「いつまでもこんな状態は辛い」と思う気持ちはよくわかる…つもりだ。
でもそれを第三者から「治らないなんて本当にかわいそう」だとか「いっそのこと死ねたら楽だろうね」などと言われるのは許しがたい。
もちろん、いろんな想いからそういう言葉を発している人はいるだろう。
でも、疾患や障害のある人たちと関わったこともない人たちが上辺だけで言うのはどうなんだろう。
先だっての嘱託殺人の際、「治らない病は気の毒で不幸だ。死ぬ権利を与えたら良い」という意見が多かったのを見て、それは確かにそうだと私も感じている一面はあるけれど、そのムードだけが先行するのは怖いと感じた。
世の中の疾患や障害のある人たちは、治らない人の方が大多数だ。
それでも大勢が生きている。
死にたいと思うこともあるけれど、自分なりに人生を豊かに生きていきたいと願うからだ。
死ぬ権利が叫ばれるけど、人にはなにより、生きる権利があることを忘れてはならない。
治らないことは不幸ではない。
☆
そもそも、治る治らないの二択にすることに無理がある。
みんな、曖昧なのではないか。
先天性心疾患も、ほかの疾患も、障害のある人も。
疾患や障害の程度が、一時的に改善したり、一旦は症状が落ち着くことがあるかもしれない。
でも治るわけではなくて、その「一時的に改善したり症状が落ち着いた」状態をできるだけ長く維持できるように、経過観察や投薬や何らかの治療を続ける必要がある。
それでも年齢を重ねて行くほどに緩やかに衰えて行くことは避けられない。
細く長く、終わらない闘いだなとときどきため息が出てしまう。
それでも、私の人生は不幸じゃない。
だから、治るとか、治らないの二択じゃなくて。
とても曖昧で、ハッキリした色に分けることができなくて。
それはまるで、パステルカラーのようだなと思う。
そしてパステルカラーと一口に言ってもいろんな色があって、同じピンクでも色味が少しずつ異なるし、濃淡はそれぞれ違う。
人もそれぞれ曖昧さが違う。
治る治らないではない、それでもなんらかの言葉を見つけろと言われるならば、私たちはパステルゾーン(造語)の住人ってことでどうだろう。
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最後に言っておきたいのだけれど、私は今現在「治ろう」と努力をしている人や「治った」と思っている人の考えを否定する気はさらさらない。
ただ思うのだ。
「治る」「治らない」
その二つだけに固執するとしんどいのではないかと。
曖昧でいいじゃない。
長生きできるなら、それでもいいじゃないの、と。
そして願わくば、一番言いたいのは、
周りの人たちも「治る」ことが一番素敵だとは思わないでくれると、ありがたい。