高校を辞めたとき
通学制の高校に通っていた私。
高2になってさほど経過していないある日、私は学校でこけた(ころんだ)。
確か、新入生の前で部活動の紹介をすることになっていて、茶道部だった私は体育館で他の部員と共にその準備をしていたのだ。
私は先天性心疾患(生まれたときから心臓病)なのでたくさん歩くことができない。だから長距離移動には車いすを使っていた。
そんな私、そのときは体育館までの移動は車いすを使って、準備する場所では他の子たち同様歩いていたし立っていた。
それで、何かを運ばなきゃいけなくて…急いでそちらへ向かおうとしていたときに躓いてこけた。
膝を擦りむいたけれど、頭を打ったわけでもない。
持っていた絆創膏を貼った(ちなみにこの頃抗凝固剤は服用していない)。
そのあと無事に部活動紹介はしたと思う。
内容そのものについてはあまり覚えていない。
この段階ですでにぼんやりとした頭痛はあった気がする。
気合いでなんとか乗り切った。
☆
その「こけた」ことが引き金だったらしい。
私は教室に戻ってからどんどん気分が悪くなり、トイレで吐いた。頭の痛さが増していた。
偏頭痛持ちではあったけど、そういうのとは違う感じがした。
目の前がチカチカする(閃輝暗点:せんきあんてん)のは同じだったが、決定的に違うは目の前が時間の経過とともに真っ黒になって行くことだった。これまでそんな経験はなかった。視界がどんどん狭まる。
こけたことで、どこかに生まれていた小さな血栓が脳に飛んだのではないか。
そう思ってヒヤリとした。
母に迎えに来てもらって早退、吐き気が治まらず病院へ行った(結局血栓ではなかった)。
それでも私は救急外来で診てもらってすぐに帰る気満々だった。
でも主治医から出た言葉は「入院」だった。
入院が決まったとき、私は主治医に
「すぐ帰れますか?」と聞いた。
学校を休み続けるのが嫌だった。
新学年になったばかり、このままではクラスの中の人間関係が出来上がってしまうし、勉強も追いつけなくなる。
主治医は「2~3日で帰れると思うよ」と言ってくれた。
気がつけば、あれよあれよと言う間に2~3か月が経過していた。
主治医が悪いわけじゃないけど、ちょっとだけ恨んだ。
一時的に家に帰ることはあった。
でも学校へ行ける状態ではなく、入退院を繰り返してばかり。
このままでは単位が足りず進級できないことが明白だった。だからひとまず休学した。
そして最終的に、退学を選んだ。
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先天性心疾患の私が通学制の高校に通うためには勉強以外の関門があった。
私は小学生の頃から教室移動には車いすを使い、階段は先生たちにおんぶしてもらい、トイレに近いところ(私がゆっくり歩ける範囲)へ教室を配置してもらっていた。
そういうことは、義務教育だから成せた技でもある、と思う。
高校は当然ながら義務教育ではない。
果たしてそんな手のかかることを、高校側がしてくれるのか。
体育の単位も望めない。どのような形で成績をカバーするのか。
そして何よりも。
私は心疾患だから、向こうにとっては「学校で死なない」ことが一番大切になる。
高校側へ、中学の先生の力を借りながら「入学した場合」の私の対応について検討してもらった。
難色を示されたら一発で受験そのものが無理だ。
私には直接見えてこなかったけど、中学の先生たちがたくさん努力してくださったのだと思う。
受験することは許された。
それでも、高校側から表面的にはOKをもらいながらも、試験で落とされる可能性はあった。ここまでくると成績うんぬんは二の次だったように思う。
先生たちと相談しながら、滑り止めの私学の高校は必ず受かる、かつギリギリ通える範囲のところを選んだ(予定通り私学の高校は受かった)。
「たぶん大丈夫だろう」とは言うものの、先生たちも確信はない。
だから合格が確定するまでは、みんなドキドキしていた。
高校が決まったとき、本当にホッとした。
念願叶って高校に通学しだして、友だちもできた。
義務教育ではないからいろいろと勝手が違ったし、勉強も大変だったけれど、楽しかった。
中学生の頃から続けていた茶道も続けることができたし、大きく体調を崩すこともなかった。順風満帆かのように思えた。
でも体重は徐々に増え始めていて、あれは元気だから太ったのではなくおそらく浮腫みであり、私は緩やかに静かに、でも確実に体調を崩してたのだろう。
今考えればわかる。
私は現在21.5〜22cmの靴を履いている。けれども私はあの頃、23cmの靴を履いていた。
制服の上着もとてもキツくなっていた。
単純に太ったのかなと思っていたけど、全て浮腫みだったわけだ。
入院が続く毎日。
「勉強が遅れる。どうしよう」と焦った。
だから休学を決めたときは正直ホッとした。
けれど内心、来年からは友だちが先輩になり、後輩のつもりだった年下の子たちの中で勉強するのかと思うと、少し気落ちした。
年下の中で一から人間関係を築く必要が出てくるのだ。
疾患持ち+年上。よくあるマンガの主人公みたいだけれど、現実はそんなに甘くないだろう。
ああ、「浮く」だろうな。そう思った。
この一年は何だったんだろうな。
頑張ってきたのにな。
うまく行かないな。
でも誰にもぶつけられない。
やりきれない。
☆
季節はそろそろ春。再びの春。
決断する時期が来ていた。
再度休学するのか。
それともなんとか通い始めるのか。
この頃の私の体調は「ひとまず落ち着いた」状態だった(退院できていたかは覚えていない)。
でもまだまだ不安定で、とても勉強に集中できるような状態ではないと感じていた。
「もう無理だ」としか思えなかった。
高校を辞めようと思うと伝えたとき、父も母も反対はしなかった。
親から見ても「無理だろう」と感じていたのかどうかは知らない。
でもともかく私は高校を中退した。
私は中卒の、特に何も持っていない18歳になろうとしていた。
中卒であってもきちんと仕事や目標に向かって頑張っている人はいる。
そういう人たちを私は凄いと思うし、中卒であることを否定するつもりは毛頭ない。
ただ私は自分が高校に通い続けるものだと信じて疑わなかった。
大学にも進学すると思っていた。
想像していた未来とは違っていたから、「特に何も持っていない」という想いを強くさせた。
中卒を蔑む意図はないことをご理解いただきたい。
あのとき、私は心が折れたのだと思う。
不安定な体調の影響はもちろんあったけれど、正直もう一度、高2をやり直してあと二年学校へ通い続ける気力を失っていた。
再度休学して二年遅れで学生をする道もあったろうが、卒業する頃には二十歳を過ぎているのかと思うと耐えられなかった。
もう頑張るのが嫌だった。
精神的に弱いと言われてしまえばその通りだ。
私は弱かったのだと思う。
私以外にも、高校生で長期入院する子など山ほどいるだろう。彼らはそれでも復学して、体調と折り合いをつけながら頑張るのかもしれない。
いや、おそらくそういう人たちの方が大多数なのだろう。
だから確かに、私は弱かったんだと思う。
でももう頑張れなかった。降参だった。
☆
ではあのとき退学したことを後悔しているか、と聞かれたら答えは「後悔していない」だ。
退学してから私の体調は徐々に安定して行った。もちろん入院中のいろいろな治療が功を奏したからだけど、それだけじゃなくて、自宅療養による「体(心臓)を休めた」ことが大きいのではないかと推測している。
その後もなんやかんやと入院することはあったし、だから退学したことはそこそこ賢明だったと思う。
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今、あの新型の影響で多くの学生さんの学びが揺らいでいる。
そんな中、中止になったいろいろなスポーツ大会の代替試合が行われているニュースを見た。多くが高校生だけれど、彼らは皆言うのだ。
「こんな状況で試合ができたことに感謝しています」と。
なんて大人なコメントだろう。なんと賢い子たちなんだろう。
最近の高校生はこんなに思慮深いのかと驚かされた。
だけどその答えに辿り着くまでにはきっといっぱい葛藤しただろうし、辛かったと思う。
もしかしたら納得はできていなくとも、そう言うことで周囲の期待に応えようとしているのかもしれない。
更に言えばこの感染症は現在進行形であり、彼らの生活はまだまだどう転んでいくかわからない。不安だとも思う。
彼らと私とでは全く事情が違う。
私は言ってしまえば自分の事情だ。
でも彼らは「巻き込まれた」のだ。
ただ、あの頃の自分の気持ちを重ねてみると切なくなる。
この状況下、「命が一番大切だ」という言葉をよく耳にした。
そんなことは、わかっている。百も承知だ。
あの頃の私もわかっていたし、現在の彼らもわかっているから我慢している。納得したふりをしている。
でも当たり前だと思っていた日常から零れ落ちてしまうのは辛くて悲しい。
☆
私はその後、10年近く経過した頃に通信制の高校に編入した。高校1年の単位はそのまま認められ、高校2年生からやり直し。
二年で卒業できた。
失った2年間を、そのときようやく取り戻したのだと思う。
そしたら急速に、「あの頃の私、大変だったなぁ」と思えた。
もう一度あの頃と同じ体験をしたいかと言われたら「絶対に嫌」だけれど、あの頃はあの頃だったのかなと感じられるようになった。
先ほどの彼らは、代替試合で失ったものを埋めることができただろうか。
埋めることができて、だから周りに感謝できているのなら良いなと思う。
一方で、失ったものを埋めることができないままの子たちだってたくさんいるだろう。
いつか、何らかの形で埋めることができたら良いと思う。
それはきっと簡単なことではないし、残念だけど埋まらないままの子も出てくるだろう。
それでも彼らが大人になったとき、
「私たちが学生の頃は大変だったよなぁ」とほろ苦くも、笑顔で言える日が来ますように、そう願っている。