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お疲れさまと言いたくて

私は先天性心疾患(生まれたときからの心臓病)だ。
先天性心疾患は心臓の形や機能に異常が見られ、正常な心臓のはたらきができない。
昔は先天性心疾患の子どもたちの生存率が低かったが、医療技術の進歩や生活水準の向上により、成人以降も生存が可能となる人が増えた。

私も、そんな成人以降も生きている一人だ。
とはいえ、先天性疾患の人がヨボヨボの高齢者になるまで生きることは稀であり…正直なところ、一般的な日本人に比べて、その寿命は短い。



先天性心疾患はそれぞれの状態や体調に合わせて自分なりのペースで生活している。
大人になり働くことができる人もいれば(と言っても不安定な体調と付き合いながら仕事をすることは厳しいだろう)、家で過ごすことを目標として毎日体調を整えようと努力している人もいる。
抵抗力は弱く、風邪等の感染症に罹ると肺炎になってしまうこともあり、ちょっとしたことで体調を崩すことがある。
加えて年齢を重ねると共に徐々に心臓機能は低下していく。
だからその時々に適した治療(内科的・外科的)を行うのだけれど、治療すれば状態が即改善というようにはならない。以前よりも心臓機能は低下していても「まずまず現状を維持」できたらそれで上出来、そんなときが増えてくる。
そんなこんなを繰り返しながら生きている。

ある日突然倒れてそのまま亡くなる。そういうケースはある。
でも大抵は、調子を崩して入院、いろいろ治療を行うけれど改善されることなくそのまま他界というケースが多いだろう。



私は患者会に属しており、先天性心疾患の友人・知人がたくさんいる。
それだけたくさんの先天性心疾患と出会っていると、残念だけどそうした友人や知人を見送る機会もまた多い。
だけどこれは、私に限らず先天性心疾患の友人・知人がたくさんいる人は皆そうだろう。おそらく、同世代の人と比べて喪服を着る機会や弔電を送る機会は多い。

悲しいけれど、それが現実だ。

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数年前のあるとき、Aさんが亡くなったとの報せを受けた。

Aさんはハキハキした、体調が悪い時期もかなりあったようだけど、可能な限り外出し旅行するような活動的な人だった。
私はAさんと懇意にしていたというほどではなかったが、それでも報せを受けてショックだったし、また素敵な人が旅立ってしまったと悲しかった。

私にはBちゃんという友人がいて、その子はAさんと親しくしていた。
AさんとBちゃんは、とある芸能人が好きという共通点があった。
Bちゃんによれば、Aさんはネット上にある、その芸能人が好きな人たちのサークル(グループ)みたいなところでも積極的で、みんなから慕われていたそうだ。
ライブ等でリアルに会っていた人もいたらしい。

そんなAさんの死は、サークル内にも衝撃を与えたようだった。
Aさんが心疾患であることを把握していた人がどれだけいたのかは知らない。
ただ、車いすを使っていたことは直接会ったことのある人は知っていて、なんらか疾患持ちなのだろうという認識はあったらしい。

Bちゃんは言う。
「みんな悲しんでるねん。でもなんて言うか…違うんよ」

「違う?」

「うん。

『悔しい』
『信じられない』
『なんでこんなことに』
『なんとかならなかったのか』
『もっと頑張って欲しかった』

…とか」

「ああ、そうやね。違うね」
「でしょ?」

彼らの言う言葉に嘘はないし、間違いではない。否定するつもりもない。
それはわかっているけれど…違う、のだ。

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私たちだって悔しい。悲しい。残念でならない。
なんとかなって欲しかった。

でも、私たち…少なくとも私とBちゃんは想うのだ。
誰よりも悔しいのは私じゃない。
本人だ。
ご家族だ。
何とかなって欲しいと心底望んでいたに違いない。

そしてAさんは頑張っていた。
子どものときから頑張って生活を送ってきた。
もちろん楽しいことも嬉しいこともたくさんあっただろう。だけど体調を整えながら生きて行くということはなかなか難しくて努力が必要だ。
そうして頑張って頑張って、頑張り続けて、最期のその瞬間までこれ以上にないくらい頑張っていたはずだ。
そんな人に「もっと頑張れ」などと声をかけることはできない。

「頑張ったね。しんどかったね」
「もう辛くないよ。ゆっくりできると良いね」
「本当にお疲れさま」
そう思っている。

Bちゃんはこうも言っていた。
「なんかさ、死に対しても捉え方が違うねんなぁと不思議な感じやったわ」

本当だね。
死をどこか遠くで、けれど常に感じている人たちとそうでない人たちでは、そりゃ違って当たり前だよね。

それに、もし事件や事故で大切な人を失ったら…「悔しい」と共に怒りの感情が勝るのかもしれないなとも思う。

「死」は誰にでも平等に訪れると言うけれど、その最期の有り様は様々で、やはり平等とは言い難いように感じている。

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私がお通夜や葬儀・告別式に参列する機会はあまりない。

距離の問題、体調の問題。
駆け付けたいと思うときでも、自分の体調が阻む。
弔電を送り、お花を贈り、心の中でお別れをする。
それが常だ。

でもとても親しくしていて、どうしても行きたくて、何とかなるときには参列するようにしている。
もちろん参列中に私の体調がおかしくなるなんてことは迷惑以外の何物でもなくて、だから家に帰りつくまでは何が何でも元気でいる。

参列すると、ご家族(ご遺族)は悲しみの中におられるのに、こちらに気を遣ってくださるのだ。

「まあ、わざわざ来てくれたの?ありがとうね。無理しちゃだめよ。ほら、あそこに座って…」
とか、

「遠かったでしょ。来てくれて嬉しいわ。でも疲れが残らないようにしてね」
とか。

私はその優しさがありがたくて、悲しくて。

泣き崩れているご家族はあまりいない。
目が真っ赤で、お化粧も剥げていて、それでも努めて平静であろうとしておられる。
たぶん、それまでにもう、たくさんたくさん泣いていたのだ。

「〇〇、頑張ったのよ。偉かったでしょ。それに最期はそれほどしんどそうじゃなかったの」
穏やかに話されるご家族。
たいていが少し微笑みながら話されている。
そしてどこかホッとしているようにも感じる。
いろんな想いがあるに違いない。
けれどようやくたくさんの辛さから解放された子や伴侶に、悲しいけれど、それでも頑張ったからもう良いよ、そんな気持ちなのかなと想像する。

出棺前にお顔を拝見できるとき、私はそっと言うようにしている。
「お疲れさまでした。またどこかでね」
できれば笑顔で送りたくて、笑おうとするけど涙が止まらなくて、それでも必ず「お疲れさま」と言うようにしている。

皆、たいてい穏やかなお顔だ。
そのお顔に少し安心する。

お疲れさまでした。
もう頑張らなくて良いからね。

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悲しみは、歳月によって薄まることはあるかもしれないけれど、消えはしない。

例えばとても苦い粉薬、そのまま舐めたらとんでもなく苦い。
水で薄めて、たくさんの水で薄めて、抵抗なく飲めるようになったとしても、その本質的な苦みは消えたりしない。
適切な表現かどうかはわからないけど、私は悲しみも同じようなものではないか、そんな想いでいる。

お通夜、葬儀・告別式では割と落ち着いておられた(落ち着かざるを得なかった)ご家族がだんだんと悲しみの中に飲み込まれたとしても、それは当たり前だと感じている。

だって家族ではない私であっても、不意に故人を思い出して、悲しいような痛いような、でも楽しかったこともあって懐かしくて…いろんな感情に捉われる。
大切な人を亡くしたご家族が揺れ動くのは当然なのだ。

だから
「ほら、ずっと悲しんでいたら〇〇ちゃんが心配するわ」とか
「何年経ったと思ってるの。早く気持ちを切り替えなさい」
なんてことは、あまり言わないで欲しい。

そりゃ毎日毎日悲しみの中で過ごしていたら心配になるし、なんとか少しでも元気になって欲しいとは私も思う。
でも、ときどきブワッと沸き立つその悲しさを、悲しいのだと言って何が悪いのかなとも思う。

大切な人が亡くなること、それはとても辛い。
どんな亡くなり方であってもそれぞれに辛さや、もっとこうしてあげられたのではないかという後悔のような気持ち、悲しみがある。

諸外国がどんなものか私は知らない。
でもイメージ的に、泣きたいときに泣いて良い環境にあるように思う(違ってたらごめんなさい)。
日本人にはどうも「我慢が美徳」の意識が強くて、涙を見せるのは憚られるような気がする。
長い時間悲しんでいると「いつまでもメソメソしないの」って空気になるのはなぜだろう。

友人・知人が亡くなったとき、私は彼らに
「お疲れさま」
と言いたい。

それと同じように、ご家族に対して
ずっとそばで大変だったのではないですか。
お疲れさまでした。
そう伝えたい。
でもご家族としては「大変でも苦労でもなかった」そう思われて、むしろ反発されるかもしれない。
だから直接伝えることはしないのだけれど、それでも。
本当に、お疲れさまでした。

そして、悲しいときはあるだろうけど、ご家族が心穏やかに過ごせる日が、楽しいと感じる日がたくさんあると良いなと願っています。

見送られた側の努力や頑張りが、短くとも輝いた人生が、いろんな人に伝わっていますように。
見送った側に続くその後の人生が、心豊かなものでありますように。



※こういう協会もあるようです。


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ぱきら
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