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1年半と対話と、今思うこと


「オープンダイアローグ(開かれた対話)で、生きていく。」

と意気込んで前職の家庭裁判所調査官を辞めて、あっという間に1年半が経った。

この1年半で、本当にたくさんの人と対話させていただいた。
対話の場をともにした人は、300人くらいになる。

そこで聴かせていただいたたくさんの方々の声は、とてもカラフルで、血が通っていた。


人生背景が詰まった「生きた」言葉でありながら、「今ここ」でしか出せない移ろいゆく儚さを持っていて、それもまた「生」を感じた。


だからこそ、聴く人たちの心が揺さぶられ、気づきが生まれ、心の底から湧き出る敬意や応援が生まれたのだと思う。

生の声は、それだけ尊く、パワフルだ。



「あぁ、敵わないな。」

私はよく、対話の場でこう思う。

自分の人生経験はとてもちっぽけで、知らない世界のなんと多いことか。

自分の価値観がどれほど、たくさんあるうちの一つにすぎないか、ということを知った。

だから、対話の場を開くのは、楽しいだけではなかった。

人とかかわることは、あたたかさの交換・循環でありながら、否応なしに自分の痛い部分に目を向ける行為でもある。


他者を通して、「自分」が浮き彫りになる。
自信を失うこともあったし、でもそれすらも受け止めたい気持ちとで、ずっともがいてきた。

だけど、対話は、自分以外の誰かになるために自分を変える場ではなく

自分の良いところも悪いところもただ眺めて(認めて)、ともにいる・ともに生きるための営みなのだ。


だからこそ、ひとりではなくみんなでするのだ。
ひとりひとりが違う色や輝きを持っているからこそ、活かし方も違う。

その「違い」を差し出し合うからこそ見える景色があるのだ。
みんながいるから、向き合う怖さにも耐えられるのだ。


自分が目指す場の在り方を、
誰よりも自分が体現すればいいのだ。

と、心の底から思えた。



「どうすれば、対話的な場になるか」

を考え続けた日々だった。

こんなにも正解のない「自分のあり方」を模索したのは、初めてだった。

もっと場の流れをリードすべきだった。
あの人のあの発言は、止めた方が良かった。
あの時、もっと気の利いたことが言えていれば…。

そんなふうに「どうすべきか」にばかり目が向くときは、たいてい「どうあるべきか」が後回しになっている。


それに気づいて、意識を身体に向けると
自分が返ってくる。

わたしは、対話的でありたいんだった。

ただそれだけだった。

すごくいいことを言えなくていい。
完全に理解しなくていい。
的確なアドバイスができなくていい。

ただともにいて、対話をしていたい。
もっと平たく言うと、ただ同じ場にいると感じたいのだ。

対話は、一体感を感じるためのもの。

一体感は、わたしたちに「生きている」実感をくれる。

究極までいけば、
ひとりぼっちでも一体感を感じられるのかもしれないけど、わたしは、人を通して繋がりを感じたい。

そんな温かみの中に身を置いていたい。



やっぱり、対話が好きだな。

対話という行為よりも、対話というあり方が好きなんだな。


そう気づけた1年半でした。


さて、ここからはネクストステージ!!

対話という行為をただ繰り返すのではなく、
対話というあり方を深めていきたい。


仲間を集めて次の旅へ!いきます。
一緒に行こう!!!😆

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