西武線と「石神井火車站之碑」
九十年代の中頃、西武池袋線とJR山手線が重なる辺りのマンションの一階に住んでいて、窓の向こうにはすぐ線路が見えていた。工事があったのは引っ越した後だったが、池袋に向かう線路が高くなり、現在はマンションを見下ろす位置関係になっている。今でもここを電車で通過するたびに不思議な感覚に陥るが、鉄道のような巨大なインフラで、新しく線を引く人はどんな心境なのだろうか。
西武池袋線・石神井公園駅の南側、イチョウの木の横に「石神井火車站之碑」が建立されている。中国語で「火車」とは汽車で、「站」とは駅の意だ。これは1915年の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の「石神井駅」開業を記念した碑で、練馬区の登録文化財でもあるらしい。石神井火車站之碑が完成したのは五年後の1920年であるが、ざっと100年前の話である。
碑に刻まれている銘文も漢文で、石神井の紹介や、鉄道の利便性を記した内容からは、中国との特別な縁は読み取れない。漢文にしたのはその時の流行りなのか。威厳があるし、リズムは感じられる。
当時、駅名が「石神井駅」だった点もポイントだ。開業後、観光開発が活発化し、1933年には現在の駅名に変わった。郊外の行楽地を期待された石神井の命題がここにも見られる。同じ年、豊島駅が「豊島園」に、貫井駅は「富士見台」に、学園の誘致を目指していた東大泉駅が「大泉学園」に改称された。今の西武線が豊島園駅を中心にハリー・ポッターに夢中になっているのと似ていなくもない。
郷土史家の葛城明彦氏によれば、もともと駅舎があったのは、現在の居酒屋「かぶら屋」付近だったそうだ。記念碑が現在の駅舎から離れているのもそのためかもしれないが、名残はない。かぶら屋が開店したのは2016年のようだが、ここが以前どんな場所であったか思い出せない。
駅を高架化する際、記念碑はわずかながら西に移設された。イチョウの木と比べるとそのようだ。
記録によると、石神井公園駅が今ある場所で、高架駅として完成されたのが2012年。上り下りとも最終的に高架化を果たしたのは2015年1月ということになっている。当時はどこかで何かが取り壊されると何かが出来てという具合だったから、正確な年は、調べて初めてそうかという感じだ。一斉にオープンとはいかなかった。
以前の駅舎も体験している。体感的には大変不便だった。高架以前には踏切が残っていて、南側の住民だった私に北口周辺の印象があまりないのはそのためかもしれない。今は広々としたロータリーがあり、高架線路の下を自由に渡れるので、地域一体化という面では駅は貢献している。
個人のブログでその頃の工事の進捗を丹念に追われている方がいて、振り返るには大変有難い。それを見ると、南口の風景は2009、2010年ぐらいで大きく変わった。ネットには写真や動画が残っているが、道も変わっているから、過去の景色を現在のものに重ね合わすのは難しい。十年そこらの変化でも思い出せないわけで、百年経てば根本から違うのも当たり前だろう。
変わったのは駅と線路だけではない。2008年には東急メトロ副都心線の乗り入れが始まった。2013年にはダイヤ改正で東急東横線、みなとみらい線に乗り入れ、西武池袋線は横浜の元町・中華街まで直行運転出来るようになっている。埼玉県南西部と東京と直結させるためだった鉄道が、まさか横浜まで延びるとは、記念碑を建てた人にも想像がつかなかったはずだ。
桜台~石神井公園駅間の連続立体交差化は、もともと1971年の都市計画決定が始まりだという。以来、間にバブル期を挟みつつ、着々と工事は進められ、何とも息が長い。
次に控えるプロジェクトは西武新宿線の井荻~西武柳沢間の高架化であろう。小さな踏切や駅前の大混雑を考えれば、歓迎すべきところだが、事業期間は2037年度まで。側道整備は2039年度までの予定らしい。およそ五キロ区間の解消にこれだけの時間が割かれることに、付近の住民は何を思うか。
中学生ぐらいの頃から、東京ではいつもどこかで大きな道路や鉄道の工事を見てきた気がする。終わらない。インフラ整備というものの果てしなさに気が遠くなる。
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