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石神井の紅葉と記念庭園

 紅葉が遅れたことは、ニュースなどでも取り上げられている。今年はいつまでも夏の暑さが続いたが、木々の葉を色づかせるには朝の冷え込みが必要とのことだ。場所によっては秋らしい景色を冬のイルミネーションが追い抜いた。おかしな気分どころか、不安になってくる。
 
 そんな紅葉も、十二月になると石神井公園もなんとか恰好がついてきた。「赤や黄色の~」の唱歌ではないが、黄色の方では石神井池(ボート池)のほとりのイチョウは今年も美しく輝いている。公園の「草地広場」の近くに、立派なイチョウがあることは知らなかった。そばのグラウンドで野球に興じる子どもたちは、秋の深まりに気づけているだろうか。

「草地広場」の近く。横は運動場

 例年、三宝寺池の周りは、紅葉が水面に映りこんで見事だ。遊歩道を歩けば、それなりの確率でカワセミに遭遇できるし、そうした散策の楽しみに加え、写真撮影にも最適な場所である。全国の名所と比べれば、紅葉にそこまでのスケール感はないが、何より人混みがなく、場所を奪い合う必要がないのが宜しい。

三宝寺池。色にばらつきがある

 石神井公園で一番きれいな紅葉だと思うのが「記念庭園」のイロハモミジだ。旧早稲田通りから石神井公園通りに入った通り沿いにあり、石神井公園に組み込まれている。
 緑が深く、昼間も薄暗い。真ん中に池があって、思いのほか起伏がある。たいていはとても静かだ。朝のバードウォッチングや、体操をしている人もよく見かける。
 入口に案内も出ているが、記念庭園は地元の資産家であった豊田銀右衛門が、大正5年(1916年)に造成した「第二豊田園」に由来している。「第一豊田園」の方は、先んじて石神井池の北側台地上に開設された。こちらはかつてツツジが植栽されていたそうで、今も池のほとりでツツジを見るのは、そうした経緯からかもしれない。大正4年(1915年)、西武池袋線の前身・武蔵野鉄道の池袋―飯能間が開通した。豊田園には観光開発の意義があったのではと、案内版にも記されている。
 その後、第一豊田園は宅地化され、第二豊田園の方は都が土地を取得し、昭和53年(1978年)に「記念庭園」と名をあらため、開園するにいたった。

木々の生い茂る「石神井公園記念庭園」

 特筆すべきは、昭和8年(1933年)、高浜虚子とその一派による俳句の吟行会がここで行われたことだ。あの高浜虚子である。現在の愛媛県松山市に生まれ、同郷の俳人・正岡子規に師事。俳句雑誌「ホトトギス」の主宰を務めるなど、俳壇の第一人者のひとりだ。

 高浜虚子や門弟らが、武蔵野の名勝・非名勝の地を探って百回の吟行を重ねた記録に「武蔵野探勝」(編 高浜虚子・有峰書店)がある。虚子一行が訪れた4月2日の模様は、その回の執筆を担当した富安風生が書き残している。
 当日はとてもいい天気で、サクラはまだ蕾のままであった。そんな中、豊田園で一番みんなの心を引いたのは、大木のコブシであったらしい。高浜虚子も「二本の辛夷の花のつゞきたる」という句を詠んでいる。

 今の記念庭園にコブシの印象はないが、そもそも秋に探す木ではないだろう。第二豊田園の頃は、中に休憩所があって、宿泊も可能だったそうだ。当時の面影を今も見つけられるか分からないが、公園の散策、あるいはボート漕ぎのついでに訪れるにはいいと思う。
「武蔵野探勝」は当時の武蔵野の魅力をあまねく伝えるもので、俳句ファンのみならず、地誌としても大変貴重なものとなっている。
 それにしても、高浜虚子の本名が「清(きよし)」であることは知らなかった。言葉を操る人には遊び心が必要なようだ。

秋の「石神井記念庭園」


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