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石神井と失われた川

 八月終わりに発生した台風の進路は、関東からみれば西にそれたものの東京でも連日の大雨。あまりの雨量に傘が役に立たず、ずぶ濡れになることもあった。地名の中には災害リスクを想起させるものがあるが、その通りなら「渋谷」も「池袋」も住めない。石神井の「井」なども水に関係ありそうだ。今回は石神井川で大きな被害はなかったと思うが、現在のように護岸工事が施されてなければ、どうなっていただろう。雨にたたられ、ずぶ濡れ程度であれば幸いとも言える。

水かさは増したが、余裕はある

『失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩 改訂版』(発行 実業之日本社)には「都心暗渠地図」という大判地図がついてくる。それを見ると、石神井周辺には石神井川のほかにも、井草川、貫井川、千川上水、田柄川・田柄用水が流れていた。
 古くからの地元住民でなければ、自分のすぐ近くに川が存在したことに驚くのではないか。知ってからは、坂道を下りていると「川に向かっているんだな」と納得するようになった。

 石神井公園駅の北側に「富士街道」がある。名前負けするような狭い道路なのだが、西に進んでいくと左手にこんもりした緑が見えるはずだ。「けやき憩いの森」といって、案内板によれば、昔は武蔵野特有の農家屋敷林で、土地所有者の厚意で区民に開放された場所だという。どこまでが当時のものか詳細は分からないか、ここには「田柄用水」の跡が残っている。
 今まで何度も富士街道を通ってきたが、道路の下にかつては用水路が流れていたことは知らなかった。
 けやき憩いの森の近くの交差点に地蔵が立っていて、練馬区のホームページによると、ここは「沼部の十字路」と呼ぶそうだ。当時から同じ場所にあるらしく、昭和31年(1956年)の白黒写真には田柄用水と橋が写っている。

 田柄用水の石橋跡(?)

 田柄用水が出来るまでの経緯は、練馬区土木部公園緑地課が発行した「みどりと水の練馬」に詳しい。武蔵野台地の中央部は自然の川にも地下水にも恵まれなかったことから、地域としての開発が遅れ、住民たちは玉川上水の分水である「田無用水」からの延長を懇願していた。
 田柄用水は明治4年(1871年)には一応の完成を見たが、予定通りの水が届かず、その後も増水への努力が続いたそうだ。当初の目的は水田灌漑であったが、後に水車経営に使われたり、生活用水に利用されたりと、長らく地域の生活を支えてきた。

 田柄用水が暗渠になった経緯には、飛行場建設が影響している。第二次世界大戦時、現在の光が丘に帝都防衛のための「成増飛行場」が建設され、住民の立ち退きが命じられた。畑や水田がつぶされ、上流部での水路破損により、一時は水が通わない状態になったらしい。
 田柄用水に再び水が流れるようになったのは、戦後、成増飛行場が米軍の家族宿舎「グラントハイツ」になってからである。一方、畑やもとは水田だったところに住宅を建て続けた結果、豪雨のたびに水害が起こり、衛生上の問題が起こるようになった。田畑に恩恵をもたらした用水が、目的を失うとともに「やっかい掘」と非難されるにいたるとは何ともせつない。
 昭和33年(1958年)、狩野川台風は関東地方にも甚大な被害をもたらし、それを契機に中小河川の整備が始まる。昭和40年頃には、富士街道沿いの用水の暗渠化工事が進められることとなったようだ。

富士街道。奥に「けやき憩いの森」

 不断の治水工事のお陰で、石神井に住み始めてから大雨で不安になった経験はほとんどない。一方、のどかだった暗渠前の水田や田園風景の写真を見ると、失ったものも大きかったように感じる。
 田柄用水につながっていた自然河川の田柄川も、川そのものは地表から姿を消し、下水と緑道に変わった。
「田柄川緑道」は、光が丘の「秋の陽公園」から川越街道を挟み、板橋区の「城北中央公園」へとつながっている。ところどころ当時川だった名残りが散見されるが、土地の記憶としてはかけがえのないものだ。
 川が田柄川緑道として生まれ変わったのは、昭和56年(1981年)だが、適宜改修も行われてきたようで、今後も工事が続けば、これら遺物がきれいさっぱり無くなる日も来るやに思う。

緑道の「棚橋」。橋の名残り


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