石神井の五味康祐
石神井図書館で、学芸員の山城智惠子さんによる「作家・五味康祐 人生は音楽とともに」という講演があった。五味康祐の生涯に関しては、「石神井公園 ふるさと文化館」のホームページにも詳しく書かれている。
関西で生まれ育った五味は、1952年から1956年まで下石神井に住み、その後も、西大泉、晩年まで大泉学園町在住と、練馬区ゆかりと呼ぶにふさわしい作家だ。当時の下石神井は現在の石神井町にあたる。最近、免許の書き換えで石神井警察署に行ったが、そこから富士街道を北側に渡ったあたりに住んでいたという。
1953年に「喪神」で第28回芥川賞を受賞するが、これは「或る『小倉日記』伝」の松本清張と同時受賞だ。松本は1954年夏に練馬区・関町に居住し、57年に上石神井に転居すると1961年まで住んでおり、彼らは比較的近くに住んでいたことになる。なお、五味には芥川賞受賞記念の時計を質店に入れようとした逸話があって、こちらは妻に隠されてしまったらしい。
私が最初に五味康祐を知ったのは、一連の剣豪小説の世界ではなくて、「ベートーヴェンと蓄音機」(ランティエ叢書)で読んだクラシック、オーディオにまつわる評論・エッセイ集であった。
石神井公園ふるさと文化館分室は、遺族が亡くなられた後、生原稿の他に、彼が持っていた音響機器やLPレコードなども一括して所蔵している。これらは「オーディオ遺産」と銘打つにふさわしいもので、コレクションからは、余裕ある優雅な生活しか思い浮かばない。
今回、あらためてエッセイを読み返してみると、彼の人生はそれだけではなくて、無名時代は困窮を極めていたことが分かる。
師走の風の吹く頃、「やつれ果て夢遊病者みたい」な状態の五味は、神田神保町のレコード店「レコード社」の前で、ラベルのピアノ曲を聴きながら、「ハラハラ涙がこぼれた。」という。
曲はラベルの「逝ける王女のためのパヴァーヌ」で、この時、店主に招き入れられたことが縁で、後に「新潮社の天皇」と称される編集者・齋藤十一氏の知己を得る。小説のような、なんともドラマチックな展開ではないか。
聴覚も不自由だったとのこと。作品や長髪で着流し姿の肖像写真だけでは、うかがいしれないことの方が多い。
残されたオーディオとLPを使ったレコードコンサートは、「ふるさと文化館分室」で、毎月第四土曜日を基本に開催されている。これは抽選で当たらないことも多いが、オーディオメンテナンスのため、毎週火・木曜日に音を鳴らしていて、こちらは申込みも不要だ。
考えてみると、作品以外で毎月毎週、作家の世界に触れられることの方が稀だろう。小説を読むに越したことはないが、こうした機会があることで、作家が過ごした時代の空気を感じとれる。
五味康祐の作品は多岐にわたっていて、人気を博した剣豪小説やオーディオエッセイの他に、エンターテイメント性の高いものもある。「一刀斎は背番号6」(1955年執筆)という短編小説は、武者修行中の剣豪がプロ野球で活躍し、ヤンキースとの対戦までするという奇想天外な快作だ。映画化までされている。五味は巨人ファンで、長嶋茂雄が好きだったらしい。
石神井にほど近い杉並区上井草には、かつて「上井草球場」があった。ネットに上がっている古い「広報 すぎなみ」によると、上井草球場は1936年、日本初のプロ野球専用球場として完成し、沢村栄治やスタルヒンもここで投げている。戦後まもなくして、杉並区チームと厚木基地の米軍との間では親善試合も行われたそうだ。
交通の便の悪さが響いたのだろう、球場では次第に試合が減り、五味が東京と京都を行き来していた頃には、プロ野球の開催自体が無くなっている。
現在球場は、1964年に取り壊され、いくつかの過程を経て、野球場ほか、体育館、プールなども備える「上井草スポーツセンター」へと生まれ変わった。今の上井草はラグビーの印象が強いけれど、五味はかつてあった球場に、一度くらい足を運んだことはあったのだろうか。