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荻窪、石神井で鰻を
小説家・井伏鱒二の作品の中では、しばしば実際の飲食店が登場する。阿佐ヶ谷文士たちの会合が度々開かれた中華料理店「ピノチオ」、荻窪のおでんの「おかめ」(「荻窪風土記」)や、東銀座の小料理店「はせ川」(「太宰治」)のように。はせ川は檀一雄の「太宰と安吾」では「はせがは」と書かれているが、ここで檀一雄は井伏鱒二と飲んでいた坂口安吾と初対面をはたす。
惜しいことにいずれの店も残っていない。今だって、村上春樹がいきつけだった喫茶店があると知ったら、ファンなら存続を願うだろう。
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井伏鱒二が戦争中に通ったおかめだが、鰻と言って出していたのは、実は雷魚の蒲焼だったらしい。騙されて怒るでもなく、淡々と書かれているところがクスっとさせる。筆力のなせる技、狙い通りかもしれない。
最近、浅田次郎が選者を担った「うなぎ」(ちくま文庫)を読んだ。作家たちの鰻にまつわる短編や俳句をまとめたもので、ここでは井伏鱒二の「うなぎ」が収められている。阿佐ヶ谷で買った生きた鰻を友人のいる熱海まで運ぶという、実際のエピソードなのか、少しは虚構も交えているのか、不思議なところもある作品だ。
文庫自体は美味礼賛と言うよりは、鰻を神秘的な食べ物に仕立てる物語が多く、「人情小説集」と銘打つのは違う気もした。
小沼丹が師・井伏鱒二について記した随筆「清水町先生」(ちくま文庫)でも、戦後間もない頃、荻窪の屋台の鰻屋さんでのエピソードを書き留めている。屋台というから、そこまで高級なものではなかったのではないか。井伏は鰻を割いて串に刺す様子を、ざっと三十分も飽かず眺めていたそうである。
井伏鱒二とうなぎは縁が深い。宮本徳蔵の書いた「文豪の食卓」(白水社)の中でも、井伏鱒二と鰻で一章が割かれている。足を運んだ店として紹介されているのが、西荻窪の「田川」と新中野の「小満津」だった。残念ながら「田川」の方は閉店されたようだ。
「文豪の食卓」では、荻窪のうまい店として、他に「東家」「安斎」「川瀬」が挙げられている。「川瀬」は私の周りでもファンが多い。カウンターで串焼きを食べることは、鰻重を味わうのとは別の楽しみがある。
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ウナギの天然の稚魚「シラスウナギ」が高値で取引されるようになったのはいつ頃からだろうか。「白いダイヤ」とも言われている。
引用が続くが、江戸の四大名物食の誕生を取り上げた「すし 天ぷら そば うなぎ」(ちくま学芸文庫)によると、幕末から昭和二十八年(1953年)ころまでは、もりそばの十倍がうな丼の相場だった。昨今は立ち食い蕎麦でも五百円くらいはするので、むしろ、鰻専門店の方が頑張っているとも言えるかもしれない。昔は店屋物で「ちょっとした贅沢」に収まっていたところが、今ではそれではすまない。
石神井公園駅のそばに「とりで(大衆割烹 砦)」という店がある。店頭に大きく「ようこそ我が家へ」と垂れ幕がかかっているから分かるだろう。以前は昼間もやっていたけれど、今は夜のみの営業で、鰻重も出している。
小雨降る夜、とりでで久しぶりに鰻を食べた。とりでは、今はない本店を含めると七十年の歴史があるそうだ。出来上がりを待つ間、駅前の再開発が話題となったのも自然な流れだろう。黒胡椒で美味しく頂いた。
石神井では、結局行かなかった鰻の店が上石神井の「澤田家」である。商店街を抜けた住宅街の中にあって、前だけはよく通った。
残っているホームページによると、昭和43年創業とある。閉店のことばとして、これまでの感謝を告げるとともに「店主の体力の限界につき」とある。半世紀以上、商売を続けられたということだが、一度もうかがえなくて、残念だ。
代わりに、ということもないが、破竹の勢いで出店している「鰻の成瀬」が、最近になって上石神井でオープンした。カウンター席もあるチェーン店だが、鰻に対するハードルは下がるかもしれない。鰻好きの日本人の舌にマッチし、この界隈でも根付くか。
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