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石神井から隅田川へ

 井伏鱒二の「荻窪風土記」の中に「洗礼を受ける者は、善福寺川の薪屋の堰というドンドンで水を浴びるので、ここの土地っ子は善福寺川をヨルダン川と言っていたという」という文章がある。荻窪に住んだ井伏が、天沼キリスト教会について触れた箇所だが、現在、騒乱の最中にあるヨルダンとイスラエル・パレスチナの境を流れるのが地理上のヨルダン川だ。宗教に由来した通称とは言え、遠く離れた外国の地名をすっと地元の川の名に持ってくるあたり、昔の人の方が国際感覚があったのでは、とも思ってしまう。善福寺川での釣りの様子も紹介され、いずれにせよ、当時東京ではもっと川と生活との距離が近かったようだ。

 一度、石神井川の源流を目指したことがある。小平市・小金井公園の縁が公式の上流端になるが、そこまで行ったとて、雨でも降らない限り、涸れたコンクリートの川底が見えるに過ぎない。石神井川は洪水対策で掘り下げられ、直線的に整備されている。もはや自然の川ではないが、春は川べりにソメイヨシノが花を咲かせ、川面に水鳥の姿が見えるのは、川に覆いがないからだ。

石神井公園付近の石神井川

 暗渠化された河川とそうでない川の違いが分からなかった。「東京『暗渠』散歩」(実業之日本社)によると、東京の中小河川に劇的な変化が起こったのは1960年代とのことだ。東京の人口が増加し、市街地化が郊外に及び、洪水は頻繁に起こり、下水道の普及が進まない中、河川の水源の大半を排水が占めるようになったらしい。そこで出されたのが、1961年の「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」、通称「36答申」であった。これが中小河川の暗渠化・下水道転用の節目の一つだったようだ。
「36答申」によると、水源を持つ川(神田川、善福寺川、妙正寺川、石神井川)は、暗渠化の対象外になった。現在、石神井川が曲がりなりにも地上に姿を見せるのは、こうした経緯があったわけだ。一方、数多くあった石神井川の支流は暗渠化され、もう元に戻らない。「変わりゆく」という言葉ぐらいでは言い尽くせないドラスティックさである。

暗渠化された「貫井川」あと

 先日、石神井川の終着点を見るために王子駅で降りた。飛鳥山公園には蒸気機関車「D51」が保存されているが、最近の子どもたちにも人気はあるのだろうか。ここは渋沢栄一ゆかりの地で、新一万円札を祝うのぼりが立っている。
 石神井川は西東京市、練馬区、板橋区、北区にまたがり、最終的には隅田川に注ぎ込む。上流部から中流部までは、武蔵野台地の北側を東へと続いている。地形的にはこのまま東南に進み、上野不忍池の低地へと向うのが道理だが、王子駅の辺りで台地を越える理由ははっきりしていない。旧石神井川は別の流路を流れていて、変更の理由は治水のための人工説と自然説があるそうだ。急こう配の坂の少ない練馬区と比較すると、この辺りの地形は実にダイナミックである。

飛鳥山公園のD51

 地図上、隅田川へは石神井川に沿って歩けばいいわけだが、これがなかなか難しい。ところどころ行き止まりで、右岸、左岸と探りながら進んだ。川に沿って、首都高速中央環状線が走っている。都内の川はどこもそのようなぐあいだが、抑圧的で、巨大構造物に萌えを感じる人は別にして、総じて風情はない。
 石神井川の下流にずいぶん水量があるのには驚いた。その二、三日は雨がなかったのに、いつもこんな具合なのだろうか。
 その日はとても暑く、しばらくの間、アスファルトの上を太陽に照らされた。迷い迷い行くと距離がある。「新堀橋」という小さな橋にたどり着くと、これまでとは違う大きな流れが見えた。
 石神井川の源流は、小平市の「小金井カントリー俱楽部」にあるらしい。近くに寄れないので実感はわかないが、ゴルフ場から湧き出た水が25キロの旅を経て、隅田川にいたるここが合流地点のようだ。もっとよく見たかったが、堤防に阻まれ、その日は川を見下ろすことは出来なかった。

遠くに隅田川が見える

 合流地点に近い新堀橋のたもとに「昭和三十五年三月完成」という柱が建っている。西暦に直せば、1960年。最初の東京オリンピックよりも前である。その後の東京の変化を思うと感慨深いが、橋のそばではまだ工事が行われていた。川が荒れて、都度水浸しになるのは困るし、設計は以前よりも環境に配慮されているらしい。昔よりもよくなったことは確かだろうが、昨今の激しい気候変動を踏まえると、槌音の響きは止むことがなさそうだ。

新堀橋のたもとで


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