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95.林檎【ショートショート】
私は林檎が大っ嫌いだ。
目にするのも耐え難かった。見ただけで吐き気を催すほどに。
ある日父が倒れ、入院した。呼吸器系の病気だと伝えられた。
面会の許可は割とすぐに下り、お見舞いに行くと予想に反してやたらと元気な父に迎えられた。
「入院なんて大袈裟なんだよ。まあ、臨時の休暇だと思ってゆっくりさせてもらうわ」
つまらない事を言う父に、怒るよりも呆れてしまう。心配して損したと思う反面、安堵に胸を撫で下ろした。
数日後。なかなか退院許可が下りない父は、味気ない病院食に飽きたと愚痴をこぼしていた。
甘いものが欲しいとねだられるが、病人にお菓子というわけにもいかない。じゃあ果物なら何が良い?と尋ねると、「お前が剥いてくれた林檎が良い」と変な条件を付けてきた。
何でよ、と嫌がってみせたが、後日林檎を買ってきて、目の前で向いてあげた。
父は「やっぱり娘が剥いてくれる林檎が一番だな」などと言いながら、美味い美味いと林檎を頬張る。
退院が何時になるか判らなかったが、また持ってくるからと病室を後にした。
それからひと月足らず後、父の意識が戻らないと連絡があった。
酸素マスクを着けて浅い呼吸をする父を確認し、医者に説明を求める。
癌だった。それも肺から様々な箇所に転移していて、運び込まれた時には既に手の施しようがないほどだったそうだ。
母も医者も、父から私には知らせないように止められていたそうだ。私だけが知らなかったのだ。私に悲しい顔をされたら耐えられないから、などと言われても納得出来ようはずがない。
「だって、一昨日もお見舞いの林檎を美味いって食べてたのに」
医者は言葉を選ぶように落ち着いて答える。
「お父様はあなたを心配させたくない一心だったんです。言い辛い事ですが、固形物なんて全く受け付けなくなっていらした。林檎は、食べた夜に吐いてらしたようです」
私はどの感情を抱けばいいのか判らなくなり、その場に崩れた。
だから私は林檎が大嫌いだ。
無知で浅はかだった私の愚かさに、怒りと苦しみで破裂しそうになるのだ。