「愛される」より「愛する」がいいのは
よく言う。「追われる恋愛の方が絶対幸せ。でも、追うのが好きなんだよね〜。」
自分が追っていると見せかけ恋愛論
とても分かる。
私も、追われるよりも、追うほうが絶対に好き。
そして、私と同様に追うほうが好きな友達と前に話したときに辿り着いた答えは、
「結局、人類みな追う恋愛が好き。」
さらに辿り着いたのは、
「皆追う恋愛が好きなのに付き合う人たちがでてくるという矛盾の答えとして、
自分が相手を追っていても、相手には追っていると感じさせることが重要である」
私たちは、追っていると見せかけて、追わせてくれているその人を好きになってしまう。そのときまた、私も相手を追わせており、相手も私を好きになっているのだ。
大事なのは、「分かりやすい好意」を潰しながら、会う、話すという行動は続けることだ。それをお互いにやると、自分は話せて嬉しい(追っている感じがある)が、はっきりとした好意は伝わっていないので相手に追われていると感じさせない。これが、実はお互いに起こっているのだ。
そういう人たちは自分が追っていると思いつつ、「そういう楽しい時期」を過ごす。
友達と私の結論はそんな感じだ(本当にどうでもいい文を読ませてしまったかもしれない)。
追うというか、「愛する」恋愛が好き
まあそんなことはいいのだが、私は追う追われる論争で「どちらが幸せか」という話をするとき、その答えは人によるが私の場合は、「愛する」恋愛がすきだから、追う方を選びたい、といつも思っている。
「愛する」を今回どういう意味で使うかというと、
「好きなときに好きと言えて、それを受け止めてくれる相手がいる」
という意味である。
ちなみに今回恋愛の話として進めてしまったが、これは(血の繋がった)子供や、ペットでも叶う話だと思っている。
私が恋愛(またはペットとの生活)をしていて幸せだと思うのは、
ああ好きだなあ、可愛いなあと思ったときに、この溢れ出た想いをその対象に惜しみなく伝えてもいいときだ。
「好きだよ」「可愛いねえ」「どうしてそんなに〇〇(褒め言葉)なの?」
これらの言葉を目を見ながら、ハグをしながら、頬を包みながら、頭を撫でながら、なんでもいいが、自分のやりたいようにしながら、伝える。そうすると、満更でもない返答やら反応が返ってくる。
私は愛させてほしいのだ。
言いたい言葉を受け止めてくれる相手が欲しい。そういう相手(ペットや友達を含む)に好きだあと言っているとき、私はすごく幸せを感じるのだ。具体的には、「好きだよ」と言われたり、犬に顔を舐められたりするよりも、「好きだよ」と言ったり、犬に顔でドリルするほうが幸せなのである。
このなんだか「自分本位な愛」に不健康さを感じる人も中にはいると思うが、正直なことを言ってしまえば結局こんな感じなのだと思う。
だから「追われる恋愛より追う恋愛」、ひいては「愛されるよりも愛する」なのである。
きょうの歌
清竜人「おかえり」
今日はすごく下らないことを書いたな。最後まで読んでくれた人には感謝です。