髭のサラリーマンの話
前に付き合っていた人が、今やっているサラリーマンをやめて、ずっとなりたいと言っていたハンバーガー屋で働き始めるらしいと噂で聞いた。いつかは自分で店を出すことを夢見ての、一歩を踏み出したということなのかなと思う。
彼は私と付き合っていたとき、週末にどこで会ったとしてもかならず一回、ハンバーガー屋に連れて行くような人だった。行きたい店が決まっていて、おすすめの店があって、行きつけの店があって、新しい店も常に探しているような。とにかくハッピーで、楽しいことが大好きで、ハンバーガーが好きで、私にもハンバーガーを食べて欲しがった。
予定を立てていた日、私が待ち合わせ場所に行く途中に彼の住まいの最寄りを通るからとそこで落ち合ったら、この近くに行きつけのハンバーガー屋があるから行こうと言われ、その先でほかのハンバーガー屋で働く友達から「うちにはこないの」と連絡が来て、それにも行かないかと言われ、ついていったらもともとの予定が全部つぶれたことがある(つぶれたというか翌日に変わったのだが、翌日私は体調を崩して結局行けずじまいだった)。その時期私はいつにもまして食が細く(仕事を体調不良続きでやめたばかりだった)、ほとんど食べられないよと言っていたのだが、彼は俺が食べるよと言って私のぶんも食べることで、その日ハンバーガーを4つ近く食べた。なんで一人一つずつ頼まなくてもいい店なのにわざわざ頼むんだろうとか、そもそもなぜ今日2つとも行くんだろうとか、そんなことを考えながら、でも全部食べる彼を目の前の席で見ていた。
彼は大食漢だった。本人からすると俺より細いのに全然たくさん食べる友達いるよとのことだったが、一緒にラーメンを食べに行ったときも、タイ料理を食べに行ったときも、韓国料理を食べに行ったときも、海鮮を食べに行ったときも、私がこれまで食事に行ったどんな友人よりもたくさん食べた。私は彼と付き合っていた時期は特に食べられない時期だったということもあり、よく先に食べ終え、彼のことを眺めているのだった。彼の中に入っていく私の食べるはずだった食べものを見ていると、同じぶんだけ私の中に蓄積されて、栄養になっていくような気持ちがした。
一番たくさん行ったのは間違いなくハンバーガー屋で、ハンバーガーを頬張るとき口の周りで長く生やした髭にハンバーガーソースがよくついていた。一番好きな姿はどれだったかと聞かれれば、圧倒的にその姿だったと思う。体もひときわ大きく、強面な顔の彼が、まあ彼はこわもてという言葉から想像もつかないほどの気の優しい人だったが、ソースにまみれて、拭き取るのに苦労している姿が好きだった。今日食べなくてもいいじゃんと思いながら、たまにはハンバーガーを食べない日があってもいいじゃんと思いながら、でも彼の好きなようにしたらいいといつも思っていた。暑がりで、自分で着てきた分厚い上着をいつもちょうど寒がっている私に着せる。それで涼しくなった彼と上着2枚重ねのエスキモーみたいな私は同じ体感温度になり、外をまたぶらつくのだった。彼は年下で、とても可愛かった。
そんな思い出がふと蘇った、彼は全然似合いもしない髭面サラリーマンから、ついに夢見たハンバーガー屋になるのだ。私といるときは、今の仕事はやめるんだと言っていた頃の彼だった。まあでも、髭面サラリーマン姿の彼とよく遊んでいたのだから、その姿は私の彼のイメージそのもので、私にはとても好ましい姿だったなあと思う。彼はスーツ姿で、よく仕事を終えてそのまま金曜日に私の元に来た。
彼はもしかしたら、挫折のような挫折を味わったことのない生活を、今でも続けていて、これからも割と長くそれを続けていくのかもしれない。彼は私がこれまでみたどんな人よりタフだった。たとえばカキをたくさん食べて夜中にあたった後、次の日には友人と食事に行っているような人だった(絶対に遊びの予定を潰したくないのだ、そしてカキと挫折は関係ないかもしれないが)。この人が挫折したときそばになんて思ったこともあったが、もうそれはないから、どうかできるだけ挫折せずにやりたいように、彼の思い通りにことが進めばいいなと思う。そしてそんな祈りなどいらないくらいの彼なのだ。
彼のいつだって優しい話し方と穏やかな心は、たくさんのお客さんに好かれるのだろう。この度はおめでとう。なんだか懐かしい話。
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