体調
世間が1月1日を迎えて、その日かその次の日になって神社に行って、神様にお願いすることは、ずっと健康第一で、大体それが3年前くらいから。
去年の七夕のときは、6年生の男の子が面倒そうに何を書いたらいいか分からないと言ってくるので、書くことないなら「健康第一」とでも書いておきなと、言った。適当なこと言えばそれはやだとか言って、本当の願いごとを書くかなと思ったけど、意外にも受け入れたのか、はたまた本当にどうでも良かったのか、素直にそれを書いて、「これでいい?」と見せてきたのには笑ったけど、間違いなく君たちが健康であることが一番の願いだよとも思ったので、まあ良しとした。
今年はもう半分以上終わって、振り返ってみれば1月は胃腸炎、2月は原因不明の腹痛がひと月続いたし、5月は溶連菌、6月の終わりもまた溶連菌、それに加えて同時にインフルエンザBにかかった。かかったんだけど、今やっと、ほとんど元気(忙しいらしいお盆に体調崩さなければ)。無理してない生活をしてるからっていうのは大きいと思うけど、たぶんあの時、それかあの時、どこかずれてずっとおかしくなっちゃってから、やっと体調が戻ってきた気がする。嬉しい。
お願いごとといえば、熱海に家族旅行に行ったときに、向かった十国峠というところにあったカフェ、ここにたくさんのお願いごとが吊るされていた。このカフェは「天国カフェ」という名前で、きっとそれは高度的にほかよりも天国に近い場所にあるカフェですよというネーミングなのだろう、何気なく休憩がてら入ったのだけど、明るくおしゃれなカフェスペースの反対側にあるその絵馬が吊るされたスペースは、少し不思議な雰囲気を醸し出していた。
みてみるとそこにはたくさんの普通のお願いごとの中に、たくさんの天国の人たちに向けたお願いごとも書かれていて、きっとそれを目的に作られたカフェではないのだろうけど、天国に少しでも近づきたい人たちが、ここを見つけてきて、想いが届きますようにと祈りを書いていくのだろうなと思った。
わたしは簡単に人の感情に自分の感情をチューニングしてしまう癖があるというか、それは全然私の感情ではないのだけど、そのときだけその人の気持ちになってしまうため、あまりそういうのはまじまじと読み込まないようにしているけど、何となく読んでしまって、でもやっぱりダメだ、と思ったから悲しくなる前に離れた。
7月は調子もそこまで悪くなく、あっという間だった(実はわたしは7月の一周目からすでにその発言をしていたらしいが)。元気になって自分を思い返して思うことは、この3年間で、吐いたり、泣いたり、人のやさしさに触れたり、逆に人の冷たさを感じたりしていたら、簡単に周りのものごとに対してありがたがる癖がついてしまった、ということだ。別に悪いことではないと思うけど、たくさんのことを全部ひとつにまとめるのはなんだか自分の感覚が鈍くなったのではないかと不安になるときもある。
今ここにいて、苦しいと泣いていないのは、わたしが3年かけて必死に神様にお願いしたから、ではもちろんなく、それを叶えたのは、神様にお願いするほど必死だったために、わたしが向いてしまっていた運命のその反対側に向かって少しずつ歩いた先の、なんだろう、経過であり、運であり、自分の人に恵まれる体質であり、その人たちである。まあ神様にお願いするのは形だけってことなんだけど、きっと神社や寺があれば、これからも平気で無差別に手を合わせたりなんだりするとは思う。
体調が悪くないと、日々何も手につかなかったところから、何かに集中しても平気になるのが嬉しい。そんなこと言いつつもまたすぐに寝込んだりするのかもしれないけど(こうやって期待をへし折られ続けるとこんなふうに人は卑屈になるのかな)、でもまあ今のうちにご飯をいっぱい食べて、好きなことをたくさんして、またでろでろに体調を崩したときに、まあ元気なときに好きなだけやったしと思って、また回復に努められたらよろしいのかと思う。
田舎にいるうちは家の周りのレンコン畑になるハスの実を勝手に採って食べたり(あんまりやると怒られるけど許してもらえます)、子どもの頃に戻ったみたいにして過ごしたい。外でセミがみんみん言ってる。セミって捕まえたことないけど、虫捕りしてみたい。セミのこと好きだと思ってたけど、実物みたら身震いするからほんとはあんまりなのかもしれない。
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