甘橙:おれんじ(原作 梶井基次郎『檸檬』)⑥/⑥
私はスキップをしながら、店の前から続く緩やかな坂道を下って行った。人とすれ違う度に冷ややかな視線を感じた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。背中に羽が生えたマリオのように、三段跳びをすれば空も飛んで行けそうだった。
・・・あっ。
私はハッとして立ち止まった。その瞬間、私の頭の中はあの丸い物体で埋め尽くされた。そして、私の腹に収まるべきだったその物体の切れ端は、未だに定食屋の膳の上にある。もうお分かりだろう。私は謎の魚に貪りつくあまり、あろうことかオレンジを食べ忘れたのである。
その時、私は恐ろしいほどの唸り声を聞いた。その声はどうやら私の腹から発せられているらしく、次に聞こえた時には、激しい痛みが私に襲い掛かった。今まで姿を潜めていた「例の塊」が再び姿を現したのだ。どうやら、あのスキップがいけなかったらしい。
私はそばにあった電柱に駆け寄ると、周りの目も気にせず激しく嘔吐した。一瞬、シンガポールのマーライオンと私の姿が重なった気がしたが、それこそまさに月とスッポン。私は自分の醜く情けない姿が恥ずかしくなった。これも全て、悪魔のように美味のあの魚のせいだ。丸善という名の定食屋のせい。道端で私を避けたババアのせい。私に酒を飲ませた高見沢のせい。涼子のせい。私のせい・・・
私は、あの定食屋にある全てのオレンジが、ダイナマイトのように爆発する様を想像した。四方に飛び散る果肉、辺りを破壊する表皮、流れ出る果汁。それは、どこか滑稽でグロテスクでカオスな光景だったが、私の心はどこかスッとした。
近くにあった自販機で水を購入し、その場に座り込んで飲んだ。呼吸を整え、しばらく目を閉じ、また少し吐いた。ぼんやりした頭の中で、私はふとこんなことを考えた。
《涼子は、オレンジだ。》
私はあの奇妙な魚に、一時だけ心を奪われ、大切なものが見えなくなっていた。それは、涼子との関係でも同じく、彼女を避け、逃げ出し、永遠に断ち切ってしまった。なぜ。なぜ今になって後悔しているのだろう。あの部屋を飛び出した時には、微塵も後悔などしていなかったのに。なぜ、もっと早く後悔しなかったのだろう。
いつの間にか私は、声を出して泣き始めていた。涼子は私のオレンジだ。太陽のように光り輝くオレンジだ。私はやはり、今でもあの奇妙な魚ではなく、オレンジを愛しているのだ。
その時、私の中に居座り続けていた例の不吉な塊は、不思議なことにすーっと姿を消した。私は電柱に掴まりながら立ち上がり、再び歩き始めた。
ここがどこか見当もつかなかったが、そんなことはどうでもよかった。前へ進まなければ。早く帰らなければ。いったいどこへ。私はどこへ帰ればいいのだろうか。
電柱で立ち止まる度に少しずつ吐きながら、私は延々と続く坂道を下っていった。
おわり
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