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甘橙:おれんじ(原作 梶井基次郎『檸檬』)⑤/⑥

【前回までのあらすじ】
絶世の美女・涼子との交際が壮絶な終わりを迎えた「私」は、友人の高見沢の家に転がり込む。高見沢との酒盛りの末、路上で目を覚ました私は、腹の中に「例の塊」を抱え、京都の街を彷徨い始める。
④は《こちら》

何時間歩いたことだろう。どこからか、旨そうな匂いがする。
 
それはどうやら、すぐ近くから発せられているらしい。いつの間にか私は、古びた定食屋の前で立ち止まっていた。店の看板には「定食屋・丸善」とある。それを見た私は、近所に同じ名前の本屋があることを思い出した。私は本屋というものが嫌いである。
 
なぜか。そもそも本が嫌い、文字が嫌い、本屋に漂う紙の臭いが嫌い。先ほど例に出した『走れメロス』だって、教科書に乗っていたから仕方なく読んだだけで、文字の羅列を見ていると目がチカチカする。あの忌まわしい本屋と同じ名前の定食屋に少しムッとしたが、腹は正直らしく、グゥゥゥと鳴った。
 
店の前には「日替わり」と書かれた看板が置いてあり、魚、ご飯、味噌汁、きんぴら、豆腐といったあっさりとした品々が並んでいたが、その中で唯一、私の目を輝かせたものがあった。それは「オレンジ」である。
 
私はオレンジをはじめとする柑橘類が大好物である。あの甘酸っぱい酸味がなんとも言えない。こたつで食べるみかんは、この世で最大の幸福だと思っている。そして、あの丸い形が好きだ。ここだけの話だが、あのキュッと引き締まった太陽のような姿は、浜辺で戯れる健康的な女性のヒップを私に連想させる。内緒である。私はそれほどオレンジが好きだ。因みにレモンは酸っぱすぎて好きではない。
 
私は定食屋の暖簾をくぐり、席に着くなり日替わり定食を注文した。皿に盛られたオレンジを妄想すると、それは眩しすぎるほど輝いて見え、なんだか身体が軽くなったような気がした。あの塊も、今では姿を消していた。
 
「なるほど。つまりはこの重さだったんだな。」
 
運ばれてきた定食の真ん中には、見た目の奇妙な魚が陣取っていた。だが私の目には、その脇に鎮座するオレンジしか映っていなかった。勿論、最後の最後に残しておくのだ。私は奇妙な魚に箸をつけ、口に入れた。昼時だというのに、店内には客がまばらにしかいなかった。表は古びていたし、そばには洒落たイタリアンがあったから、まあそちらに流れてしまうのだろう。しょうがない。



うまあああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!え、え、なにこれ、え、なにこれ、え、え、え、え、やばあああああーい!



私は言語能力を失うほど感動した。熱々の鮭のホイル焼きも、濃厚な漬けマグロ丼も、絶妙に酢がきいた〆鯖もその味を忘れさせるほど、あの奇妙な魚が美味だったのである。
 
私はそれから一時も止まることなく、その魚と米を貪り続けた。魚の旨さに夢中のあまり、その時の記憶はほとんどない。食べ終わった私はその勢いで席を立ち、三割増しの代金を机に置いて店を出た。


《⑥》へ続く


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