天才と馬鹿のはざまで
コロナも私の日常3-94
94日目 8月12日(木)
いつの間にかお盆の時期になっていて、オリンピックは終わってしまった。
最近は会社と家の往復である。少しだけある夏休みは彼女と会ったり大学の友人と会ったりしてなかなか充実している。
母の話を聞くのが楽しい。難しくて全ては理解できないけど、人生の根本的な話とか、色々とここまで深い話をしてくれるのは私の周りには母くらいしかいない。おそらく母も、同じ次元で話ができる人が少なくて困っていると思うので、いい話し相手というか、日頃の思いを吐き出す場所になっていると思う。
母はいわゆる「天才」というやつで、学校の勉強ができるとかそういう話ではなくて、根本的な人間の出来というものが違うような、ネジが外れているような、そんな感じ。1を聞いたら1000くらい知ってしまう感じで、世の中の真理をまるっとわかっている。会社の営業成績はアジアでナンバーワンらしくて笑ってしまった。そもそもそんな組織に属さなくても自分の力でいくらでも稼いでいけるような人だ。組織にいるよりは個人でいる方が向いている、そんな感じ。いつかこの母の話も物語風に書いてみたいなあと思っているけれど、なかなか踏み出せない。なぜならどこから書けばいいのかわからないから。
そんな天才の母のもとに生まれた平凡な私は、今、知的障害のある人々を相手に仕事をしている。言い方はとても悪いけれど、端的にいうと「馬鹿」である。(以下、この記事内でのみ彼らを「馬鹿」と呼ぶことを許して欲しい)
自分の見えている範囲だけの小さな世界しか知らない彼らと、宇宙大の広さで自分や周りを見つめている母とでは、目に見えない雲泥の差がある。それは、もしかしたら魂としての成熟度かもしれないし、オーラかもしれないし、わからないけれど、頭の出来云々という話ではないような気がする。
馬鹿と日中を共にし、天才と暮らす。そんな、天才と馬鹿の間に挟まれるという日本中を見てもなかなか稀有な生活を送っているだろう私は、一体何を目指しているのだろう?
日本一稀有な平凡会社員となってしまった私は、一体、本当に平凡なのだろうか?これはもはや特権と言ってもいいくらいである。天才の元に生まれ、自ら馬鹿と働くことを選ぶというなかなかタフなライフコースを歩んでいるような気がする。なんとなくだけど、私が私であるということを見失わないために、私の無意識が生み出した苦肉の策のようにも思える。溺れそうな波から抜け出すための、ね。まあどれも自分で選び取った道だから、文句は言うまい。色々と思うところはあれど、どれも経験だなあと思って毎日を生きている。
天才と馬鹿の狭間で生きていると、意外とたくさんのことが見える。そして、わかる。みんな、本当に一生懸命に生きているんだなあと思う。だから、あなたもわたしも、だれかの人生を馬鹿にすることなんて絶対にできない。私の人生も、これを読んでくれている優しいあなたの人生も、誰にも汚すことのできない大切なたましいの欠片である。天才の人生も、平凡の人生も、馬鹿の人生も、だれにも侵すことのできない尊厳がある。序列なんてない。みんな等しく与えられた人生である。高い波が起きて、一粒一粒の飛沫が上がって、また元の大海原に帰っていくように、私たちは生まれ落ちた。たまたま飛沫ではなく、人間になっただけで、元はみんな同じ海である。一つ一つの飛沫の形が違ったとしても、結局はみんな同じなんだなあとわかる。同じところから生まれて、同じところへ帰っていく、同志である。それが母の言う真理だと思っている。
なんの話をしていたんだっけか。
ああ、そうだ。天才と馬鹿のはざまで私は、意外と、色々なものの見方ができる様になっていると思う。救いようのないことにも、希望を見出せる様になってきた。ありがとう。
おやすみ。