「〜すべき」を手放したら、心が軽くなった話
前回、「自分に何かと文句をつけてくる、心の中の存在」(通称:クソリプ野郎)に気付いた話を書きました。
そのネクストアクションだった、
「優等生」を手放す
自分で基準を決める
について考えていたら、最近すごく元気に過ごせるようになってきたので、それについて書きます。
私と同じように「〜すべき」に囚われてしまっている人のヒントになれば嬉しいです。
(マイコーチのたけちゃん@take0327take、いつもありがとうございます!)
優等生な自分
最近、「自分はどうしたいか」を考える時に、「〜すべき」という思考の癖が出てくることに気が付きました。
これらは「優等生」だった今までの経験から生まれた思考です。そのおかげで、受験を乗り越えられたり、仕事で成長できたり、きちんと生活ができたりしたので、自分にとって必要なものだったと思います。
ただ、こうやって「〜すべき」を書き出して眺めてみると、「なんだか苦しそうだなぁ」と思う自分もいます。
休んだり遊んだりすることに罪悪感があるし、自分を責めすぎて落ち込みやすいし、家事をするときの半分くらいはイライラしてしまっている。
「〜すべき」を手放せたら楽になれそうな気がするけど、どうしたらいいんだろう…?
極端な言葉を自分に問うてみる
「〜すべき」と反対の言葉を自分にかけてみたら、どう感じるだろう?と考えてみました。
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努力するべき⇔してはならない
そう言われてみて湧いてくるのは、反論したくなる気持ち。
「そうかなぁ?」という、戸惑い、違和感。
「新しいことを知るのって、楽しくない?」という、わくわく、好奇心。
そうか、私は「楽しい」から、努力や成長をしたいのか…!
逆に、「努力しなくていい」「変わらなくていい」というのは、今の自分は、望んでいない言葉。
今まで「ガムシャラに努力することが正義」という無駄にスパルタな思考があって、自分の首を締めていた。けれど、「楽しいこと」「自分がわくわくすること」は、ただ素直にやってみたい、と思う。
人に迷惑をかけてはいけない⇔かけるべき
この言葉は、言われてみると、ちょっと嬉しいかもしれない。
迷惑というと少し違うかもしれないけど、適切に人に頼れるようになりたい。もちろん搾取するだけの人間にはなりたくない。けど、今までしなくていいところまで自分で抱え込み過ぎて、苦しくなっていることが多々あった気がする。
「迷惑をかけてもいい」という言葉は、なんだか、ホッとした。
家事をするべき⇔しないべき
美味しいよね、カップラーメン。すぐ食べれるし。安いし。
うん。でもやっぱり、毎日は嫌だな。
私にとって「食べること」はすごく「大切な楽しみ」。いろいろな美味しいものを食べたいし、食の「新しい出会い」も楽しみたい。
手料理も、ジャンクフードも、ちょっと豪華なフレンチも、気分に合わせて選びたい。
あ〜〜すごく嫌。
散らかっていると心もザワザワするし、片付いていると心もスッキリする。
でも、それでも、何もしたくないときもあるんだよねぇ…。
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「自分が心地よいか」という基準で決めたくなった
こうやって考えてみると、「〜すべき」の中にも、手放したい気持ちと、そうでない気持ちがあることに気付きました。
「正しいこと」より「楽しいこと」を選ぶ。
「自分がやりたいこと」を「やりたいタイミングで」やる。
そうすると「自分で選んでいる感覚」みたいなものが湧いてきて、心地よい。
思ったより、世界ってシンプルだな…?
何をこんなに自分の首を締めていたんだろう。
そう気付いてから、日々がとても軽く、楽しいものになってきました。
まだ「〜すべき」を完全に手放せたわけではないけれど、日常生活や、SNSや本で、今の自分にとっての理想の言葉や行動が、すごく目に付くようになりました。世界にヒントが溢れまくっていて、未来が明るい気がして、わくわくしています。
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もしいま何かにモヤモヤしている方は、「正反対のことを考えてみる」と何か気付きがあるかもしれません。
読んでいただき、ありがとうございました!