コラムを書き続けようと思ったキッカケ
前回からだいぶ経っちゃいましたね。読んでくれる人は少なそうだけど、書いてみるわ。
私自身はいつもと変わりませんが、この数カ月の間に周りでいろいろなことがありました。少々クタビレちゃいました。
とは言え、日経平均が上がっているのはうれしいです。オルカンもここにきていい感じです。老後を考えたらインデックス長期投資がいいかなあ。個別株もアクティブファンドもほんの少し持ってますけど、めんどくさいし。あと何十年かわからないけど、ぼちぼち過ごせれば幸せです。贅沢もしません。その辺のスーパーでおいしいお菓子が100円台から買える。日本ってなんのかんのいい国です。格差がこれ以上広がらなければ、急激なインフレが無ければ…という前提もありますけど。
息子の異動があったので、引っ越しを手伝ったついでに少し旅行をしました。知らない街に行くのは楽しいですね。海外旅行もいいですが国内にもいい場所がたくさんあります。時間とお小遣いが許す時は旅行したいです。
会社の方は通常運転です。特に変わりません。
表題についてですね…。
ここ十年以上、書くことと言えば仕事で薬歴を書くくらいでした。
1日で50枚(多いと100枚近く)の処方箋の指導内容をタブレットやPCに入力するのです。薬歴記入は1枚1分弱としても1時間以上かかります。効率よく入力するために、ソフトにお決まりの文言を30個ほどのパターンを登録しておくのです。お決まりの文言を入力した後、処方変更の有無、検査値や患者様の言ったこと、私が推察したことなどをプラスします。
症状が安定している患者様に関しては記入がややルーチンになります。特記することが無ければパターンでなんとかなっちゃうことが多いです。
これじゃいかんなぁ。って、子供が高校生くらいになった時から思い始めました。だんだんオリジナルの文章やストーリーを書けなくなってしまう。
平たく言えばあまり脳みそ使ってねぇなぁ。
どんな物語を書いていいのか・・・正直思いつかないのです。
私には師匠が一人います。八十歳を過ぎてから、だいぶ体調を崩してしまいました。機会があるとお手紙を出すことにしています。旅行先からお土産を送ることもあります。電話では前ほど長い時間話すことができなくなりました。コロナ禍もあり、なかなか会えません。
正確に言うと師事したのは四人です。四人のうち、一人は亡くなってしまいました。
亡くなった先生は男性でしたが大変カシマシイ人でした。女子っぽいというのか…午後の紅茶が似合うタイプの先生です。アールグレイやダージリンなどの匂いのいい紅茶、そしてウエストのリーフパイが大好物でした。
私は先生の作品のテイストのモノを書かなかったのですが、先生のお家に遊びに行けば歓待してくれました。何かを教わるというよりは話をしている方が多かったのです。先生から業界の話や文学史や近代史など、様々な話を聞きました。
余談です。私の師匠とカシマシイ先生以外の二人ですが…
一人は音信不通になってしまいました。この方は女性です。事情があったので、おそらく筆を折ったのではないか…。とても繊細な方でした。いつまでも少女だった。とも言えます。一時期はたくさん仕事をしていました。疲れてしまったのでしょう…。物語を書くってかなりの量のエネルギーを消耗するんですよ。何もないところからひねり出すんだから。
もう一人は…カシマシイ先生から紹介されて師事しました。この方は賛否両論ありますね。私は半年もしないうちに離れました。辞めた弟子の中では当時の最短記録だったそうです(汗)身内や自分にすり寄る人に甘いという印象がありました。いい意味でも悪い意味でも勉強になりましたね。詳しいことを書けませんが…。思想的にも相容れないところもありました。私なんて大家をやっているくらいですからね…。彼からすれば俗物ですよ。
私の師匠…師匠には場面の見せ方、他にも技術的なことを手取り足取り教えてもらいました。聞けばなんでも答えてくれました。出し惜しみがないっていうのか…。この師匠は映画会社での会社員の経験があった人です。
本人からではなくカシマシイ先生から聞いた話です。その映画会社である映画監督の立場が悪くなり排斥運動が起こったのですが、監督の味方になったということでした。大学時代はボクシングもやっていたそうです。
東京の山の手で育ち、バックグラウンドがとてもいい方なのですが決して自慢をしない。謙虚が全てという方です。けれども、言うべきことはハッキリ言える。見習いたいですが、私が生きているうちにそのレベルには辿り着けないです。
この師匠に師事した人はたくさんいます。多くの人から慕われています。
師匠を囲んでの飲み会というのが一年に1~2回ありました。それは忘年会だったり、教え子の作品が発表されたり…というタイミングでした。
5~6年前…それ以前だったかもしれない。その飲み会で私はAさんという女性のライターと知り合いました。Aさんは作品を書くというよりは評論を書くポジションの人です。仕事柄、洋画邦画問わず、たくさんの映画を見ていました。私の師匠とは若い時からの付き合いだったようです。
Aさんは大変人懐っこい人で、誰とでもフラットに話ができる人でした。天衣無縫というのでしょうか…。映画上映後のトークショーでは客席にいるにも拘らず、映画が好き過ぎてトークショーに絡んでしまうのです。本当はスクリーン側で話をした方が良かったのでは…。ネタが炸裂しすぎてトークが長くなりそうですが(^^)
私の師匠が骨折して体調を崩したことがきっかけで、友人経由でAさんからLINEが来るようになりました。コロナ禍以降のことです。私が薬剤師なので医療のことをいろいろ質問したかったのです。師匠のことをだいぶ心配していました。Aさんは知り合いやお友達に対してかなりこまめに連絡を取る人でした。取材を多くこなすのでアポやスケジュール管理が大切だったということもあるでしょう。何か聞きたいことやお喋りしたいことがあるとすぐにLINEがきました。「Kさん(私の師匠)にチョコレートを贈るのは大丈夫かしら?」とか「お茶だったら玄米茶と緑茶と紅茶…どれを贈ったらいいかしら?」とか「Kさんとこの間電話でこんな話をしたわ」などなど。
また、Aさんは師匠と電話できると嬉しそうに友人や私に報告をしました。師匠とは体調がいいと電話で会話できますが、体力が無い時は声が細くて聞き取れないことも多いのです。私や友人は師匠に電話をかけるのが少々遠慮がちになるのに、天真爛漫なAさんは臆することなく電話ができるのです。師匠の奥様もAさんのことを「あの方から電話をもらうと元気をもらえるのよね」と嬉しそうに話していました。
コロナ禍が三年以上になると誰が予想したでしょう。次第にLINEでのAさんとのやり取りは多岐に渡るようになりました。本当はみんなと会ってお酒を飲んでお喋りをたくさんしたかったはずです。何気ない雑談が増えていく中で、私は彼女の生い立ちを知るようになりました。師匠と同じように東京の山の手で育ち、両親に可愛がられ、語学を習得し、海外で仕事をして、結婚をして、歳を重ね、親の財産を管理して…。Aさんは宅建士も持っていました。私が宅建を受験した時に励ましてくれたのもAさんです。お嬢さん育ちで無邪気な見た目から想像できなかったのですが、現実的な選択をしながら生きてきたのです。
コロナ禍が始まってしばらくしてカシマシイ先生が亡くなりました。そして、Aさんのお父様やお友達の何人かが亡くなりました。皆さんコロナが原因で亡くなったのではありません。多くは癌や循環器の疾患が原因です。Aさんのお友達は70代の方がほとんどでした。(Aさんは60代)その頃からLINEに病気やお墓の話題がポツポツ出るようになりました。また、Aさんには慢性疾患の持病があったのです。次第に、そのことを気にする話もでるようになりました。ただ、その疾患に関しては今の医学ではある程度コントロールができるので、どうしてそんなに不安がるのだろうと私は思いました。
2021年の終り頃です。いつものようにLINEをやり取りしているとAさんが私に投げかけてきたのです「宅建も終わったし、映画三昧、そしてシナリオを書いてください。来年のコンクールで…」
…できない。と思いました。十年以上もブランクを空けているのです。父の死、相続、会社の運営(ぱぁホームで建てた物件のトラブル含む)、たまに具合が悪くなる母の看病など…私は疲れ切っていました。何を書いていいのかわからない。その前に目新しいテレビドラマも映画もゲームにも興味がわきませんでした。たまに本を読む程度です。しかも読むのはほとんど新書やビジネス関係の類です。
2022年の正月が開けてから…
Aさんと私のLINEのやり取りは相変わらず続いていました。それからも何度かAさんから「原稿を書いていますか?」と聞かれました。
その頃の私は何をネタにして書いていいかわかりませんでした。宅建合格の後はテンションが落ちないうちにファイナンシャルプランナー(以下FP)の2級まで取りたいと計画していました。FP2級は宅建よりは受かりやすいですが広範囲の知識を詰めないとキツい試験です。時間がある時は近くのコメダに通って勉強していました。
しかし…「原稿を書いていますか?」というLINEを何度かいただくうちに「やっぱりコンクールに応募してみよう」という気持ちになっていきました。とは言うものの私が若い時のように「絶対コンクールで通る」という確たる自信はありませんでした。
ネタは…何にしよう。身の回りのことしか思いつきませんでした。私は数カ月ほどした事務バイトをネタに書こうと思いました。お役所関係ですけど…職場に行っても仕事がほとんどない日の方が多い…要するに税金って無駄遣いされているんだなと実感したお仕事でした。別に政治に関わるつもりは毛頭ないし、自分が強く主張したいわけでもないですが、あれはひどくてバカバカしかった。プリンセス・トヨトミの世界じゃないけど会計検査院の監査が入らないかなって思いましたね。民間なら考えられないし、薬局なら間違いなく潰れるレベルの運営です。脱線しちゃいましたね…。
5月にAさんは仕事で海外に出かけたのもあって、しばらくLINEのやり取りはありませんでした。6月に入って帰国したAさんから「入院中なの…」というLINEがきました。「しばらくKさんに会えない」と。コロナではないけれど感染症になった。何だろう。長引く感染症で人にうつす可能性があるもの…なのか? と思いました。
その時はその言葉を信じてしまったのですが、後から考えると違っていたのです。
6月の半ばにAさんは退院しました。「しばらく外出を控えた方がいいです。感染症を防ぐために人混みは避けた方がいいですよ」とAさんにLINEをしました。ところが映画館に行きたかったのでしょう。京橋の映画館に出かけてしまったのです。そこからまた体調を崩してしまいました。7月に私が体調を尋ねるLINEをしたら、入院したという返事がありました。そこからひと月ほどLINEのやり取りをしませんでした。
私はコンクールの締め切りギリギリになんとか原稿を書きあげました。自信が無かったです。原稿仕事をしていた時は1週間で400字詰め50枚程度をサクッと書いていたのですが、その時はかなり遅いペースになりました。結局リライト(改稿)を全くしないでコンクールに出しました。ブランクが空くというのはそういうことなのです。すべてが鈍くなるのです。正直、本気どころか手を抜いてしまった感があったのです。
他の人はどうかわかりませんが、コンクールに出す原稿ってリライトしながら半年くらいかけて書くのが最善だと思います。実際、私は2つのコンクールの最終選考に残りましたが、両方とも本稿のリライトにかなり時間をかけました。
現役で仕事をしている同期の友人に書き上げた原稿を読んでもらったら「…」っていう感じでした(汗)友人は言ったのです「また書いてみたらいいじゃん。今回は一つ書けたことが大切なんだよ」と…。その時、双六の振り出しに戻った気分になりましたね。
もうダメだ…私は書けない。
書きあげて感じたこと…それしか無かったです。
Aさんに書きあげた報告をしたのは8月22日でした。Aさんから返ってきたのはご主人も体調を崩し、二人で入院してしまったというLINEでした。私は気温が下がるまで退院を延ばしてもらった方がいいのではと答えました。
9月になり、10月になり…あれだけLINEを頻繁にしていたAさんから連絡が無いということが仲間内の話題になりました。友人もLINEや電話をしても返事が無い。ご主人も入院しているから大変なのかな…。誰に連絡すればいいんだろう。作家協会だろうか。という話になりましたが、その時はそれで終わってしまいました。
11月の半ばのことです。コンクールの原稿を読んでもらった友人からLINEがありました。
Aさんのお友達から友人にAさんが9月に亡くなったという連絡がきたのです。そのAさんのお友達も、Aさんが所属していたペンクラブからの連絡で知ったとのことでした。しかも死因は大腸癌だったと…。
あれだけ周りの人のことを心配してばかりで、本当の病気をひた隠しにしていたなんて…。感染症になったということも、慢性疾患だったということも嘘だったんだ…病状がある程度進行して、入院が長期になることを隠すためだったのだとその時初めて気が付きました。
なんだか言っていることが不自然だなって、もうちょっと考えればよかった…私はショックで、しばらくうわの空で過ごしてしまいました。
もう、会えない…だから「シナリオを書いてください」って言ったんだ。
私はAさんを裏切ってしまいました。ちゃんと原稿を書けばよかった。FPの試験なんて受けなくてもよかったのではないか。後悔ばかりが胸の中に積もっていきました。
本当は物語を綴っていくのがいいのでしょう。しかし、どんな物語を書いていいのか今も思いつかないのです。
楽待コラムを書いたことは、投資における欠陥建築物の周知という自分の目的を達成した手段なので作品というのとは違います。そしてnoteは楽待コラムを書いたことの目印くらいにしか思っていませんでした。
これからは、もう少し頻度を上げてコラムを書き続けたいです。書いていれば、いつか何か物語が思い浮かぶかもしれない。Aさんへの供養になるかもしれない。供養…というより何もできなかった私の身勝手な償いかもしれない。
コロナ禍の状況下でAさんもカシマシイ先生も亡くなってしまいました。友人も私もまだ二人のお墓参りに行けていません。カシマシイ先生は納骨もされていないようなのです。ここには書けない事情もあるのですが…そのことをAさんはとても心配していました。
この原稿を書くのに、いろいろなことを思い出してしまい、たびたびPCを打つ手が止まりました。結果、何か月か跨いでしまいました。
昔みたいに、スラスラと書けるようになるのはいつになるのか…こうしているうちに、またAさんとのやりとりを思い出してしまうのです。