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かそけき恩寵──イヤリ・ポヴォロツキー『grace』
タイトルの『grace』とは人名ではない、すなわち作品メインビジュアルに映っているこの女性はグレースさんではない。彼女の役名は最後までわからない。エンドクレジットでも「daughter」であった。また道連れとなる父親とおぼしき中年の男性は「father」、このように本作に名のある人物は最後まであらわれない。筋のはこびも構成も抑制的な、匿名の、小さな物語だが、だからといって時代や場所を超越するのではない。水汲みという有史以来のこどもらの大仕事にいそしむ娘の姿で本作は幕をあけるが、蛇行する川沿いをごつごつした岩がつきだしたきりたった崖が縁どる峻厳な光景はここが情報やら物流やら人材やらが集積するなんちゃら都市ではないことを如実にしめしている。幽玄とさえいいたくなる土地の名はほどなく、それがロシアのジョージアとの国境らへんであることが、やたらと口数の少ない登場人物らが訥々とかわす二言三言からうかがえる。
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親子は北コーカサスのカバルタ・バルカル共和国から北極海に面するバレンツ海へむかい赤白ツートンカラーのバンを走らせているのであった。少女が「海がみたい」的なことをいうのが目的かどうはかはわからないが、もしそれがそうならずいぶんと古めかしいが文学的ではある。一方で、彼らの日々には文学的な潤いもときめきもあまりなさそうである。そもそも無許可の巡回映画と、わが国のアダルトビデオを含む違法DVDの販売で親子は生計をたてている。したがって警察が目を光らせる繁華な町ではおおっぴらに商いはできない。私は話は変わるが、こどもの時分にはフィルムを背負って島をめぐる巡回の映画屋さんがいて、はじめての映画体験も当然それだったが、『怪傑ライオン丸』とか『忍者赤影』とか、こども向けの特撮にまじって、志穂美悦子さんが主演するアクションものの映画で、小太りの敵のおなかにパンチをするだけならまだしも、腹を裂いて腸を引き出すという場面に激しく興奮したのを憶えている。とはいえそれがどの映画だったかは皆目見当がつかず、以前深作欣二さんのムック本で志穂美さんにお話をうかがう機会があり、せっかくだからたしかめたかったが、志穂美さんがお腹に手をつっこんで腸をひっぱりだす映画なんでしたっけね、と本人にうかがうのもなんとなく憚られて止めてしまった。私はなにをいいたいかというと、映画は私には仄暗くいかがわしく匂いのするものであった。ここには巡回映画屋の親父が女の子にいたずらをしてお縄になったこととも関係ないとはいえないが、もうひとつ、フィルムの質感とそれがもたらす感興も無視できない。というよりむしろかなり大きな部分をしめている。
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『grace』は全編をARRISR3のキャメラと16ミリの組み合わせで撮ったという。おそらく予算からくる要請を逆手に粗い画質と、とりまわしのよさと手持ちをふくむ撮影法を効果的にもちいることで、コーカサスから北極圏にいたる大地の荒涼さが心象のそれに転嫁する。言葉数の少ないだけに、観客は気がつけば、少女と父の立ち居ふるまいから内面をおしはかっているが、彼が身を置く空間は内声としてのモノローグにたいして地の役割をはたすことも、また注視すべきであろう、その点で『grace』はイヤリ・ポヴォロツキーの初のフィクションだが、ロシアという、いまや西側世界から隔絶した領域の、さらに奥まった空間を直截にとらえるべく、この30代のロシア人監督はそれまで数作のドキュメンタリーでつちかった成果をふんだんにそそぎこんでいる。絵画主義的なロングショットや旋回するキャメラ、風力発電施設の巨大なプロペラが影を落とすシーンや白樺の樹影がゾエトロープふうなコマ送りなど、作中には審美的なショットが少なくないが、それらが印象を深くすればするほど、そこに蠢く人々の存在、拮抗するより卑小さを際立たせるその非対称性が問題になってくる。ことに娘役のマリア・ルキャノヴァ、彼女の身体こそ本作の成否を左右するものだったはずだが、さいわいなことに『grace』はその賭けに勝ったと私はもうしあげたい。本作の撮影は2021年の秋の二月だったというから、2004年生まれのルキャノヴァは撮影時、十七、八。ほぼ順撮りだったという作品の冒頭と結末部ではつながりが心配になるほど顔つきも、身体つきさえちがってみえる。翻っていえば、本作は彼女の成長の記録であり、そのことは旅することが空間の移動であるばかりか、時間の経過であること、ロードムーヴィが成長譚の変奏であることの傍証である。そのことは後半で明らかになる。ある村で父娘の悪事が露見して村人に追われる場面あたりからか。追っ手のうち、少女を見初めた少年は父娘のバンを日本製のバイクで追いかけてくる。父娘は逃れるように北上し、廃屋がたちならぶ北極海に面したどん詰まりの村で、気象観測所の灯台守のような女性に、ウイルスに冒されたらしい魚のスープをご馳走になるも、姿をくらました娘は少年と一夜をともにするが、すげなく袖にしてふたたび父のもとに戻る——などと書くといかにもせわしなげだが、抑制的なトーンは最後まで一貫しており、浜辺に打ち上がった魚を処理する防護服の人物など、タルコフスキー的な思弁性を想起させむしろ静謐である。あるいはいうまでもなくヴェンダースとか、『grace』はいくつかの作品を彷彿するが、母親の遺灰を海にまこうとする娘にキャメラが追いすがり、まわりこむように海側からとらえるショットに青山真治の『Eureka』も頭をよぎった。神の恩寵の意をもつタイトル『grace』がスクリーンに映るタイミングと、ことばの意味、そのようなことばがナラティブとしていかな働きをするかということ(と、小道具での日本への思わせぶりな言及も)もふくめて。(了)
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