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【アマミアンディアスポラ】序その一


青木理『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』(小学館、2011)


 私はムシの報せに敏感なほうだが、年をとったせいか、このところ報せるムシが多くてこまっている。さきごろも、というのは手元のレシートの日付によると6月24日なのでいまから四月ほど前、新宿のブックオフで青木理氏の『トラオ 徳田虎雄 付随の病院王』(小学館、2011年)をたまたま買いもとめ、読了するやいなや、本書の取材対象である徳田虎雄氏がみまかった。7月12日の朝日新聞社会面に以下の訃報が出ている。

 医療法人「徳州会」グループの創設者でもと衆議院議員の徳田虎雄(とくだ・らお)さんが10日死去した。86歳だった。
 鹿児島県徳之島町出身。大阪大医学部を卒業後、1975年に徳州会を設立した。「生命(いのち)だけは平等だ」との理念で、離島やへき地医療の発展に尽力した。徳州会によると、幼少期、急病の弟を夜間に診療してもらえず亡くした経験から医師を志した。グループは全国76病院のうち19カ所を離島・へき地に置く。その過程で医師会や行政と対立、「政治改革が必要」と政界に進出。90年代初当選し、通算4期務めた。
 2006年11月には筋萎縮性側索硬化症(ALS)であることを公表し、闘病生活を送っていた。
 一方、12年の東京都知事選の際に徳州会が猪瀬直樹氏に5千万円の資金を提供していたことが発覚。また、次男が立候補した衆院選をめぐる公職選挙法違反事件で、判決は、徳田氏自身も選挙運動を把握、指揮したと認定したが、東京地検は病状を踏まえ不起訴(起訴猶予)処分とした。

2024年7月12日付朝日新聞東京版

 おりしも文中にある猪瀬直樹氏が5千万を受けとったという因縁あさらからぬ都知事選から12年後、桝添、小池、小池ときて、小池が3期目をきめた七夕の夜から3日もせぬうち虎雄氏は世を去ったことになる。業(ごう)の浅深はことばの綾にすぎないとしても、つくづく業の深い方である。その理由はおいおい述べたいと思うが、私はそのために図書館にこもって文献をひっくりかえしたりしようとはさしあたり考えていない。なんとなれば、虎雄氏はわが郷土の偉人としてその功績はすでに立志伝中のものとして私の通った小中学校の先生方に、むろん先生ひとりひとり思想信条も教育方針もことなれば、みながみなそうだったわけではないとしても、それでも耳学問的に、門前の小僧なみに、おおよその功績を弁えるほどにはくりかえしくりかえしわが耳にふきこんでいただいた。いわく、幼いころ、病に伏せた弟を診せようと、街灯もないころの島の夜道をお医者さんまで駆けつけるも、夜間であるがゆえに往診はかなわず、弟を亡くしたことで医者をめざした。いわく、医者になるには医学部を出なければならないが、当時の島の教育水準では医学部など簡単に受かるはずもなく、阪大の医学部に入るために二浪だか三浪だかした。いわく、医師になってからも「命だけは平等だ」をスローガンに年中無休、24時間オープンの徳州会病院をたちあげ、全国規模の医療グループに育てあげた——そのもうしぶんのない功績に、私の中学の、もう死んだ恩師などは虎雄氏が寝る間はむろんこと、食事や排泄の時間まで惜しみ、いかに勉学にうちこんだか、そのさいの行動がどれほど大切か、行動を実践に移すに多大な熱量を傾けたか、滔々と語るのであった。私は彼の監督する野球部の一員でもあったから、虎雄的な価値観が指導に入り込み、練習が精神論や根性論に走るのを冷ややかに眺めていたが、その渦中にいることはとくに苦ではなかった。というより、私は眼前の出来事に没入するとあたりがみえなくなる。私は中学で島を出てから長いこと寮暮らしで、かなり理不尽で軍隊まがいのしごきも受けたが、そのときもそれはそれでなんとかやりすごしてきた。むろんそれが正しいとも通過儀礼だとも思っていない。あきらめ半分、弱音を吐くのが腹立たしいからそうしない。おかげで大西巨人の『神聖喜劇』なんかにはなにかと入れ込んだが、虎雄氏の著書は関連書にいたるも、いまのいまでもひもといたことはいちどもない。
『トラオ 徳田虎雄 付随の病院王』が初読である。
 感想を述べる前に、なぜそのようなことを語りはじめるのか記しておきたい。私は奄美群島の一角に生まれ、十代なかばまで、そこで暮らし、高校から本土で移り、五十路すぎのいまは東京の片隅でこの文章を綴っている。老母とハロジ(親戚)を置いてきた関係で、具体的な地名までは述べないが、中学を出て以来、年に数日の帰省が数年に一度になり、コロナ以後はそれすら間遠になり、無沙汰をかこっている。母は父が2004年に死んだので、ひとり住まいだが、弟一家がそばにいるので独居老人にありがちな心配はいまのところしていない。弟にめんどうをかけていることはすまなく思っている。そう遠くないうちに母は死に、そうするとシマに帰る機会もよりいっそう減るであろう。いまシマと書いたのは、奄美は村や聚落をシマという、任侠映画でしばしば耳にする縄張りのシマと同じシマであり、シマ唄のシマもこのシマである。言葉どおり、シマはひとつ共同体であり、たとえばわがシマは外れにある墓所が境界となり、山の麓に聖域があるが、太平洋に面して扇形の地形を描いている、そのような共同体の成員としての資格も意識も、血縁者を喪うほどに刻々と薄れ、父母の他界でおそらく決定的になるにちがいない。たとえそうだとしても私はそのことを残念だとも思わないし、故郷を離れることに捨てるというニュアンスがあったことをうっすらと憶えている世代でもある。一方で、たとえば岸政彦氏の『同化と他者化―戦後沖縄の本土就職者たち―』(ナカニシヤ出版、2013年)によると、沖縄出身者で本土で就職したものには職場や仕事内容に不満がなくとも、しばらくすると、ようやくなじみかけた都会暮らしを後に帰郷するものが少なくないという。むろんこの本は沖縄の集団就職者はじめ特定の社会階層を対象にした調査研究で、本連載の対象とは地理的、歴史的条件を異にするが、文化的な背景と、本土ないし内地ないしヤマトとの距離感を内面化させられ、他方でシマの関係性に足をとられている点では彼らに共感する部分も多々ある。なのになぜ私はシマに戻ろうとしないのか。私ないしわが一族郎党に固有の問題なのか、知らぬうちにシマのニジ(人々)に恨みでもかっており、トラウマ的にそれを封じ込めているのか、へき地に身をやつすより都会が便利というただそれだけか、あるいは呪いでもかけられたか結界でもはってあるのか、そのことはいずれつまびらかになるであろうが、私のほかにもシマをあとにヤマトに根を張ったシマンチュは少なくない。本連載では友人や知人、親戚、仕事を通じて知遇を得た方、これを書くためにお話をうかがった方など、なんらかのかたちで奄美にかかわるみなさんのお話をもとに、私なりの群島の布置をこのインターネット空間に描きたい。題名は「Diaspora / 離散」の語に同化や他者化とも位相をことにする「点在する異化」の意を読み込み「アマミアンディアスポラ」とした。イスラエスのガザ侵攻から一年、シオニストの行状を前に彼の地を彷彿する語をもちいることにためらいはあったが、ことばを民族に帰属させることのぜひも問うべきだとも考えた。
 われながらたいそうなものいいになってしまったが、私はここで政治的な主張をしたいとも、奄美や沖縄や先島諸島、それらからなる南西諸島を特権化したいとも思っていない。私は島を愛する心においては人後に落ちないが、いかな愛郷心もナショナリズムに頽落する危険をつねにかかえている。そもそも島にいた時間より本土に暮らす期間が長いいま、私はシマ(共同体)においてはよそ者とさして変わらない。むろん本土の奄美人たちのナチカシャ(なつかしさ)の基点にはそのような両価性が潜在することもこの連載では考えていきたい。他方で、ことばの綾と襞を何重にも織りこんだシマグチの「ナチカシャ」は現代という時制すなわち近代という時間への反時代な提言たりうるのではないか——と、またしても気張った言い方で恐縮だが、そのようなものとなることを期待しつつ、私の見聞と取材をお受けいただくみなさまの知見をなるべく飾らぬままここにのこしておこうと考えた、ささやかながら島々への恩返しになることを祈りつつ。

虎雄氏あらわる

 話は徳田虎雄氏のことであった。
 私は虎雄氏にいちどだけお目にかかったことがある。1983年、昭和58年——、小学5年生になった私は自宅に弟とふたりでいたはずである。私は四人兄妹の長男で、上に述べた弟の下にもうひとりの弟と妹がいるが、まだ幼かったので両親とともに出かけていたのであろう。私とすぐ下の弟ふたりで留守をしていた。すると玄関のチャイムが鳴った。私の家は1977年(昭和53年)の沖永良部台風で吹っ飛んで新築になっていたので、チャイムがあることが幼心に誇らしかった。よろこび勇んで弟とふたりでかけだして玄関の引き戸を勢いよくあけると数人の大人がそこに立っていた。
「こんにちは」と前に立った男性がいった。
「こんにちは!」と弟が大声で、私はやや警戒しながら答えると、男のひとが、お父さんかお母さんはいるかな、と訊いてきた。私はうつむいたが、弟が、いないよ、とまた大声で答えた。私はフリムン(ヌケサク)、黙ってろ、と思った。立ち入ってはいけない大人の世界のにおいを感じ、口を噤もうとしたのだがもうおそい。すると、そうか、いないのか、残念だな、と男のひとはひとりごちて「おじさんのこと、わかるか」と中腰になってこどもらにいった。弟は「わかんない!」と絶叫したが私は完黙した。男はふりかえり、同行の数名と額を集めていたが、ほどなく、よし、じゃあおじさんと写真を撮ろう、と男を真ん中に、むかって右に私、弟は左に、幾分くすみかけた玄関サッシの前で付き添い男性がシャッターを切った。それだけで一行は去った。
 数日後、私は母の「まさと、こっちきなさい」の声が耳に入った途端に凍りついた、怒りがこもっていたのである。私はここ数日におこなったわるさを光の速さで走査したが、母の怒りをかう要素はみあたらなかった。わが家は台所兼食堂から伸びた廊下の先に六畳ほどのこどもらの部屋がある。私はもし怒っているのであればあきらかにまちがいだから誤解を解かなければと意を決して自室のドアをあけると、薄暗い廊下の先に仁王立ちするアーマ(母)のシルエットが逆光にうかびあがっている。まのあたりにした私はこれからなにかよくないことが起こるのだが、もはやそこからは逃れられないと直観し、いまよりもぷっくりした小学生のおみ足を、あたかもそこから七年後、大学に上がるとともに住みはじめることになる東北の地ではじめてみた氷というものの上に踏みだすかのごとくおののきつつ廊下の暗がりをすすめば、私はアーマ(母)の怒気はほとんど瘴気と呼びたくなるほど濃く澱み蟠っており致死量にちかい。
 私はなに、と訊く前にアーマ(母)はこれはなんね、とハガキ大の紙切れを胸元につきつけた。アーマの留守中におとずれた男性を真ん中に私と弟がうつっているカラー写真である。くんちゅたるかわかゆみ(このひとだれだかわかるね)、とアーマは糺した、私は口ごもったが、すでに知っていた。思いがけずテレビで再会したのである。いや、じつをいうと、あのときもうわかっていた、わかっていながら男の名を眼前で口にするほど子どもっぽくも無邪気でも私はなかった。隣に弟がいたこともかたくなさに拍車をかけた。むろんそうではなければ写真を撮るのを避けられたかといえば、そんなことはないにしても、やすやすと軍門にくだることもなかったかもしれない。そう思うだに男の横でおちゃらけてポーズを決めている弟が恨めしい。とはいえなぜ写真を撮っただけで親の怒りをかうことになったのか。
 そこに政治的な背景がある。
 写真の中央に写っていたのは徳田虎雄氏で、この年、昭和58年は虎雄氏が第37回衆議院議員総選挙にたった年である。それまでのいきさつの要約が青木理『トラオ』にある。それによれば、阪大医学部を1965年に卒業した徳田は大阪府下の公立病院に外科医として勤務。1973年に大阪府松原市に最初の病院を開設する。資金に乏しいなか、自身にかけた一億あまりの生命保険を担保に銀行から融資を受け、徳田はそれを皮切りに「命だけは平等だ」「年中無休・24時間オープン」といった謳い文句をかかげ、大阪を中心に次々と病院を設立、旧態依然とした日本医師会などと真っ向から対立する医療界風雲児として世の耳目を集めつつ、現在の徳州会グループの基礎を築きあげ、45歳だった1983年には政界入りを目指し、故郷である奄美群島区から衆議院選挙に名乗りをあげた——。したがって私が対面したのは壮年の虎雄氏であった。以下の映像の冒頭にそのころの姿がある。

 アーマは虎雄氏と息子らとの写真をよこしながら、息子さんたちも私を応援しています、と一筆添えてあったよ、とつけくわえた。それだけであればさしたる問題ではない。政治家のあいさつまわりの一環であろうから。ただし公職選挙法が禁ずる戸別訪問のかねあいから、私たちが会ったのはおそらく告示日(1983年12月3日)以前であるのはたしかである。でなければ法にふれる。じっさい夏めいた日和だった憶えもある。とはいえ島は毎日が夏で思い出もだいたい夏である。記憶のなかでは半裸でいたからといって夏でないとはかぎらない。というのはさておき、ではなぜこれしきのことがアーマの逆鱗にふれたかといえば、わが家が虎雄氏の対立候補だった保岡興治氏の支持者だったから。これはのちにふれる(上の映像にもある)が、虎雄氏と保岡氏はこの年から1992年の公職選挙法改正で奄美群島区が消滅するまで、当時わが国で唯一の一人区で俗に保徳戦争の名で呼ぶ苛烈な選挙戦をたたかったのである。
 対立候補の支持者の切り崩しもまた、さしてめずらしいものではなかろうが、子どもをダシにそれをするのはトリッキーといわねばなるまい。そのうえわが家はアージャ(父)が保岡氏の父(保岡武久氏)の秘書であった関係から筋論でいってもゆるぎない反徳田派である。その将を射るためにまず馬を射るかのごときやり口にアーマ(母)は怒りをおぼえたにちがいないが、その怒りは家の長男としてそのような事情を察してしかるべき私へのふがいなさにかたちをかえ、右手の戦慄きとその淵源となる一葉のプリントもろとも不肖の息子への託宣となってくだされたのである。
 ——これはどうしたら、と私はいった。アーマに、というより写真そのものにおうかがいを立てるように。
 それを聞いたアーマは、吾(わ)んは恥ずかしいよ、とだけいってぷいとどこかにいってしまった。
 母の恥ずかしさが伝染した私は身を凝らせて玄関の引き戸を静々と開けると後ろ手に閉めて家を出た。出しなに脇に目をやると虎雄氏の押したチャイムがまだそこにあるのが禍々しい。前庭を出ると、県道をはさんだむこうに浜へ降りる小路がつづいていて、私はその道をずんずんすすみながら、しかしなぜこのことで怒られんばいかんのよ、と無性にハラが立ったが、理不尽さをまずそれとして感受し、何層倍にもふくれあがらせるこんがらがった性格はこのとき完成の域に達していたのであろう。拾った棒っきれで大城の家のジョン(犬)を威嚇するのが関の山だったが、しかしあのときすでに大人たちのあいだに不穏な動きがあるにも勘づいていた。
 それが選挙であると知るのはむろんもっとあとである。
 このころの島の地場産業といえば砂糖黍とか製糖業で、観光とかサービスとか本土目線を内面化した第三次産業は1972年の沖縄の本土復帰、75年の海洋博を境に沖縄に舞台を移し、80年代初頭には白旗を掲げざるをえなくなったが、観光に破れて山河あり。役立たずの山々の木々を薙ぎ倒し、土を均し、農地でも造成すればよいではないかと大人たちはひらめいた。後ろ盾となるのは奄美群島振興開発特別措置法にもとづく公共事業で、その受注は土木事業のほか、さしたる産業のない島においては端的にいって生きるか死ぬかのわかれ道であり、そのうえそれが国のいう振興策なのだから、先の映像で虎雄氏のいう「奄美は世界一おかしい島、貧しい島、不幸な島」との言葉もあたらずといえども遠からずではあった。私はそれらの矛盾からくる不幸を一身に受けたかのようにハマヒルガオの蔦をバツバツ蹴散らかして、汐が満ちそして退いたあとのまだ湿り気ののこる浜の砂を新雪を踏みしめるように歩いた。この浜も護岸工事のアスファルトが浸食しはじめている。よそいきの海ではないが家の風呂と同程度には浸かってきた海である、それが墓石のように四角四面になりかけている、桟橋も補修してきれいになった。私はそのなかほどでたちどまり、手にした写真にあらためじっとみいった。
 壮年の虎雄氏はスラックスにシャツというラフないでたちで、弟の背に軽く手を添えている。むかって左の弟はいまでいう変顔で、緑の縁取りの白いタンクトップ姿で身を捩らせており、とっさにポーズのとれる弟に私は引け目を感じるが、自分だけ叱られたことへの憤懣もまた募ってくる。私は、といえば、虎雄氏から警戒するようにいくぶん身を離し、野球帽のツバの影で困惑したようなにやけ顔をうかべている。この煮え切らない感じがわれながらたまらない。しかし一方で、アーマの叱責はかえすがえすも理不尽である。それ以前に虎雄氏ら一行の行状であり、両者を綜合した大人たちの理不尽さである。昭和の子どもは令和の子たちほど尊重されていなかったとはいえ、現実世界のポリティクスを読み、即座に行動に移せ——などとは、竹千代時代の徳川家康でもあるまいし、無体である。
 私はなおも写真を穴の開くほど眺めたが、眺めれば眺めるほど、そこに映っているのが自分でないような空々しさと大人の世界のおそろしさと世間のさらし者になったかのような恥ずかしさと、にもかかわらず捨て置かれたことへの寂しさと悔しさと怒りとで斑になった感情に、桟橋で釣り糸をたらす人でもいようものなら、遠目にも気づくほど耳元まで真っ赤になっていたであろう。あね、あんくぁ(ああ、あの子)は好きな子の写真でもみているのかね、と釣り人のおじさんもあたたかい気持ちになったであろうか。なのに私はやにわに写真を引き裂いた。二度三度、だれかわらかなくなるようばらばらにして桟橋から海に放った。捨てた——というより隠した。それも、もっとも確実かつ古典的な方法で証拠を隠蔽したとでもいえばいいか、千々になった三人が波間にゆれている。私は反射的に拾い集めたくなったが後の祭りである。離岸流に乗って弟の変顔の欠片が遠のいていく。同じように私はやがてこの海をわたり、島を出るであろう。ヤマトにはこのときの私が想像するよりもっとずっと広い世界が開けていて、多くの経験をした私はやがてどなたかとおつきあいなんかして一緒に写真を撮ったりもするかもしれない。ときにはつらい別れもあるであろう——が、しかしだれかと撮った写真を破ったことはこのとき以来、いまにいたるも一度もない。虎雄氏以外にない。
(序その二につづく)

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