ソーサー、ふたたび、現る
「ソーサー」が気になって仕方が無い。
家で、気軽にコーヒーや紅茶を飲む時は、マグカップのほうが現実的なんじゃないか。特に緩んだ、くつろいだ中での生活には、カップ&ソーサーは無い。わざわざお皿(ソーサー)まで出さないでしょう、と思っていた。
十数年前に読んだ(職場の先輩の勧めで、今まで知らなかった作家の)小説で、夜遅くに帰ってきた夫を待っていた妻がコーヒーを飲みながら、玄関に迎えに出てくる場面で、「左手にソーサーを持って」に、目がとまってしまった。
もう寝ようと思っているけど、ダンナ遅いなあ、と待っている間にちょっとコーヒーでも飲むかの場合、ノーメイクで、緩いホームウェアないしはパジャマかもしれない格好でしょう。飲むとしら、マグカップだよね。という暗黙の想像図を、「手に持ったソーサー」が、ぶち壊してきた。
あのさあ、いちいちソーサー使うかな。ほとんど汚れもしないあのお皿、わざわざ出して洗うかな。普段の生活に出てこないでしょう。まったく、だから作者が男性だと生活感の無い描写になるのよね。
小説のタイトルも忘れてしまったが、とにかく日常生活の中で「いちいちソーサー付けて」飲む描写は、ことあるごとに「想像力の至らない描写」の例として使っていた。
しかし、ソーサー恐るべし。長年、得意げに「普段は出てこないでしょう」論を維持出来ていたのが、先日、ドンと私を揺さぶってきたのである。
ドラマ「僕の姉ちゃん」を観ていた。弟と同居生活をする、黒木華さん演じる「姉ちゃん」は、仕事を終えて夜帰宅すると、弟からの、コンビニで買ったらしいカップのプリンがあって喜び、
「お茶、入れてくる」
次のシーンで、二人で向き合って(絨毯に低いテーブルで、二人ともペタンと直に座った状態で)、姉ちゃんはコンビニプリンを、プリンに付いてくるあの小さなスプーンでおいしそうに食べている。横には紅茶らしきカップ・・・
ソーサーが付いていた。
このシーンで、姉ちゃんはいつも”手のかからないレトルトの夕食”で済ませているようなキャラクターで、それも弟しか居ない家の中で。
カップにソーサーを付けている。
だったら、プリンのスプーン、家のスプーン使うでしょう。いやいやプリンもきちんとガラスの容器にひっくり返して茶色の底を頂点にするように盛り付けてもってきたほうがいいんじゃないの。そもそも、そんな格好で食べないよね。
横にあるカップ&ソーサーの紅茶は、当たり前のような感じで、「姉ちゃん」の右手側に居て、私に違和感のオーラを発していた。
紅茶=カップ&ソーサー、とスタッフも、普段の生活、というシーンに、何も気にしないで設定したのか。
ドラマで「ご飯が右・味噌汁が左」をやっちゃっている場面、あれは世の中の常識で「ダメよねえ」と笑って過ごせるが、カップにソーサー付ける付けない、の調整は、ここまではっきりしない。
このキャラクターを演じる黒木さんも気にならなかったのか。作者の益田ミリ先生も、原作の漫画で、そう表現していたのか(原作漫画の画面がそうなっていたら、またそこに何か意図があるのかもしれないではないか)
「僕の姉ちゃん」、このワンシーンが目に焼き付いてしまった。ソーサー様のおかげである。私の「生活感」自体、間違っているのかもしれない。一般的に、あの使わないのに出して洗うことになる「ソーサー」は、私の生活では「お客様用」だと思っていたが、普段から、個人的に、家庭でも使用するもの、なのかもしれない。帰ってきてお着替えもしないで、バタンと横になるような「姉ちゃん」なのに、カップはソーサー付きで紅茶を飲む。
ソーサーは、時々私の前に現れ、私の感覚を揺さぶってくるのだ。