場所じゃない。好奇心。
昨日は、「月が綺麗」いう言葉をたくさん見かけた。わたしは昨日、月を見るのを忘れていたのだけど、FacebookやInstagramを見て、「あぁ、日本は今日、月が綺麗なんだな」とおもっていた。
今日の帰り道、あぁ、そういえば。とおもって、月を見た。まんまるでくっきりしていて、「なんだ、ハノイも綺麗だったんだ。」とおもった。
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ベトナムに来て1年と1ヶ月が過ぎた。わたしはたまに、ここにいることを忘れることがある。自分にとって海外にいることは、もはや「特別なこと」ではない。それは、大半はいい意味だけど、ちょっと悲しい意味でもある。
わたしの人生のモットー「いつでも今が1番楽しい」人生には、「好奇心」という気持ちがとにかく大切で、必要不可欠。いつでも何かを知りたい、とか、もっとやりたいとか、そういう気持ちを常に持っていたい。
大学生の時は、人からどんどん吸収するだけしていい立場で生きていたから、誰かに会う時は「好奇心100%」を常に持参していた。だからこそ人に会うことが大好きだった。塚田農場のバイトでお客さんと話すことも大好きだったし、浅草のゲストハウスで海外から来るお客さんから聞く話は、本にできるんじゃないかと思っていたくらいに、今日はどんな人が来るかなぁって、ワクワクしながら聞いていた。
コミュニケーション能力を褒めてもらえることがある。でも私は、コミュニケーション能力というのは、要は話す相手にどれだけ興味と純粋な好奇心を持てるかだとおもっている。
社会人になって、というかここ数週間、突然出会いが億劫になってしまった。(たまにある燃え尽き症候群のような。)考えた末に、慣れからくる「好奇心が薄れている」ことが原因かもしれないとおもった。
大人になってから人に会うのって、なんで気をつかってしまうんだろう。気をつかって盛り上げる、それを見て誰かがまた気をつかって盛り上げる。自分が気をつかっているから相手が気をつかっていることに気付く。なんだか最近はそれの繰り返しだった気がする。何かを人に与えなきゃ、というか、何かをしなきゃという今までの「好奇心」が「義務感」に変わってしまったような。
社会って、質問に対して裸の答えで返ってくる人がとても少ないように思う。建前の自分でいて、何かの質問に対して、定型文の答えを用意する。
こないだ、ある友達に言われて刺さったことがある。「営業の仕事で得られるものってなに?」と聞かれて、即答はできなかったけれど、振り絞って出せた答えは「人脈?」だった。
そうしたら、「それは自分自身にどう役に立つの?」と言われた。彼は、クリエイティブな仕事をしていて、やればやるほど自分のスキルが上がっていく仕事を選ぶべきだよ、といつもアドバイスをくれる。
「会社のためにお客さんをとってこれるでしょ?営業成績が上がるでしょ?」と、苦し紛れなわたし。
「それは会社のためでしょ?今聞いているのは、"会社"のためじゃなくて、“自分”のためになったことは何かってことだよ。」
私はちょっと考えてしまった。
大きい会社で働いている肩書きとかじゃなくて、欲しかったのは自分へのスキルだったはずなのに、いつのまにか肩書きに、すっぽりと埋まってしまっていたなあ、と。
「営業」として人に会うんじゃなくて、「人」として、人に会えるピュアな自分でいたいのだけど、社会はそうはいかないのが社会なのかもしれないと日々感じる。
ベトナムでも日本でも、大切なことは一緒。
海外でも日本でも宇宙でもどこでも、どこで働こうが何をしようが、大事なことは、場所ではなくて。好奇心を持って楽しくできる“何か”(見つからなくても自分流にアレンジして、好きなことにすることがもちろん大事。)で、かつそれは人のためではなく、どんどん「自分に」蓄積できる。その“何か”を見つけられていなくても、常に探している人でいたい。
※最近の悩みを整理したかった。