見出し画像

BFC6ジャッジ応募作品



斑目規至

 無芸の王について

 短い文芸を読む機会があった。短い期間に、たくさん読んだ。ネット上の「古賀コン」というコンテストがそれで、与えられたお題に沿って一時間で作品を書く。八十七作が集まって、せっかくだから二、三日かけて全て読んだ。
 一時間というところが、絶妙なシステムだった。短編でおさまる構想を設計すれば、綺麗にまとめて、ぬかりなく推敲できる。けれど、思いあまって書きに書いた作者は、強引にまとめて、書きっぱなしで提出するはめになる。といって構成がいかれた作品でも、文章は、整っていることが多い。書きに書くタイプの作者は、書き慣れてもいるので、いちおうの描写を反射的に書けてしまう。
 ある小説が気になった。その小説も整っていた。けれど、一箇所だけ、前後の文脈から浮き上がっている文があった。「ひょっとしたら作者の普段の気持ちかもしれない」という感触の文だった。作品としてめかしこんだ言葉のなかに、素顔めいた文が、うっかり混じっていた。
 そして、わたしは、うっかりの一文の前で、どうしていいかわからなくて、立ち止まってしまった。
 ずいぶんつらそうだったのだ。

 で、ブンゲイファイトクラブの話をする。
 古賀コンとブンゲイファイトクラブは、違うところがある。
 ブンゲイファイトクラブも、ネット上で開かれるコンテストだ。短い文芸を持ち寄り、殴り合う。闘技場に行くまでは、じっくり準備をする時間がある。だから、文芸たちは、鎧を着てくる。道着を着てくる。戦うために装ってから、舞台にあがる。ジャッジは読解する。組みついて、防具を分解する。手こずる。硬くて剥ぎ取れないし、掴みどころがないし、脱げたと思ったら鎖帷子も着ているし、やったと思ったら変わり身の術をつかっていて本体は別にあったりする。
 実は手こずるのは、けっこう楽しい。装備が豪華であるほど、攻めるほうにも見せ場がある。精緻に読み解けば爽快だ。太刀打ちできなくても、負け方が繕える。読みの手数を誇り、アクロバットな論理で装備を剥がして、大いに誤読し、意外な結論を導いた末に、負ける。試合に負けたけど爪痕は残したな、なんて気分になる。もちろん、客観的には、ぼこぼこになっているのだけれど。
 芸にまつわる腕前が、評価対象になる。だから、「文芸」は競技として成立する。
 ところが、古賀コンは困った。整えた装備の外に、内蔵が出ちゃっているやつがいる。むきだしの文だ。さみしそうだ。つらそうだ。苦しそうだ。なんかそこ触ったら血が出そうだ。つかんだらもう臓腑だ。触っていいのだろうか。心配するの、大きなお世話か。先に書いた通り、古賀コンは、ブンゲイファイトクラブではない。トーナメントでも、精読を求められる場でも、ない。だから応答の必要もない。でも、なにか、そこに見える。見てしまった。
 無遠慮に問いかける。
「つらそうなんですかね」
「……」
 わからない。
 解読される前提にない、準備されていない傷だったと思う。
 解かれることを準備された主題は、その主題について、著者の側にも解かれる用意がある。だから主題は、用意された手がかりで防備している。それでは、準備されていない主題めいたものに、読み手はどう応答したらよいのだろう。そもそも読もうとするべきなのか。
 鎧の有無。そこに「芸」の境界がある。
 鎧のない文は、シンプルだ。ここでわたしは「鎧」を、ある主題について書くために作者が飾った要素、という意味合いで使っている。描写だけでなく、話の筋や展開も「鎧」に含まれ、意図の有無と巧拙は問わない。どんなものであれ、筋や描写で鎧われた「文」は結果的に「文芸」となる。芸は鎧だ。
 文芸は何らかの主題をもっている。主題はなんでもいいし、そこでも意図の有無は問われない。「いい雰囲気で過ごした」だって主題だ。
「文芸」の主題を解体すると、「文」でも主張できる内容であることは多い。
 つまり「文」は、おおむね、主張だ。つらい。星が綺麗。この国は間違っている。主張はシンプルだ。筋や描写という鎧がない。読解の見せ場がない。この小文において、鎧とは芸と同義だ。つまり、筋や描写で鎧わない「文」は、芸がない。芸ではない。だから競技にならない。主張を競技化するのは、間違っている。
 いちおう断っておくと、例えばSNSに「つらい」と書くとき、書き手には何らかの「つらい」という意図がある。文が書かれれば、そこには確実に書き手の意図がある。いっぽうで文芸は、その総体が作者の意図なく主題をつくっていることがあり、文芸から主題を文として抽出するのは作者ではなく読者である、という違いはある。
 さて、古賀コンで出会った文は、何者だったか。それは特殊な位置にいる。
 文芸を従えてしまった文。
 まず、わたしの内的体験は、簡単に説明できる。わたしは、文芸作品全体から浮き上がっていた「文」を「つらそうだ」と思った。そのとき、作品を離れて「文」のみと相対したような気がして、たじろいだ。これは、構造としては「共感」と「サプライズ」にすぎない。個人的な感傷に、ある文がたまたま、覿面に効いた。その文が他の文脈から切断されている、という意外性が、驚きをわたしに与えた。つまりこれは芸の一種なのだ。その他のあらゆる描写こそが、必要だった。前後の文脈から切断された、と思うためには、前後の文脈が存在しなければならない。周囲の「芸」たちが祭り上げてはじめて、無芸の王が引き立てられた。ほか全ての文章が「文芸」だったから、無芸の文は輝いた。
であれば、やはり「文芸」は、強い。
「文」は、単体では、弱い。シンプルすぎて響かないことがある。「つらい」と三文字書く。読み手は「あんたもつらいか」と思って、それだけだ。心に訴えるためには、今や誰もが「つらさ」を、巧く語ったり書かねばならない。あの文も、一文のみで存在していたなら、きっと読み流していた。
「文芸」は強い。いくつもの修辞や展開が主題と輻輳して、読んだ各々の感性をうったとき、ある主題は読者個人のなかで光る。ときに、書き手の想定を超えて光る。ふつうの鎧でもそうなる。だから、個人的な主題が「刮目すべき鎧」をまとったときには、作品は圧倒的な読みがいを得て、より多くの胸に届く。登場を許される。
 そして無芸の王が生まれるためには、作品ないし王をかつぐ文章が、短いまとまりでなければならない。長編全体が一つの文に奉仕する作品は、夢想こそできるけれど、現実味はない。無芸の文が強くなる構造は、短編にのみ認められる。そこに、短編にしかない可能性の一つがある。「短い文芸」だけの強さは、確かにある。
 さて、闘技場に上がる文芸は、みな、強い。強く仕立てた文をまとっている。強いから、文芸は安心して競技できる。そして、競技の域を出ない可能性をはらむ。芸にまつわる腕前だけが、評価対象になる。芸が引き立てた主題そのものは、競技上の評価対象にはならない。読み手の主題への向き合い方も、評価対象にはならない。主題の存在を読めてさえいれば、わかろうとする姿勢を示せば、わからなくていい。競技のうえでは。姿勢さえ示せば。
 わたしは無理やり、一つの文芸をリングに上げて、いま自分なりに鎧を剥がし終えた。突っ込みどころは想定できる。二、三、仮想の論敵と応酬してみると、やりこめられる自分も見えてきた。そのときはでも、健闘して負けたと言えそうだ。汗を拭きつつ見上げると、うずたかい鎧の残骸のうえに、裸の王が横たわっている。弱い文が横たわっている。同じことが、まだ、書いてある。あれだって芸の一部だと言い聞かせる。あれは芸の一部だと言い張る。あの文には戻りたくない。あの文は二度と読みたくない。あの負け方はただの負けだった。


RNオンリー・イエスタデイ

24年10月分野良小説新人月評

 ハングルも読めない◯◯のくせに急にすり寄ってくるすべての、腹黒いものたちのみなさんこんにちは。今最も注目されていない気鋭の毒舌文芸批評家です。って言うつもりだったのに世間はすっかり村上春樹ディスにご執心なため、「街とその不確かな壁」と「ドライブ・マイ・カー」の原作しか読んだことない俺はチベットスナギツネみたいな顔しかできん。んなことはどうでもいいんですよ、今月は紹介する作品がめっちゃ多いですからね。3ページにもなったら最後の方なんて誰も読まないでしょうよ。
 樋口六華「泡の子」(すばる)冒頭の王、写真のおぢ、花屋の件など、一つ一つは独立した点として上手く書けているのに、それらを繋げる際に読者の俺が一番興味のない七瀬の軸で線を引いてるから全体的に面白くなかった。
 まあこれを暫定の歌舞伎町文学賞として扱っていいんじゃないですかね。高橋源一郎さん、見てるー?
 新崎瞳「ダンスはへんなほうがいい」(す)世界の不条理について登場人物の池田に語らせるのはいいとして、それでデビューしちゃったら作者は得してる側になってるけどいいの? まあそれはいいとしてラストがすごい良かっただけにアオちゃんと邂逅する理由が薄くて損している。
 竹中優子「ダンス」(新潮)途中までは令和最新版の石田夏穂として神がかっていた。スケボーとか球場などの本筋と直接関係のない描写が上手すぎて引いた。でも後半のクソみたいな展開で全てが台無しになった。俺のほうがよっぽどビンタしたい。
 仁科斂「さびしさは一個の廃墟」(新)レンとイルカとマサとタイセイのどれが誰なのかで迷子になるし、島パートのイザコザが急に解決して結婚式になったり何の賭けに負けてどう勝ち組になったのかよく分かんなかったです。
 待川匙「光のそこで白くねむる」(文藝)信頼できない語り手を出すのはいいけれど、最後まで主人公の頭の中で完結しているので、どれが真実なのか読者は判別できないし、冒頭の事件との関わりについてももう少し提示するか削ってくれないとモヤモヤしたまま藪の中で終わる。
 松田いりの「ハイパーたいくつ」(藝)日比野コレコの百番煎じというほどでもないが、思考をバーっとするフローの文体で何を伝えたいのか分からなくてまあまあ退屈だった。「大になってしまう」のところは死ぬの方のDIEとかかっていて面白かった。
 なお、新人の作品を読みすぎた副次作用でプロが書いた小説がめっちゃ面白く感じるゾーンに突入する。
 坂上秋成「泥の香り」(文學界)下期は中年を迎える主人公が将来に漠然とした不安を感じるやつが「網野は変わらない」と「すべてを抱きしめる」に続いて3作品目なのですが、この作品が一番現実を突きつけてきて俺まで辛いので是非読んでほしいです。
 鳥山まこと「アウトライン」(群像)AIが出てくる純文学といえば「紙の山羊」「東京都同情塔」に続いて3作品目なのですが、「東京都同情塔」では牧名が塔と一体化するのに対し、この作品ではどういう答えを導き出したのか、是非読んでほしいです。
 大前粟生「物語じゃないただの傷」(藝)これめっちゃ面白かった。こっちのほうが「いなくなくならなくならないで」だった。是非読んでほしいですはもういいか。いい感じの終わり方と思いきや後藤の代償が大きすぎて草。
 紗倉まな「ガールズ・ファイト」(藝)これは春号のプロテイン文学用に書かれたけど色々あって冬に回されたのではという邪推。登場人物の書き分けも上手く、それぞれの目的、連帯しない連帯についても良かっただけに、上手さが先行したせいか普通だった。「うつせみ」よりは好き。
 斜線堂有紀「場外戦」(藝)ドネキは高瀬隼子が芥川賞を取った後にご自身のスペースで「私にも芥川賞をくれ、頑張れるから」という旨の発言をされていたのでもちろん取り上げる。こっちのほうが「ガールズ・ファイト」していたけどいかんせん短い。
 「ありふれた眠り」のラストはいい純文学持ってるので作為をしない為の作為、つまり良さを手放しながらもっと長いの書いてクレメンス。
 王谷晶「君色の季節へ……」(藝)これは「moon」?と思ったけど違った。「幸福な王子」は鍵になっている?
 間宮改衣「ライフリクエスト」(藝)これは期待外れというか何を書いても夜明け前と比べられるのが割とキツイ。
 以上は、本家新人小説月評に書いたりしたら半年でクビになるであろう私のでたらめな独自研究である。

水嶋いみず

ジャッジ応募について思うこと

 深夜四時。酔いの回った双眸に、BFCジャッジ追加募集のtweetが留まった。錯乱と無謀と些かの期待とがない混ぜになった指が、止めようとする理性を嘲笑う思春期のごとく打鍵する。三十年前はこんな文章がかっこいいと思っていた。
 BFCは私にとってある意味因縁深いイベントである。第一回から絶対の自信をもって応募して、箸にも棒にもかからず、全作感想など書いても誤読というより勘違いが多く、恥の上塗りをするだけだった。一方で、十年以上のブランクから呼び覚まされたのも、自らは決して求めない作品を熟読したのもBFCの仕業だ。二十年前はこのくらいの文章がいかしてると思っていた。
 実は生きてる作家の作品を読み始めたのはここ二十年くらいのことだ。図書館で文芸誌を借りられるようになって、新人賞や現代作家の作品を読みあさった。三十年前に新人賞を知っていたら応募していたのにと思いながら、読みあさった。
 第一回BFCのあとに、六枚道場というtwitterでのオープンサークルとでもいうべきイベントに参加するようになった。これをきっかけに、それまでの十年に一度小説を書くというなんとか彗星のような周期から抜け出して、毎月掌編だけどとにかく書くのを一年続けられるようになった。ここ十年くらいはこんな文章を書くようになった。
 さて、もしBFCのジャッジをするとなれば、私としては批判があるのは承知の上で、自分の感性を頼りにしたい。ジャッジのジャッジやギャラリーからの批判を受け止めうるだけの歳は重ねてきた。いざとなったら泣きつく先も確保している。政治家が他愛もない身を切るくらいなら、堂々と太って批判されない実績を残してくれよと思うわたしだが、そもそも身のない私なら、遠慮なく骨の髄まで捧げることができるのではないだろうか。
 そういう観点と、文学ではなく文芸という前提からは、批評だけでなく感想も含めたジャッジをするつもりである。実際に作品を見て変わることもあるかもしれないが、現時点で私の思う優れた作品とは、以下のようなものである。

一.初読で感情や意識をどこかへ連れて行ってくれる作品。
二.卓越した知識や理解力がなくても読める作品。
三.重層性があり、奥行きを感じさせる作品。
四.理屈だけではなく感性に訴えかける作品。
五.たった一つでも、一生忘れられない言葉やシーンを含んだ作品。
六.直感的に魅力的な作品。

 ジャッジの条件として提示された二つの条件。一つ目の「自分はすべての形の文芸について判断をくだせる」には、正しい判断かどうかを問わなければくだせる。というよりくだす覚悟がある。二つ目の「人の運命を左右しても構わない」には、左右できるなら本望であるとお答えする。
 偏ったジャッジになるかもしれないが、そもそも読者とはそういうものであろう。複数分の一ということで受け入れられたい。

松本勝手口

青野暦「草雲雀日記抄」にみる死者の語り

 死は、個人的な見地から言えば、非常に特異なできごとである。と同時に、世界的に見ればありふれてもいる。現在生きている人間より、過去に死んだ人間のほうがずっと多い。
 私たちは一日のうちに何度も、すでに死んでいる人のことを思い出したり、深く悩んだり、その人の世話になったりする。

 青野暦「草雲雀日記抄」はその題の通り日記文が全編の約半分を占める小説であり、その日記の書き手・菜緒太は作中時間ではすでに故人である。残りの半分は、菜緒太の息子・初之輔が父の日記を読むさまを美大の先輩・棗さんが映像作品として記録し上映するという、非日常的日常パートからなる。
 本作が特異なのは、この日常パートにおける視点人物である初之輔の語りが「初之輔」という三人称と「おれ」という一人称を不安定に行き来する点にある。一体なにがそのような不自然な錯綜を要請したのだろうか。

「初之輔は、とおれが棗さんのスクリーンに映されたおれを、その『作品』に描かれた時間を思うように、まず三人称でおれのことを思い、書くのは、たぶん菜緒太がおれのことを初之輔と呼ぶ声を思い出しているからで。愚かなことだが、おれは、かれの小説になりたいと思っているのかも知れない。なりたいというか、たしかにそうであるように、たしかにそうであった、とふいに気づくように、思いやることがある。初之輔は自分の人生が、菜緒太が書き終わらなかった小説であるかのように、感じているときがある。」
 
 一度も世に出ることはなかったが、生前、菜緒太は小説家だった。初之輔の、父(および彼の書いた文章)にたいするやや過大な感情は脇へ置くとして、この人称の揺れは、本作の語り手が、日記パートのみならず日常パートにおいても、初之輔や棗さんではなく菜緒太である可能性を示唆しているといえないか。

 もちろん、死んだものは死んでいるのだから筆をとることはできない。しかしそれは現実における話でしかない。小説は現実を乗り越えることができる。
 しかしそれは、小説においてさえ、ありふれたものというわけではない。それゆえ、この小説ではある種の種明かしというか「答え」が提示されている。最終盤に、日常パート(つまり菜緒太の死後)の時間軸である2026年の日付が付された、菜緒太の日記が置かれているのである。

「二〇二六年一〇月六日。(中略)
 私がいまも生きていると、初之輔が、おれが思う秋はまた来るだろう。紙もペンもなしに、たとえからだを、ことばをなくしても、私は日を書き継いでいく。いつか季節に咲く花になるまで。(中略)すべてがたおれ、枯れた花野で、歌をうたう虫になるまで。」

 死人に口なし、と生者は言う。しかし人は、死ぬことによってはじめて、純粋になにかを語りはじめることができる。書くことと語ることは、死者の掌において初めて一致する。語りによって延命された魂は花や虫に宿り、視点を自在に行き来しながら、小説をもの語りはじめる。
 「草雲雀」のなかで最初に出てくる日記は二〇〇八年三月一〇日付で、そこにはキルケゴールがコンスタンティン・コンスタンティウスの偽名で出版した『反復』の「最重要と思われる一節」が引用されている。

「『反復と追憶とは同一の運動である。ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである』(桝田啓三郎訳)」

 作中で菜緒太も言っているように、読む物を足場のないどこかへかどわかすような文章だ。しかし本作の軸は間違いなくこの「前方に向かって追憶される」という文章にある。前述のような人称の構造を要請したのもこのことであり、本作は、このことの不可能性にたいする探究が書かせた小説である。

 ※引用はすべて、青野暦「草雲雀日記抄」(文學界2024年5月号)より。

関寧花

兄妹(「船の話」マリー・ルイーゼ・カシュニッツ短編集『その昔、N市では』)

マリー・ルイーゼ・カシュニッツ短編集『その昔、N市では』内の一篇「船の話」は、中年の兄が中年の妹を予定と違う船に乗せてしまったことから始まる。嫁いだ家に帰るはずだった妹は、永遠に終わらない奇妙な船旅の中に取り残されてしまい、兄は数か月してようやく届いたぼろぼろの手紙で、妹がおかしなことに巻き込まれ、もう戻ってこないことを知る。
読みながら、歳のいった兄と妹という関係に特有のじめっとした雰囲気って不思議だなあと思う。中年の兄妹と聞いてすぐ思いつくのは「赤毛のアン」のマシューとマリラ、そしてフリオ・コルタサルの短編「奪われた家」で明示されない脅威に家を追われた兄妹あたりか。後者の方は大学の外国文学精読の講義で扱われた際、キリスト教徒の学生がはっきり「近親相姦の気配がする」と嫌悪感のにじんだ感想を述べていたのが印象に残っている。
祖母がグループホームに入居した際、祖母の兄一私からしたら大叔父一に電話でそのことを知らせたところ、あまり興味がないし見舞いに来る気もないようで、こちらの話をさえぎって株でいくらか儲けた話をされ私と両親は鼻白んだ。母は薄情だと怒っていたし私も概ね同意だが、半世紀以上前に嫁いで法事でしか会わない妹など案外そんなものかもしれない、逆にいつまでも仲のいい兄妹って……とも思った。親への感情には愛か憎しみしかないが、兄弟姉妹は人によっては無関心もありうるような気がする。だからこそ、いい歳して仲の良い兄妹にはなにか危うさを感じるのだ。

「船の話」の兄妹が赤毛のアンや奪われた屋敷の兄妹とは少し雰囲気がことなるのは、各々が結婚して家庭があるからだろうか。前者二つは結婚に失敗して社会的に微妙にコース外にはみ出た二人の相互依存っぽさがあるが、「船~」はお互い既婚な分、より理由のない背徳的な関係の気配がしてしまう……のは私だけだろうか。
さらに言えば、終わらない船旅に引きずり込まれたとき、妹が決死の思いで書く届く保証のない手紙が夫ではなく兄宛というのも、そう思わせる材料のように思う。


ササキリユウイチ

「あめあがる/マリヤ、/浜辺に砂を食み」という西脇祥貴の川柳一句評(832字)と②郡司和斗の歌集『遠い感』の書評(1356字)と③月波与生の川柳句集『ライムライト』の書評(5729字)

①Janice BostokのHands up who Likes One Liners?で、英語における縦向きの一行詩の実践が紹介されている。辞書におけるHaikuの説明の記載から、あるいはしばしば十七でなく五七五と言われることから想定されるのは、川柳が三つのブロックから成るという大きな認識だ。なお「ブロック」は極度に抽象的なものとして解すこと。仮定。英語において改行は、ブロックを三つ作成する手段から、十七音であることを明らかにし得る手段となったが、日本語においては、十七音であることは既に開示されているため、改行は元来、非日本語圏がそう解釈したように、ブロックを三つ作成する手段であったのだが、自明であるために廃れた。すると、改行は一体何の手段になりうるのか。行分詩の定型化?いや、潮流にはならないだろう。われわれは一行に隙間なく文字を並べることで、気持ち良くなることを知っている。おそらく改行は、五七五でなく十七と強く言う手段となるだろう。強く言う必要がなくなった後で、改行は消え失せるだろう。予想。ブロックという極度に抽象的なものを完璧に忘れ去る現象が到る所で起きる。勿論、既に起きている。この句を選び、私は顕在化を助けた。この句は長い脚で美しいスタートの姿勢を取っている。遠回りの/で、改行を実際には行使しない(行使とは能力を発現することである)。ショートカットに成功している(ショートカットは正しい道から外れていないことを暗に含む)。というか、このショートカットによって、顕現までもがショートカットされている。貴方はもうある欲望があることに気づいている。満たしてもいい。私もそうする。この気づきの悦びを偲ぶ際には、曇った空の下の、一様に濡れて無機質な海の砂にひれ伏す身体を浮かべよう。この身体の持ち主は、マリヤでなくてもいい。むしろこのことは忘れるべきである。晴れた空を浮かべよとの要求は全く存在していない。それがわかるならば、マリヤであってもいい。 ───────────────── ② 人の人生振り回しながら生きたいとちょくちょく思う風の屋上 p68 僕のせいで苦しむ人がいてほしい電気ブランのように眩んで p139

風の屋上にいた頃から未だ張り付いている欲望は、折りたたまれた性欲よりももっと、トガることとは逆の側にあり、遠い。やや落ち込んだように見える顔。

トガッていたいと思い続けること 光の逆説をチェック p81 雪国で雪のアンチをやっている財布に温泉の領収書 p122

「国会議事堂」近辺にまだ容易にアクセスできたころの食券(〈しばらくは洗濯物とともに干すしなしなの食券とお財布 p20〉)を持つような生活圏に居た頃から時は経ちー頁数が増えー、雪のアンチとして相変わらずまたしなしなになるであろう領収書を入れている。

いくつまでゆるされキャラでいけるだろうアパートまでの葉桜の道 p52 少しまってやっぱさっきに打ち上がった花火が最後じゃんかと笑う p54 雷が光って音がするまでに 水商売を憎んでいた時期 p60 1円玉二枚をずっとポケットのなかでいじっている 朧月 p72 輝きが視界の隅でかがやいてだんだんみえてくる夏の川 p87 殺すよ(暗黒微笑)ってほんとはどんな顔をしてわたしは書いた? 朝の雷 p93 片思いのままいくつかの片思い 冬の桜の木をかいでいる p98 人んちの犬の名前を呼ぶときの軽薄さって満開の桜? p109 Adoのサインは欲しい欲しくないのレベルじゃない 氷柱越しに見る月 p118

四季のアンチをすることが逆張りに還元されてしまうとしたら、という留保が浮かぶくらいに、逆張りというカテゴリーは広く執拗だ。四季へある態度を取ること自体が順であるから、四季のアンチは逆ではない。私は、四季に無関心であるし、この態度を相対化できていないため、歌集に穴埋-答え、フィラー、スキャットといった語群を念頭にーのように配置された四季的なものの数に驚かされた。

あ、まだ学生です。ええ、でも誰かのためになにかしたくて毎日震えています p120

私が無関心であるところの四季で埋められた穴と、逆張りか否かと訊くまなざしの意識との内で、こうしたものがすっかりと取り払われた「そういうひと」の章における揶揄の調子が、装丁のあのカラーに包まれることにより、最高度の戸惑いを読者に与えるだろう。無論、無視は可能だが。常に読書体験が割を食うものであるという恐ろしい事実を、これだけポップに、正確に言えば暗に伝達しうる。これが『遠い感』の美点に違いない。 以上のような、逆にまつわることからは離れた連作として見えてくる「the habit of being」にも、〈少ししてから見上げるとふやけてる鱗雲あるいは友情観〉との時間の表現が素晴らしい歌があるわけだが。

消化器を抱いていないと青空に落ちてゆきそう 見ていてほしい p16 海になつかしさを感じているうちはほんとうのさようならは言えない p57 ンゴねぇと言われても困るンゴねぇ そういうノリが大切だった p133

この辺りに、やっと真顔が見えてくる。特に「ンゴ」の歌はしっかり、そういうひとというよりも、こういうひとの真顔だ。この手の歌が、捉えたはずの戸惑いへの視線を巧みに外す。ともあれ、リテラシーとは、ドミンゴ・グスマンを知っているかどうかなどでは全くないのだ。 ─────────────────── ③ 本文のある側面は月波与生の川柳句集『ライムライト』の評である。ご依頼は「句評」だった。真面目に従うことにして、句の評をいくつか行うことにした。冒頭で、ササキリが最も好んだ一句に対してやや長い句評を附ける。次いで、本句集には、というか一般に川柳には、とあるモノ化への欲望がある、という仮説を抽出する。モノ化の卑近な例は擬人法だが、異なる方向に登っていくことになるだろう。モノ化という川柳の方法に一定の筋を与えるために、単発的な一句評を続けながら、技法としてのモノ化がより良くなる条件の予想を幾つか打ち立てる(例えば、④光景は速すぎてはいけない。⑤ただ一つの語は、ハナから速すぎる。)これらは作句法の危険な秘訣でもありうるだろう。これらを踏まえて、また一つ句に評が捧げられる。その評は、読者(貴方、と呼ぼう)を逆撫でするかもしれない。

「小数点五位までは密葬に」(四〇頁)、「眠るように死ぬパスワード「******」」(四十四頁)。決してあからさまには出現しない秘密がある。確かにこうしたパスワードへの好奇心はその発見のために必要だろう。秘密は、密葬がごく単純に示すように、一人ではありえない。小数点五位までで五者いるから、ではない。その五者それぞれに密葬を執り行うごくごく近しい者が、それぞれに存在する。汲み尽くせないものは、アスタリスクから溢れ出すそれよりもずっとずっと多すぎる。

無理数のすべてを点描画の鳥へ(六十四頁)

この句の「すべて」はすべて(はありえない)、という無理数の数学における定義を飛び台にしている。とはいえ、「この鳥は不可能なものなのだ」という読みはありえない。この「鳥」が不可能なものであるとする読みが依拠する事実は、例えば以下のようになるだろう。「無理数のすべて」が、ランダムに、且つ無限に羅列される数字をすべて汲みつくし、確認し、点検することはない、と。だが(この文章の流れからそれとは逆のことを言うだろう、と貴方が予想したように)「無理数のすべて」は、実のところ、無理数のすべてを汲みつくしている。それが「無理数のすべて」という表現なのだ。「無理数のすべて」が取りこぼしているのは、いつまでも点検しきれない数字ではない。こうした不足とはもっと別の不足があり、語が元来持つ過剰さ故の不足がある。「無理数のすべて」という語自体が、ある希少な部分を残している。より積極的に言い換えよう。「無理数のすべて」という言表には、常にレアな筋が隠されている。私も貴方も永遠を感じるのに、無限なもののひとつひとつを確認する必要はない。例えば、無理数のすべてという語を知覚して感じる。既に永遠を、無限を感じている。こうした事実は点描画の視覚的な表象の次元でも成り立つ。私はそれが鳥だとわかるように、永遠を感覚するだろう。「点描画の鳥」は、たとえ無限の点からなるにせよ、またその点がどのような大きさや形であるかに関わらず、決して鳥だとわかるような輪郭の域はでないだろう。点描画が極限まで赴いたとしても、黒い面は構成され、鳥はその面の輪郭の線に留まる。およそ想像しうるなかでも最も黒いというのが極限の一形式になるだろう。ただ無限に広い空間に投げ出されるわけではなく、あくまである境界に留まりつつ、私はそれを無限だと思う。かくして、この鳥は不可能ではなくなる。さて、可能な光景を描写しよう。幾ばくかの隙間を埋めようと点ないしアラビア数字が増殖して、鳥は明滅している。素地の白の明、点の黒の滅。鳥の趾に目を配ると、無理数の羅列がなおも供給しようとしてくる点が趾をまっ黒に埋めようとする。趾に集中しすぎて、胸の方は視野から外れており、さて、胸のほうを一瞥すると、まだタブローの明るさがあり、増殖を続けている。私はうんざりして、いわば鳥の目で点描画の鳥を見ようとするのだが、やはり鳥は明滅している。私はおそらくまだ増殖を確認していない鳥の部分があると考えなければならないのだろう。かくして永遠が感覚されるのだが、そのためには、無理数のすべての不可能さだけがあればいいのではない。点描画とセットでなければ。鳥は明滅というよりも、むしろこれ以上点を重ねても濃くはならない、という域に達するはずなのだが(鳥を構成する黒すぎる面)、決して滅に支配されず(黒すぎるということはない)、常に明を逆側に穿とうと努める。黒に塗りつぶされた鳥はそこにはなく、かといって静止した点描画の鳥もない。鳥は鳥の限りで流転する。なぜ明滅するのか。確かに「点描画」が明であり、「無理数のすべて」が滅である。ところが、「無理数のすべて」が、むしろ明の条件となっている。不可能であるのは鳥ではなく、私が広く見渡すような鳥の目をもつことだろう。点描画の鳥によって、無理数のすべてには、暗く消極的な筋ではなく、明るく積極的な筋をつねに算出するレアな部分が見出される。これが、あからさまには出てこない秘密なのだろう。 一端のところ、「無理数のすべてを鳥描画の鳥へ」の希少部位を磨くのはこのくらいにして、ここまでの読みから、本句集の節々にはある傾向が存在する、と試しに言ってみよう。とあるモノ化への欲望がある、と仮説を立てる。この句では、円周率をπと表すことにするのとまったく同様の働きで、無理数のすべてが記号化されている。永遠を表象から感覚へと送り返す方法の一例である。だが別のモノ化がある。「を?へ」という構文で表象化されるモノ化。モノ化は、ひとまず視覚可能なものへの転換、程度に捉えておこう。記号が一目で判読可能である、ということではない。こうしたモノ化では、対象は多少乱暴であってもモノにされて、光景に投げこまれる。モノ化とは光景への投げ込みである。ハナから光景であるような対象は、常に陳腐さとせめぎあうことになるだろう。陳腐とは、基本的なものであり、ありふれたものである。 ここまでのモノ化についての指摘を整理して、作業仮説にいくつかの足場を与えてみよう。一つ目に、①モノ化は十分に行われる必要がある。二つ目に、②すでに光景である対象は、ありふれた動きをしてはいけない。例えば、「青空は哀しいほうに行きたがり」(三五頁)は、陳腐の感を拭えないだろう。それは青空があまりに莫大すぎるために行くという動作では十分に表象されないか(①の点から難有)、あるいは表象されたとしても、その移動がありふれた景色の交代であるか(②の点から難有)。 他にもこうしたモノ化の例を『ライムライト』から取り出してみることにしよう。「青空」の句の次には、「空き瓶に誰でもよかったを詰める」という句がある。まだ、三句ほど挙げてみよう。「諸行無常やっと名札を外される」(四十五頁)、「とりとめと長い詩集を贈与され」(五十二頁)、「それからを盛る大皿の洗い方」(六十九頁)。 まず手短に。「誰でもよかった」は、空き瓶に詰められる砂だか屑だかになってモノになり、光景になる。「諸行無常」は名ばかりどころか、もはや取り外し可能な名札になっている!「とりとめ」は「長い詩集」と同等のモノになり、「それから」は接続詞ではなくモノになっている。 私は、川柳でモノ化されたものを、何かの喩として強く読もうとすることはない。喩として読むとしたら、川柳的な強く言う力は、散文的な否認の濁流に巻き込まれてしまうだろうから。ここではその理由を詳細には記述できないので、例示に留めよう。私の読み方は、決して語が背負うコンテクストをまったく無化することを意味しない。 例えば、「ありえない角度で舌の根が乾く」(七十七頁)は、確かに慣用があり(前言は撤回されることなくまったく反対のことが述べられるあの滑稽さ)、慣用としての物理法則がある(涎が乾くために必要な独特の速度)。 だが、それでもなお、「乾く」にはとある角度が存在するのだ……。それ自体がありえないことではないか。川柳は「ありえない」と付け加えながらそう強く言っている。この強さを、慣用の脈流に拘泥しながら如何に引き出せようか? 「空き瓶に誰でもよかったを詰める」にしてもそうだ。慣用のなかでは、この句にはただ弱い空虚さだけが残るだろう。むしろこの句が投げ出し、そして残すものは、「誰でもよかった」が一端輪郭を得て飾られたり、あるいは海に漂うために投げられたりする可能性を含むこのありえない感覚であるはずなのに。 さて、こうした読みにおいて、「とりとめと長い詩集を贈与され」は句として成功しているかどうかについて、留保がつく。「長い詩集」が「とりとめ」と同等のモノであることは極めて基本的なことだからだ。足場の三つ目、③光景が対比されるとき、はじめから釣り合っていてはいけない。 「諸行無常やっと名札を外される」では、諸行無常自体がモノ化されることによって、諸行無常モードが実現され、非諸行無常モードが反実現されている。諸行無常だけでは不可能だったような、パラドックスが提示されている。諸行無常が、それ自体の創造と再構成である条件となるような。「無理数のすべてを点描画の鳥へ」の読みを想起せよ。 「それからを盛る大皿の洗い方」は、何かの喩として読み込もうとすると、「それから」がたちまちに「洗い方」を陳腐なものにしてしまうだろう。この場合、大皿は「それから」使われるのである、ということになってしまう、幾人かの家族と、幾人かの友人との食卓。「それから」はあくまで、少なくとも大皿に盛られることが可能なモノなのであり、さらにこの句で問題になっているのはその洗い方なのだ。洗い方?「それから」を盛るためにはある条件があり、それはある川柳的な洗い方なのだ。意味がわからない。意味のわからなさがこの句の稀な部分である。 慣用はそれほどダウンロードに時間がかからないし、速い光景として処理されるだろう。慣用が処理されないとは言っていないことに注意されたい。慣用は瞬間的に理解されるものにすぎない、と言っているのだ。稀な部分、秘密。句と私との間で確かに、ダウンロードに果てしない時間がかかるような遅すぎる光景として存在する。ナンバリングしておこう。④光景は速すぎてはいけない。パスワードが簡易すぎてはいけないのだ。「諸行無常」の句よりも、「無理数」の句がより良いと私に感じられるのは、後者のほうがより光景が遅いからだろう。 モノ化されるものが、他の語によってどのような汲みつくせなさを発揮するのか?これが川柳の面白さを左右するだろう。背理法的な仕方で、五つ目の足場が組み立てられる。⑤ただ一つの語は、ハナから速すぎる。実はこれは、予想①の前から初めに書いてある。 最後に、陳腐な擬人化でも、基本的すぎるモノ化でもない、やや神経を逆撫でするようなモノ化にも触れよう。

戦場で集めた中指を立てる(三十八頁)

予想①から⑤をクリアしているとしてみる。実際、①と②は容易にクリアしている。③がクリアしていないとするのは、戦場と中指の近さを過大評価する場合であり、この場合は④が自動的にクリアしていないものとされるだろうが、この読みはこの距離を過少評価する。「中指」が戦争に対するファッキューとして読まれるようなことは、川柳においてはたらく特別なモノ化の読みにおいてはありえない。もしこの句がそれで止まるのだとしたら、陳腐な喩に留まるだろう。中指はハナから、その指という肉それ自体から離れて、ファッキューと言っていたし、言っているし、言うだろう。要するに、③をクリアしていないとし、戦場=中指の距離をほとんど零にするならば、中指というモノを過少評価しすぎている。中指というモノへの配慮が足りていない! 中指は⑤の観点から、速すぎてはいけない。だが、それにしても、立てられた中指が言うファッキューは速すぎる。慣用が強すぎる。慣用はある罪悪感や、良心の呵責を引き連れてきて、速すぎる光景でダウンロードを止めることを責任として要求するかのようではないか。 こうした要求は、実のところ、川柳にはない。川柳的な断定の作用、光景の召喚の作用、強く言う作用は、無限の責任を部分的に躱すのでなければならない。川柳はファッキューを召喚するだけではいけない、と言わねばならない。この句全体が戦争に対してファッキューと言っているのだとしたら、この句は散文でなければならない。戦争状態にあった場から集められた中指が、いくつか、あるいは夥しく、ただ立っている。戦場にいた誰もが、ファッキューをその中指を残して去ったのか?そうではない。そうだと思うならば諌めよう。そのファッキューの矛先がどこに向かっているのかをもっと多様に想像したほうがいいはずだ。速い光景にはその多様さも含まれている。中指は、必ずしも戦場へのファッキューではない。試しに陳腐な喩として読んでみたまえ。速い光景の基本的なダウンロードすらままならないようなダウンロードがなされるだけに違いない。この手薄なダウンロードにおいて、その中指はまるで戦争そのものに立てられた中指かのように、貴方は再構成してしまっていることに気づくだろう。それは明らかに事実の点からは間違っている。おそらく、単一のファッキューなどないのだ。とりわけ予想②を念頭におき、ファッキューから離れた、ただやや無惨な仕方で切断されてしまった中指が林立する光景がただ提示されていると読む。 さて、この読みに戸惑いながら問題を提起しよう。この光景は、いったい、どの語との、どの脈との関わりに依拠しているのか?モノがただ在るという倫理とは何であるのか。慣用という脈の恣意的な選択において、疚しい良心に逆らって、いかに川柳が発生するのか。 この句の光景について、作り手にせよ読み手にせよ、川柳に触れた者はどう捉えるだろうか。そもそも予想の①から⑤はクリアしていると納得するだろうか。まあよい。私はあえてこう言おう。この句の光景のグロテスクさに、私はそれほど逆撫でされない、と。貴方は? 私は、逆撫でされない光景から脱出したあとで、また別の秘密に逆撫でされたいと思う。


子鹿 白介

両目洞窟人間『夕焼けパラレル団地城』と過去作品の共通項について

 今年9月の文学フリマ大阪12にて初頒布された『夕焼けパラレル団地城』(以下、『団地城』)は、両目洞窟人間氏(以下、両目氏)の中編小説。団地×SF×ゴスロリ×ポップカルチャーで盛りだくさんな、エンターテイメント作品だ。
 これがまた、とっても良かった! 折よくBFC6の開催時期となったので今年も(1年振り3回目)BFCジャッジ応募原稿に両目氏作品のレビューを投稿しようと思い立ち、今回は同氏の過去作品との共通項を切り口として『団地城』を評することにする。(子鹿は両目氏ファンなのでほぼ全作品読んでる)

【過去作品1・戯曲『向き合うために逃避する』(2019年頃)】
 『団地城』の主人公・篠宮アヤメは躁鬱(双極)持ちの女性(23歳、無職)。コンカフェ(〝喋る猫〟カフェ)のバイト面接に挫折して自己肯定感超低空飛行のアヤメが、唐突なパラレルワールド体験と、そこに住むもう一人の自分(ピンク髪なので仮称〝派手髪アヤメ〟)との出会いを経て、いかにメンタルを立て直し、自信を確立してくのか。それが『団地城』のストーリーの軸の一つとなっている。(なおパラレルワールドへのワープ後、躁鬱の薬を切らしたアヤメの離脱症状がリアリティたっぷりに描写される)
 過去作の戯曲『向き合うために逃避する』は適応障害で休職中の社会人男性・中村弘二が、楽しかった大学生時代を回想しながら、友人たちとともになんとか立ち直ろうとする、葛藤の物語。(作中ではメンタルヘルスを題材にした尖ったテレビ番組が脳内再生されて、たびたび中村を苛む)
 両作品ともにメンタルヘルスを題材としつつ、アプローチは大きく異なる。『向き合う~』は内面世界を軸として社会とのたたかいを描き、『団地城』は主人公の外向きな要素に注目し、団地城(九龍城みたいな団地)という小さなスラム社会を舞台として、仕事との関わり方に重点をおいて描かれている。

 『向き合う~』のラストシーンでは、中村ががむしゃらに自他を鼓舞し、「社会に負けるな! 頑張れ!」とメッセージを放つ。(鬱状態の人には「頑張れ」というような励ましは厳禁とされるが、そうとしか言えない苦しい当事者性が、『向き合う~』には存在する)
 『団地城』の篠宮アヤメは、ゴスロリ服という自分にぴったりの衣装と巡り合い、なにもかも上手くいかないゼロから、団地城社会とのつながりを経験して自分なりのプラスを手に入れたうえで、元の世界へと自ら進んで戻っていく。『向き合う~』とも違う、吹っ切れたラストが印象的だ。
 これらの違いは作品の優劣や結末の正誤を表すものではないが、年月を経て立体的な視野が両目小説世界に導入されたことを示しており、興味深い。これだから両目氏ファンはやめられねえな……となる。

【過去作品2・『世界を燃やしてほしかった』(2017年頃)】
 『団地城』は篠宮アヤメが実在のバンド・相対性理論の楽曲「バーモント・キス」を口ずさむシーンから始まる。(特徴的な歌い出し「わたしもうやめた 世界征服やめた」)
 また「相対性理論」は『団地城』を彩る重要なピースとなる。(物語中盤、早朝のゴスロリバーで泣いていた女性客と一緒にアヤメが「おはようオーパーツ」を歌い、女性客がぽつりと漏らす「またこんな楽しいことがあったらいいのにね」という言葉が印象的で、好きだ)
 過去作品『世界を燃やしてほしかった』は両目氏の短編小説群の中でも最初期(2017年頃)に執筆された作品であり、どうやらこちらは「バーモント・キス」の歌詞をモチーフに制作されたようである。
 若い男女の共同生活。特別なことのない日常に見えるが、男性の正体は、世界征服の夢に破れた悪の結社のボスで……という短編。日常の気だるさと夢を失った切なさ、それでも夢を追い求めていた彼を忘れられない〝私〟の小さな、しかし長く続くであろう葛藤を描いている。

 『団地城』が「バーモント・キス」から大きすぎる影響を受けた経緯については両目氏自身が本のあとがきで書いているが、『世界を~』も『団地城』も根底には同じく、生活への地に足がついた実感を伴っている。続いて変わっていく日常のなかで、ある時点にしか見えない風景が異彩を放ち、切り取られている。現実の日常と頭のなかの非日常の温度差が、境界部の空気を歪ませて夕焼けの光を散乱させ、一瞬の幻想的な光を見せるように。
 約7年の年月を挟んで生まれた両作の、同じ楽曲を背景にしつつもまったく異なったカラーを楽しむことも一興といえるだろう。

【その他の過去作品との共通項】
『loveless』……マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのアルバム「loveless」が『団地城』と同様に登場する。アヤメのお母さんの音楽履歴を想像すると興味深い。
『”ここ” と“終点”の日々』……「ビデオゲーム “感応”小説集」シリーズの短編。ゲーム『Citizen Sleeper』をモチーフとしており、喋る猫のたまおさんが営む中華料理屋の物語。巨大な宇宙ステーション「パシフィック」を舞台にしたスラム街描写は、その空気感が団地城へも受け継がれている。

【関連リンク】
BOOTH-両目洞窟人間(『団地城』の通販あります。紙の本のみ)
https://ryoume.booth.pm/

戯曲『向き合うために逃避する』 - にゃんこのいけにえ https://gachahori.hatenadiary.jp/entry/2019/06/17/165717

『世界を燃やしてほしかった』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884294122

『loveless』
https://kakuyomu.jp/works/16817330660089944672

両目洞窟人間ビデオゲーム “感応”小説集 ・Inspire 3『Citizen Sleeper』(『”ここ” と“終点”の日々』)


著作権は各作者に帰属します


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?