【特別公開】「時代の変遷に不確実なカレーを作りましょう」 (タケナカリー/カレー活動家)
9/30に開催されるカレーZINE vol.2刊行記念イベント(@本屋B&B)に向けてゲストが過去にZINEに寄稿した文章を特別公開いたします。
今週ご紹介するのはタケナカリーさんがカレーZINE vol.2に寄稿いただいた「時代の変遷に不確実なカレーを作りましょう」。
日本におけるカレーの生態系がもつ特異性とは。
そして筆者の語る「不要」と「不確実」の違いとは?
時代の変遷にカレー作りの意味を捉え直す、全てのカレーヤーに向けた提言です。
時代の変遷に不確実なカレーを作りましょう
カレーとは、日本において非常に観念的なものです。自由度が高く、規定はあるようでありませんし、スパイスを使っていればカレーであるとも言えなくはない。さらに母の味など感情で語るべき顔を持つことさえあります。ノスタルジーもスパイスなのかもしれません。つまり、結局のところ作り手の主観でカレーであるかは決まるのです。作り手がカレーだと言えば、それはカレーになりえます。なんかジョーカーみたいなこと言ってますね。でもそうなんです。
つまり、カレーとはあやふやな概念なのです。こんなに “あやふや性” に富んだ食べ物はそうありません。
こと日本カレーシーンでは、この “あやふや性” が争いの種になったり、創造の糧になったりしていて異常です。おかしい。変。でも、私、個人としては、清濁合わせ飲んだ上で、この異常性を好意的に想っています。
大きく分けると日本はインド、パキスタン、ネパール等々、カレー文化圏のレシピを元に忠実に作りたい「再現派」と、それらのレシピを元にアレンジ(多くは日本的な)を加えたい「表現派」に分かれる傾向があります。こう書くと派閥間での闘争がありそうですが、その実態はグラデーションマップになっています。分断にはなっていません。カレープレーヤー達は表現派よりの再現派や、再現派よりの表現派という具合に、そのグラデーションの中に居場所を見つけています。
もちろん、カレープレイヤー達はクセの強い人が多いですから、小競り合いは発生しますが、概ねカレーの求道に関しては個人の自由が守られており、互いに一定のリスペクトと、馴れ合わない緊張関係があります。客観的に見て、いわゆる中道の世界が成立している、そのように思います。
これは寛容かつ立派な賢人達がシーンを引っ張ってきてくれたおかげでしょう。例えば南インド文化のエバンジェリストであるケララの風モーニング沼尻匡彦です。沼尻はインド料理をなんでも「カレー」で片付けてしまう日本の悪習慣に警鐘を鳴らしています。
それは例えば、チキン・ウプカリ(シンプルな塩味が特徴のカレー、ドライな場合もある)が、チキンカレーと言われてしまうことへの提言です。
どういうことか?日本で例えるなら、味噌汁が、misosiloo(ミソシルー)とかになって、豚汁でもないのにモツ鍋はpork misosiloo(ポークミソシルー)、茶碗蒸しは甘くないのに pudding misosiloo(プリンミソシルー)とか言われてるような世界です。強烈に違和感がありますね。
沼尻は、インド料理を何でもカレーと呼ぶことは、これと同じだと言っています。「自分で作った料理をどのカテゴリに入れて、どう呼ぶのかは自由である、しかし、人が作った料理を勝手にカレーの枠で規定する行為はひどく浅薄で、一種のパワハラではないだろうか。祖国の料理をすべてカレーにされてしまうインド人の『やりきれなさ』を感じて欲しい」
非常によくわかります。現地のカルチャーを都合よく捉えず、そのまま理解するということは相手を理解する上で非常に大切なことです。ただ、こういう意見を強く述べる賢人は、正しくても権化みたいでとっつきにくい傾向にあります。なんなら嫌われる。
でも、沼尻は違います。まず、見た目がドラゴンクエストのトルネコみたい。かわいい。野草ファンで、参加者を募って荒川で野草を摘み、その野草で南インドのミールス作ってみた!みたいなことを70歳を越えて日常的にしています。そもそも南インドの食材を日本の食材でどうにかして代用できないかと、何十年と考えてきた人です。
つまり、厳格な一面もありつつ、Let's try try try 摩訶不思議な気持ちを忘れないプリミティブなおぢさんでもあるのです。調理技術も無料で教えてくれますし、大森に足を向けて寝れません。こういう人達がいてくれて、今のカレーシーンは築かれているのです。
型を守る側の人、型を破る側の人、どちらもが相対的存在として成立しているこのバランスは理想とまでは言いませんが、あまり類を見ません。こういった世界観をフードカルチャーに見つけることは難しいです。唯一、ラーメンは近いですが、ラーメンは日本での独自発展の末に繁栄した食べ物(誉めてます)です。中華料理としてラーメンをイメージすることはないので、インドルーツを礼賛するカレー文化とはやはり似て非なるものでしょう。
他ジャンルまで広げれば失敗例は見てとることも出来ます。思いつくだけでも島宇宙化を奨励しすぎたニコ動や、古参が権力を持ちすぎたちょっと前のプロレス界などがそれで、枚挙にいとまがありません。どれも型と型破りの均衡が崩れ衰退の道を辿りました。
移民を受け入れる歴史が浅い国なのにもかかわらず、カレーについては新しいものが生まれる生態系が作られています。やはり良い意味で異常です。この特異点は歓迎すべきでしょう。
しかしながら、この生態系にも危機が迫っています。COVID-19、コロナウイルスです。緊急事態宣言が明けてから、影響の有無は少しずつ顕在化しています。オフィス街で営業する飲食店にはリモートワーク奨励により客足が戻るように思えませんし、個人店でもデリバリー軸が外せなくなりました。
こうなっていくと with コロナへの適応ハックが求められていきますが、私は、もうちょっと現状を高次的に理解する必要を感じています。
コロナの世界に入って、私が、私に、一番違和感を覚えたこと、それは “ どう動かないか ”を考えるようになってしまった自分です。
私達はウイルスに対して慣れるというフェーズに入りました。何かを推進するにあたり、実は不必要だったものが、どんどん洗い出され、それらがかつてないスピードで淘汰されています。通勤電車、打ち合わせ、ハンコ、会社での飲み会、そういったものが無くなり、非常に生活がコンパクトになりました。感染が高まった当初に掲げられた不急不要を避けるという要請は、最低限のことだけをして生きろという意味です。
私達は緊急事態宣言が解除されても、心根のどこかでそれを忘れることができません。不安が累積され、不要なことを判断し続けることがデフォルトになりました。
ここまでの文章から本稿に “その不要なものにこそ、実は価値があるのだ”といった主旨の展開を期待される方もいるかもしれません。でも、違います。私はそういうことを言いたいのではないのです。
私が言いたいことは、不要であること、と、不確実であること、の区別についてです。
不要とは、必要がないこと、やらなくてもいいこと、意味がないこと、が、未来に約束されていることを指します。
車は馬車よりも速く、長い距離を走れるし、そろばんも計算機があれば不要です。いらないものは、いりません。無くなるものは、無くなります。速いとか、簡単とか、強いとか、そういった類の絶対が生き残ります。盛者必衰の理に例外はないのです。
しかし、不確実は、違います。
この混同が世界を小さくします。私達が愛するカレーの世界も。
不確実とは、もちろん確実でないことです。ただ、これは言い換えると未来が予想できないことであり、必ずしも、悪いこと、ではないのです。
判断する機会が増加すると、どうしても人間は安全な方を選択するようになります。今、私達は不確実なことも、不要の枠に当てはめて生活している。それは不要の選択に疲弊し、不要を名目に不確実の海に飛び込まなくなったということです。
私達は、できるだけ何もしないように、収まりやすい言葉を使うようになってしまいました。一億二千万人の出不精化が始まっています。
私はコロナの時代こそ、不確実なカレーを作る必要がある、そのように言いたいと思います。自分が主体となって、小さくも、接触を避けつつも、冒険を忘れないこと。その連続がコミュニティや、経済圏を強くします。必要なものは付け焼き刃のコロナ対策マニュアルではありません。
探検家・作家の角幡唯介は、「冒険」の定義を、危険性、主体性、無謀性の重なりであると述べました。
危険性とは生命が脅かされること、主体性とは自らの意思によって行動を選択することです。この2つは昔から冒険を担保する条件として上げられていましたが、角幡は、ここに新しく無謀性を加えています。
無謀性の必要について、角幡はその理由をテクノロジーの発達でシステムが膨張し、その外側に拡がる未知の領域が極端に狭くなったからと答えました。既知の対象に飛び込むことを無謀とは言いません。無謀性とは未知の対象に踏み込むことです。つまり、そこには不確実な世界があります。
現在の「型」となるカレーも最初は不確実なカレーだったのです。
16世紀初頭、ヒンドゥースタンの野菜を中心とした清貧の食文化、ムスリムの肉を中心とした食を快楽と捉える文化、それらを入り混じえ今につながるカレーの型を作ったのがバーブル、フマユーン、アクバルの3世代続いたムガルの大帝達でした。この人達がいないと今のカレーは存在しません。
彼らは毒殺の恐怖を感じながら(危険性)、めげることなく先頭に立って相容れなかった食文化の融合を図り(主体性)、新しい料理の発明(無謀性)を命じました。これはまさに冒険です。
彼らの出生がムスリム側で、その食文化の影響を受けていたというのもありますが、未知の美味いものを作ることが至高の享楽になっていたことは間違いありません。そして、その追求が、人種、宗教差別の撤廃につながり、ムスリムとヒンドゥースターンの統合を果たし治世を作りました。
私達は不確実なカレーを作らなければいけません。それは調理工程から変える未知のダイナミックなアレンジかもしれないし、伝統的なレシピのスパイスを一つだけ削るようなミニマムなアレンジかもしれません。
とにかく美味しいに向かって、言われたことだけをしない、ということです。
少し前は言われたことだけを実直にやる、というのは正しい行為だったと思います。しかし、今は違うのではないでしょうか。みんながやっていることに合わせるのではなく、貴方という主体を強烈に意識して、自身の冒険を生きてください。
小さくてもいいから不確実なものに挑戦し続けること、おそらくコロナ禍においては、この挑戦の連続が世界を救います。
タケナカリー
カレー活動家・CHANCE THE CURRY代表。カレーに関わるイベントプロデュース、執筆、 レシピ開発、商品企画などを手がける。「マツコの知らない世界 しゃばしゃばカレーの世界」“カレー3兄弟”の三男。 ほぼ毎日カレーを食べている。カレーから愛されたい。手がいつもカレー臭い。
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