綺麗な服が、捨てられない、泳げない

助けを求める人がいるのを認知しているのに、それに目を瞑って、自分にも生活があるから、と言い聞かせるのは倫理的に正しいのか。溺れる子どもの理論的には正しくないだろう。
世間には、自分の生活を投げ打って人道支援に関わる必要はないという暗黙の了解がある気がする。その人が関わっている間のごはんは誰が準備するのか、誰が人道支援のためのお金を用意するのか。労働は義務である。その指摘も、正しいと思う。究極的にはお米を生産する人がいないといけないし。

塩辛い定食を食べながら、外国人労働者がバケツにお湯を注ぐ姿を興味ありげですという雰囲気を醸し出して見る。自分の目の先の11時を指す時計を見て、少し自分を慰める。恋人ではなさそうな2人組が、カフェでもないのに食べ終わった後も喋っていて、同時に無言の駆け引きをしているようでもあった。同タイミングで入った人はもう食べ終えて出ていってしまった。味噌汁もしょっぱくて、漬物もしょっぱくて、私は逃げるところがなくどうしようもなくしんどくなる。普段だったら店の謎のテーマソングの開発にお金かけてるの馬鹿馬鹿しいと思うはずが、その曲の空気の読めない元気の良い語調に少し救われる。またバケツにお湯が溜められる。湯気が立ち込めている、何度くらいだろう。彼が何秒か目を離すからヒヤヒヤする。これは何のためにしてるんですかと、酔っ払ったように聞いてみようかと、想像の中で会話は完結した。
存在を忘れていたお茶でしょっぱさをかきこみ、外に出る。知っている街なのに、真っ暗なこの街には誰もいなくて、それでも誰かにすれ違わないかと期待して、電車に乗る。でも、やっぱり知らなくなったのかも。この通学路も、もううまく思い出せなくて、この記憶は、言葉で支えられないと幻想になってしまう分類の仲間入りだ。隣の人たちが仲良く話しているのを片耳で聞いて、自分の孤独感を差し置いて、見知らぬ誰かと誰かが繋がっていることに、少し安心する。
ホテルで独り落ち着かず、画面の向こう側の他者との関わりを欲し、やたらとスマホを意味もなく操作するが、結局目を閉じることにした。
朝のしんどいアラームを止めるためだけにスマホを開いた後、手を遊ばせているうちにDMボックスにどうやら通知が来ていたことを知った。
苦しい。助けて。家族が。緊急なんだ。みんな、無視するんだ。自分はガザにいるんだ。2週間前に来ていたものだった…。
返事をしたところで、もはや反応が得られないかもしれないという恐怖心、私の行動によってはその人の家族が避難できるかもしれないという、どうしようもなくのしかかる責任感。それはスマホを閉じれば、多少軽減された。私はいつものように仕事に向かった。
みんな無視するんだ、というメッセージのアカウントは、いつの間にか消えてしまっていた。


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