syrup16gを聴いているとなんとなく五十嵐隆の洋楽の聴きかたも見えてくるような気がする
ミュージシャンたちの音楽の聴きかた──とりわけ洋楽の聴きかたがなんとなくずっと気になっている。自分が今まで聴いてきた日本のミュージシャンたち──主に90〜2000年代あたりのロックバンドたち──は大抵洋楽を聴き込み血肉として自分たちの音楽を生み出しているとおもうが、その割に英語ができないのが不思議だ。自分も大してできないので偉そうにこういうことを言うのも恥ずかしいのだが、それでも気になるくらいには変な英語がたくさん出てくる。好きなら自然とできるようになりそうだが。ということは歌詞にはあまり関心がないのだろうか。かと言って、たとえばこなれた英語で歌う細美武士も、韻はあまり踏まない。洋楽を聴き慣れていない頃は何も気にならなかったが、一度ことばや響きが意識にまで差し込んでしまうと、なんだか妙に気になってしまう。英語で韻を踏むのは当たり前のことだからだ。こちらはことばの意味に重点がおかれていて、ことばの連なりが生み出す響きにはそこまで意識が及んでいないのだろうか。わからない。
syrup16gもやはり英語は……英語はめちゃくちゃである。でもたまに妙に生っぽい英語が出てくるのでなんだかドキッとさせられてしまう。それはやはり子どもの頃から部屋にこもって聴いてきた洋楽の教養から滲み出てきたものという気がする。ステレオのなかの僕の天国。水のように養分のように音楽で部屋が満たされている様子が浮かぶ。英題のつけかたも妙にぐっと来てしまう。"Hearts Wide Shut"(「開けられずじまいの心の窓から」)、"By Your Side As Moon"(「月になって」)、"Infect Me"(「うつして」)、"Even If You Are Gone"(「生きたいよ」)など……
そして五十嵐は執拗に韻を踏む。あんまり邦楽ロックで韻にこだわるバンドは多くない印象があるが、シロップはやたらに踏みまくる。「言葉遊び」や「ダジャレ」などと形容されることもあるが、カッコつけずに敢えて生活に根差したことばを選ぶゆえにそう捉えられてしまうだけで、あれは洋楽を聴き込んだことで刷り込まれた韻への強い志向なのだとおもう。もしかしたら半ば無意識なのかもしれないが。
英語の発音も基本的にはさほどよくはないが、fやdの発音が綺麗な気がする。たとえばkindとかってkindoとつい母音をつけて発音してしまいがちだとおもうのだが、きちんとkindと発音しているところに地味に感心する。耳がいい。五十嵐隆という人は、洋楽のメロディだけでなくボーカルも音としてかなりきちんと捉えて血肉としているのではないだろうか。英文法といったものはあまり染み込んではいないけれども、ふと光のように差し込んだことばや意味がかれの音楽には溶け込んでいる。かれの聴きかたには鈍感さと鋭さが感じられて、それを自分は好ましく思う。