フレンチプレスで抱きしめて〜イシケン&ミキティシリーズVol.2 chapter1〜
「美樹さーん、起きてくださーい」私の最愛の彼氏、イシケンの声が遠くから聞こえる。
何かが焼ける音と、コーヒーの香り。
今朝はベーコンエッグね。ありがとうイシケン、愛してる。
「うにゃむ……」
これは私の声。
イシケンこと石田健太郎と私は、お付き合いを始めて一ヶ月。早くも同棲生活……というワケではないが、その気持ちはなくもない。
私は26歳、イシケンは35歳。サブカルクソ眼鏡女の私だが、「結婚」という単語が、全く脳裏に浮かばないわけではない。いやむしろ、この歳までこじらせてきたが故に、憧れは強いかもしれない。
娘の貞操を心配するはずの両親も、既に鬼籍に入っている。まぁ、二人が健在だったとして、この歳で貞操もへったくれもないし、歳の離れた父の朋友にして母の覚えも良かったイシケンならば、諸手を挙げての賛成どころか、ノシつけて差し上げます、という展開だっただろうけれど……。
「美樹さーん、起きてー」
お互い敬語キャラの私たちは、おつきあいが始まってからもずっと敬語で話している。亡き母の親友にして職場の上司であるマナミさんには「変なの」と言われるが、私はこの関係が心地よい。
テーブルには、イシケンが心を尽くして作ってくれた朝餉が用意されているのだろう。でもまだ、ちょっと眠い……。
私達が一緒に住むことの外的な障害は、なにもない。それでも私は、相も変わらずこの1DK築50年の安アパートの201号室に住んでいるし、イシケンも未だに道路を挟んで徒歩7分のマンションに住んでいる。
イシケンと暮らすのは、やぶさかではない。けれど、決定的なものがまだ欠けている気がして、私の心にブレーキをかける。私たちはお互いを、まだ心だけでしか愛していない。日常を共にする生々しいイメージを、少なくとも私はまだ、イシケンに対して抱けていなかった。
「美樹さ〜ん♪(じょりっ)」
イシケンのピアノ線のような顎髭が、私の首筋に擦り付けられ、まどろみの中の思考のループを遮った。
「痛い痛い痛い!!」
「美樹さん、ベーコンエッグが冷めちゃうので、起きてください(にっこり)」
朝のイシケンの笑顔には、いつでも有無を言わさぬ凄みがある。毎朝通い夫しつつ低血圧の私を起こして朝ごはんを食べさせてくれる。世の女子が聞いたら「あなたが神か!」と歓喜するような素晴らしいオトコだが、寝起きの私にとっては、私とオフトゥンとの仲を引き裂く大罪人だ。
「にゃーむぅぅ!」
鳴き声で抗議してみる。
「はい、コーヒー」
「ぶー……」
頬を膨らませながら、大きめのマグにたっぷりと注がれたコーヒーを受け取る。 膨らませた頬は、イシケンのゴッツイ人差し指によって直ちに「ぷしゅー」と凹ませられ、私は素直に着座した。
ベーコンエッグの付け合せにはブロッコリーとトマト、スライスしたモッツァレラチーズ。ドレッシングは、ゴマ油をベースに黒酢と醤油、食材に絡みやすくするための一工夫として、チアシードを投入したオリジナルだ。
パン皿には4枚切りのトーストが、私に半切。イシケンのお皿には1.5切。朝が弱い私と、肉体労働者であるイシケンのベストバランスだ。
昭和の薫り漂う丸型のちゃぶ台にはクロスが敷かれ、なんなら花まで置かれている。パーフェクト過ぎる朝の演出に私は思わず『女子か!』と叫びそうになる。
「今日はコスタリカの豆ですよ」
そう言ってイシケンは、マグから立ち上る湯気を鼻腔から吸い込み、コーヒーの薫りに陶酔するように、クッソエロい表情をする。ホント、無自覚にこういう表情をしやがるのが困る。
母の遺言で私の「お目付け役」に大抜擢され、ストーカーまがいの衝撃的な出会いからスタートしたイシケンとの関係は、その後の諸々の出来事と、うっかり発情した私の「おてつき」によって、ストーカーから「恋人」に三階級特進した。 それはいい。それは実にいいことだ。 問題は、イシケンが私にキス以上の事をしようとしないという点だ。
これは26歳の女として、実にしょっぱい事実だ。噛み締めたトーストから溢れるバターの塩気よりも。
「あれ? ママレードの方が良かったですか?」
イシケンが笑顔で、瀬戸内産国産レモンで手作りしたレモンママレードを差し出す。朴念仁め。私の気も知らず……。
イシケンが私に手を出しあぐねている理由には、四つ程心当たりがある。イシケンと亡き私の父母は面識がある……どころか、彼は亡き私の父がバンマスをやっていた伝説的ブルーズバンド、「だうん・ほ〜む」の、最年少にして最後のメンバーだったのだ。父のバンドの大ファンからメンバーとなった経歴を持つ彼にとって、その娘である私との恋愛には、関係を発展させる上で、以下に列挙するような「やりづらさ」があるのではないか? と、私は推察している。
一つ目、私がイシケンの「憧れの男」の娘だから。
二つ目、「憧れの男」ともその妻とも懇意になりすぎた結果、イシケンの中での私の立ち位置が既に「娘」に近いから。
三つ目、わたしがしょ……処女だから。
そして四つ目が……。
「イシケン、今日もお仕事、遅いのですか?」
「ごめんなさい。そうなんです」
「それでは、今日もここへは……」
「ああ……そうですね、恐らく、今夜もここには来られないと思います。お夕飯は、お鍋に作ってありますので、食べてくださいね」
このところ、イシケンは週に2日、水曜と金曜に、ものすごく遅くまで働いていた。時期的に繁忙期という訳でもないのに、ここまで毎週だと、あっぱらぱぁの私でもさすがに勘ぐってしまう。
本当に仕事なのか? あるいは他に誰か……いやいや、イシケンに限ってそんな……でも……。
「今夜のお夕飯はコレです」
料理研究家だった母の遺品、マジョリカグリーンの22cmココットには、イシケン手作りの鶏肉の炊き込みご飯。ニョクマムと香菜の香り高い一品。絶対おいしいやつである。
イシケンは作り置きをお鍋のまま冷蔵庫に入れると、洗い物を始めた。エプロン姿のイシケンは昭和の人妻のようで、変なスイッチが入った私は思わず「よいではないか、よいではないか」と言いながら、洗い物をするイシケンの、固く締まった尻をなでまわしてしまう。
「ちょ! 美樹さ……らめぇぇぇぇ!」
筋肉質なヒップをもにゅもにゅしながら、1DKの安普請を見渡す。
いつの間にか、色んなものが増えた。特に、『僕の血液はコーヒーでできている』と豪語する程のコーヒー好きのイシケンが持ち込んだコーヒー関係の品々が、爆発的に増えた。
朝はDeLonghiのコーヒーメーカーを使い、ペーパードリップで淹れたものをマグでたっぷりと。ダブルのエスプレッソ二人分を淹れられるクソでかいビアレッティ製のマキネッタは、夕食後のコーヒータイムの花形として割と頻繁に稼働している。70年代の不条理マンガのような、すっとぼけたオッサンのキャラクターのマークが可愛いくて、私はちょっと気に入ってる。
生豆を焙煎することまではしないが、行きつけのお店で好みの豆を好みのローストにしてもらっては、二人でコーヒータイムを楽しんでいる。
そしてもう一つ。
テーブルの隅にひっそりと置かれた、父さんの形見の10穴のハーモニカ。HOHNERのCのキーのブルースハープ。
私達を引き寄せてくれたそれは、今はイシケン先生の『ハーピスト養成講座(スパルタ)』で利用されている。AとB♭のキーのものを、最近買い足したので、今は3本持っている。苦心していたドローベンドも、今ではそれなりにサマになってきた。
しかしこんな風に、人の家に巣作りを始めるような女子女子しい男が、浮気なんてするのだろうか? わからない。そもそも「男」なんて生き物と付き合うのは、イシケンが初めてなのだ。 多分イシケンは、一般的な「男」とは、かなりズレてはいるのだろうけど。
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