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【note10. オーニシさんの電書、「貧しく豊かに暮らす方法」について、バカなりに考えてみた】

 Twitter経由で仲良くさせていただいているオーニシ(@onishi_feuer)さんの新著、「貧しく 豊かに暮らす方法)が、先日リリースされました。今回のエントリでは、この本の書評と、「ハードル下げer」としてのOZZYなりの考えをつらつらと書いてみたいと思います。

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【この本の想定読者層】

 この本は冒頭部で、想定する読者層についての記載があります。

・何かに夢中で打ち込んでいない人
・生涯かけてやり遂げたいことが特にない人
・一生懸命生きることに疲れた人
・他人との競争に疲れた人
・人生頑張りたくない人
・意識低くだらだら暮らしたい人
・自分がダメ人間だと自覚している人


 タイトルからしてそういう本であることは理解できるとは思いますが、実際読んでみると、本当にそういう内容です。字面でみると、まーダメな人ですねwww でも、実際のところ、そういう人って少なくないと言うか、むしろマジョリティなんじゃね? とも思うんですよね。少なくともワイはこんな人です。というか、人生ガチ勢になろうと何度もトライして、何度も弾き出された末に、ハードル下げerとして、そういう方向でしか生きていけない自分をやっと認められた、といいましょうか。
 この手のお話を始めると、人生ガチ勢の方々が、テストステロン値高めの「ご意見」をくださることがありますが、もう毎度思うんですけど、いい加減お互い棲み分けましょうよ(;´Д`)、あなたがそう生きたいならそうすればいいことであって、そうしたくない人やそうできない人にまでそれを強要する必要もないわけですし、すべての考え方や信条が同じだったら、むしろそっちのほうが変だし、ひとつの考え方がちがったとしても、仲良くすることはできるとおもうんですよね。

【お金を稼げる≠優秀】

本書では、エジソンとニコラ・テスラを例に取り、「なにかを発明する能力」と「それをお金に換える能力」は、別個のものであると指摘しています。稀代の天才、ニコラ・テスラでさえ、そんな感じなので、凡百の一人である「おれら」にお金を稼ぐ能力がなかったところで、恥じるようなことではないと。
 あと、「優秀」と言われる能力って、時代によっても変わるんですよね。狩猟採集時代だったら、獲物をたくさん狩れる人や、たくさんの食べられる植物を効率よくゲットできる人だったし、農耕民であれば、作物を効率よく育てられる人。産業革命時代だったら、資本をたくさん持ってる人か、人形部品としての精度と耐久性に優れた人だった時代も合ったと思います。個々人の秀でた能力は、必ずしもその人が生きる時代に必要とされるものである可能性って、確率的にそこまで高いとも思えないんですよ。まぁとはいえ、生きていくのにお金は必要ですよね。お金を稼ぐ能力がなかったら、豊かには暮らせないの?

【古くて新しい豊かさの定義】

 本書では、「そもそも豊かさ」ってなんぞ? という問に対し、一人ひとり基準の違うものであり、生活にかかる(最低限かつ無理なく暮らせる)お金を把握し、無理なく頑張らずダラダラ暮らすという、「意識の低い豊かさ」の選択肢を提唱しています。
 ここはさすがFPというところですが、この金額の試算が、一瞬「えっ!」と思う金額でありながら、今の僕自身に照らし合わせてみると、納得のいく金額なんですよね。
 夫婦二人暮らしで、余剰分を差し引くと、だいたいこのくらいの金額になります。実際は、2人分のお小遣いがあるので、生きることに専念すれば、さらに2〜3万くらいは圧縮可能です。
 この「健康で文化的な最低限度の生活」論については、なかなか発言が難しいんですよね。とくに僕のような「当事者」の立場だと、「十分です。なんならお金貯まります」という切り口での発言は、すごくしづらい。個々の状況によって「必要最低限」は変わってくるし、さらに「文化的な」も加味すると、ここも大きく変わってくる。あるケースだけを取り上げて「この金額で生きられるんだー。じゃあこの金額まで下げてもいいよね?」というのも、また違うし。
 だからこのあたりは、個々人の状況によってかなり変わってくるということは、念頭に置いて置く必要があると思うし、そのうえで最賃や生活保護支給額などは、弾性をもって定められるべき、というのが大前提で、その上で個々人が、自分の生存コストと無理なく稼ぎ出すことのできるお金とのバランスをとっていくというのが趣旨だと思います。
 僕も以前この「冴え貧」のマガジンで、「月8万円で暮らしていける方法を真剣に考える必要がある」と提唱していますが、この先、このコスト意識は、これまで以上に重要になると思います。

 生活水準を収入よりも低く抑えることで、豊かさがそこまで損なわれるとは限らないというのは、僕も完全同意なんですよね。最近、ハンス・ロスリングの「ファクトフルネス」を読んだのですが、「世界のほとんどの人は、中間層にいる」んですよ。で、日本は既にレベル4の上位層。いうて、かなり豊かなんです。レベル1やレベル4の生活自体も、時代によって変化するものなので、よく言われるように、現代の貧困層は中世の貴族よりも贅沢な生活をしている、というのは、事実だと思います。
(このことがわかる「ダラーストリート」を紹介したエントリはこちら⇓から)

「だから我慢しろ」というお話ではなく、稼ぐ力に劣る「おれら」は、現代日本人にうまれたことで得られた豊かさを理解したうえで、個々人のオリジナルな豊かさを定義していく必要があるのでは? ということです。

【だらだら生きるという豊かさ】

 で、僕、割と前から言い続けてるんですけど、たかだか生きる程度のことのハードルが異常に高いのって、おかしくありません? ここのしんどみって、お金のことももちろんあるけれど、「べき論」の犠牲になっているというのも大きいと思うのですよ。

・正社員である「べき」
・◯◯万円以上の収入がある「べき」
・最低◯◯くらいは持っている「べき」
・社会人ならこうある「べき」

 って、なんか外側の価値観でガッチガチに固められちゃった感というか。
 できない人っているんですよ。なれない人っているんです。そういう人がをこを目指しても、苦しいだけだし、いうて幸せにも「豊か」にもなれないと思うんですよ。
 日本に限らず、わりと社会ってだいたい椅子取りゲームで、しかもその椅子って「経済的な成功」とか、「社会的な成功」みたいなものである事が多いように思うんですよね。で、考えてみてほしいんですけど、それって本当に欲しいですか? 苦しいつらい思いをしてまで、その椅子に座りたいですか? 意識の高い生き方をしたい人や、高い目標や問題意識をもって生きている人を揶揄する意図は毛頭ありませんが、問題は「あなたが」本当にそれをしたいのか、その先にあるものが、本当に得たいものなのか、というところです。

 僕は、一昨年から続く怒涛の変化の中で、「あ、いらなかったわ」って気づいたんです。幸いにもパートナーであるおよめさまもそういう価値観の持ち主だったのは、本当にありがたいことで、現在の「ハードル下げer」としての活動につながっています。この先、一度も競争に巻き込まれずに行くというのは、もしかしたら難しいかもしれませんが、可能な限りそれを避け、仮に巻き込まれたとしても、「それが本当に欲しいものか? 座りたい椅子なのか?」だけは、見誤らないようにしていきたいものです。

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