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声と言葉で寄り添う詩人、秋田ひろむ ~amazarashi

【2019.5.13加筆】


「おれら側」のアーティスト、amazarashi

*本稿は、読者が「おれら」という概念を理解していることを前提に書かれています。まずはコチラ↓をお読みいただき、「おれら」という概念についてのご理解をいただければと思います。

1月の終わりから4月の半ば頃に精神が安定してきたあたりまで、最もよく聴いていたのがamazarashiの楽曲でした。
毎朝起きるとMVを見ては、ボロボロと泣いていました。
あの時感じていたしんどさや、「しんどい」と思ってしまう自分への情けなさや、人並以下になってしまった自分への絶望感や老母を捨てた罪悪感。
それらの感情によって半壊状態だった心に寄り添い、回復を後押ししてくれたのは、間違いなくamazarashiのヴォーカリスト、秋田ひろむの声と言葉でした。

言葉に圧倒的説得力を与える声

秋田ひろむの魅力に、「声」を挙げる人はとても多いです。
OZZYもまたその1人ですが、なにしろ目に見えないものなので……。
実際に聴いていただくのが一番早いのですが、OZZYの貧困な語彙力で説明すると、低音域では倍音成分が多く、語りかけてくるような、心の傷口に染み込んでくるような感じ。高音域では背中を押すような、あるいは何かに挑むような、あるいは聴き手の心の叫びを代弁するような……聴く者を無性に惹きつける何かがあります。決して聞き流すことができない。そういう「声」です。

声そのものが似ているというわけではありませんが、秋田ひろむ自身が影響を受けたと語っている友川カズキに近い雰囲気を感じます。
この秋田ひろむの声ゆえに、amazarashiの楽曲は絶対にBGMにはなり得ません。
独りで、ヘッドフォンで「対話」するような聴き方が、恐らく一番しっくりくるのではないかと思います。

この「声」が、秋田ひろむのメッセージの説得力をさらに圧倒的なものにしています。

「おれら側」であることを証明するコトバたち

amazarashiの曲を聴いたり、MVやライブ映像を見ていると、秋田ひろむが間違いなく「おれら側」の人間であることが確信できます。
以前のエントリで「おれら側のアーティストは、当事者でなければ読み解くのが困難な言葉を使う」と言いましたが、まさにそういう言葉が多用されています。
例として、楽曲、「フィロソフィー」のMVについて考察します。ただの歌詞考察なら、恐らくたくさんの方がやっていらっしゃると思うので、OZZYの目線で、OZZY自身が抱いた感想と感情を記していきます。

【フィロソフィー】

あまりにも、去年(2018年)から今までのOZZYの状況とリンクしていて、初めて聴いたとき、数十年ぶりに嗚咽を漏らして泣いてしまいました。
この曲に何度救われたかわかりません。
秋田ひろむは、「おれら」の苦悩を理解しているのみならず、戦い方まで提示しています。

辛くて悔しくて まったく涙が出てくるぜ遮断器の点滅が警報みたいだ 人生の
くさって白けて投げ出した いつかの努力も情熱も
必要な時には簡単に戻ってくれはしないもんだ

結実に至らなかった努力や冷めてしまった情熱。
それでも、多少なりとも「頑張れた」パワーが、かつてはあった。
なけなしの活力すら損なわれてしまった辛さ、悲しさ、やるせなさに、本当にしんどさを感じています。
確かに健全で、確かに健康で、気力と活力に満ちていた頃が、OZZYにもありました。noteで繋がってくれている皆さんの中にも、そんなOZZYを記憶している方がいらっしゃると思います。
でも、あれから1年以上経った今も復調の進捗はいまひとつですし、そしておそらくこれからも、「かつてのように」戻ってくれることはないと思います。

回り道、遠回り でも前に進めりゃまだよくて
振り出しに何度戻って 歩き出すのも億劫になって
商店街の街灯も消える頃の帰り道
影が消えたら何故かホッとして 今日も真夜中に行方不明

「前に進めている感」というものを実感できたことは、OZZYの人生ではあまり多くありませんでした。
自分なりに手探りで、自分なりに必死でここまでやってきましたが、ここにきて「歩き出すのも億劫に」なってしまっていました。
ひきこもりやニート当事者・経験者の方あるあるだと思うのですが、平日の昼間に感じる罪悪感と劣等感が地味にしんどくて、働いていらっしゃる皆様が概ね帰宅されてからの時間や、土日祝日にだけ、少しだけそれから開放される感覚は、とてもよくわかります。

死ぬ気で頑張れ 死なない為に
言い過ぎだって言うな もはや現実は過酷だ
なりそこなった自分と 理想の成れの果てで
実現したこの自分を捨てる事なかれ

死ぬ気でやれよ、死なないから」と言った人は、47歳で亡くなりました。
その言葉で発奮できる人もいるでしょうし、否定はしませんが、言葉だけが独り歩きしていて、安易にこういった声をかける人がいます。
「死ぬ気で頑張れ、死なないから」と、「死ぬ気で頑張れ、死なない為に」では、その意味も受け手の印象も全くちがってきます。
秋田ひろむは上からではなく、こちらまで降りてきて、同じ目線で「生きる残る為に(共に)歯を食いしばろう」と言っているのです。

そんな厳しさを見せた後
「言い過ぎだって言うな もはや現実は過酷だ」
と、彼自身を含む「おれら」を追い詰める自己責任論や社会的不安に牙を剥きます。そしてなりたかった自分、ありたかった自分、あり得たはずの自分になることができなかったこんな自分を、「捨てるな」と肯定してくれるのです。

君自身が勝ち取ったその幸福や喜びを
誰かにとやかく言われる筋合いなんてまるでなくて
この先を救うのは 傷を負った君だからこそのフィロソフィー

なにを幸福と思うか、何を喜びと感じるかは、本当に人それぞれなんですよね。
「40代の男性だからこうでなくてはならない」、「こうあれねばならない」、「こうであるべき」という呪縛は意外と強いもので、頭では理解していても、無意識下にしっかりと根づいてしまっていたりします。
それを、あえて言葉にした上で、「この先の(君自身を)救うのは、傷を負った(いまここにいる)君なのだ」と、再び励ますのです。

都市の距離感解せなくて 電車は隅の方で立ってた
核心に踏み込まれたくないからいつも敬語で話した
心覗かれたくないから主義主張も鳴りを潜めた
中身無いのを恥じて ほどこした浅学理論武装

この「浅学理論武装」という6文字だけで、「おれら」の青春時代を言い表してしまう秋田ひろむの言語センスには、恐ろしさすら感じてしまいます。
勉強もスポーツもいまいちだった10代の頃のOZZYは、自分の脆弱なプロフィールを補強するために、さまざまなカルチャーに走ったり、本を読むことに情熱を注ぎました。
小説やエッセイ以外にも、思想書や哲学書の類も読み、知識を蓄えましたが、体系だったものではなかったり、表層を舐めるのがやっとだったりで、まさに「浅学理論武装」でした。それを、誰よりも自分自身がわかっていて、プライドの拠り所でありながら、恥じてもいました。しかし秋田ひろむは、

自分を守って 軟弱なその盾が 戦うのに十分な強さに変わる日まで

と、「お前がいま手にしている『それ』こそが、武器なのだ」と教えてくれるのです。そして、「自分を守りつつ、『それ』を研鑽せよ」と言うのです。

謙虚もつつましさも 無闇に過剰なら卑屈だ
いつか屈辱を晴らすなら 今日侮辱された弱さで

そして、謙虚のベールに覆い隠した卑屈さを暴きだし、「取るに足らないと嘲笑された、その蟷螂の斧を磨き上げ、それを使って屈辱を晴らせ」と訴えます。

うまくいかない人生の為にしつらえた陽光は
消えてしまいたい己が影の輪郭を明瞭に
悲しいかな生きてたんだ そんな風な僕だからこそのフィロソフィー

ここで視点が、語り部側に向きます、彼自身もまた、ままならぬ人生の中、様々な策を講じ、しかしそれによって自分自身の弱さやコンプレックスが明瞭になってしまい、苦しんできた当事者であると告白します。

正しいも正しくないも考えだすとキリがないから
せめて望んだ方に歩けるだけには強がって
願って破れて 問と解、肯定と否定
塞ぎがちなこの人生 承認してよ弁証法
悲しみを知っている 痛みはもっと知っている
それらにしか導けない 解が君という存在で

生きるじたばたを繰り返し、悲しみや痛みに晒され、無様な生き方であったとしても、しかし今の「君」は、それらの経験が作ったものだ、と肯定してくれます。
同じ苦悩を超えてきたであろう彼の言葉だからこそ、それを信じることができます。

そもそも僕らが生きてく動機なんて存在しなくて
立ち上がるのに十分な 明日への期待、それ以外は
僕は僕の問いを解いて 君は君の、君だからこそのフィロソフィー

OZZYが「人が生きる意味などというものは、おそらくない」という事実を飲み込むことができたのはかなり遅く、30代の半ば頃でした。特別な人間など存在するわけではなく、今日を生き、明日へ希望をつなぐこと。それだけが自分を生かす燃料となるのです。
彼は最後に、迷い悩み、ぶつかり転び、様々な傷を負いながら不器用に不格好に生きる「おれら」の同士として、「君は君の生きる意味を見つけろ、僕も僕の生きる意味を探す」と決意を表明し、聴き手の心にも灯を灯し、再びそれぞれの道を歩きだすのです。

見え隠れする様々な作品からの影響

amazarashiの歌詞には、様々な楽曲や文学、詩歌、演劇からの影響が垣間見えます。たとえば「つじつま合わせに生まれた僕等」

雨水を飲んで生き延びた詩人が 祖国に帰って歌った歌
それを口ずさんだ子供達が 前線に駆り出される頃
頭を吹き飛ばされた少女が 誰にも知られず土に還る

というくだりは、伊藤計劃の「虐殺器官」の冒頭部を思い出しますし、

選ばれなかった少年は ナイフを握りしめて立ってた

の部分は、おそらくTHE BLUE HEARTSの「少年の詩」のリスペクトと考えて間違いないでしょう。
他にも宮沢賢治や寺山修司などの影響も強く感じられ、この二人の作品を多感な時期に読み漁ったOZZYは、強いシンパシーを感じます。

伝えるための手段を選ばない姿勢

amazarashiはメディアへの露出も非常に少なく、ライブやMVやインタビューでも素顔を一切晒していません。TV出演なども、ほとんどないはずです。
それはライブでも同様で、amazarashiのライブは徹底して秋田ひろむの素顔が隠され、そのかわりに映像と言葉で埋め尽くされています。その言葉と秋田ひろむのカリスマ性、ファンの熱量から、「amazarashiは宗教」と揶揄されることもしばしばです。2018年11月の武道館でのライブの模様が収められた、「朗読演奏実験空間 新言語秩序」のPRムービーで、ライブの様子を見ることができます。

このライブでは、スマートフォンアプリを使っての演出があったようで、ライブ中にアプリを起動すると、「検閲」を解除できたようです。
武道館公演の「新言語秩序」自体が、一般市民同士が発言を見張りあう「言葉のディストピア」であり、その上で「言葉を取り戻せ!」と訴える内容となっています。

その一部が垣間見えるのが、「検閲済み」と「検閲解除済み」の2バージョンが公開されている「リビングデッド」のMVです。

【リビングデッド 検閲済み】

【リビングデッド 検閲解除済み】

MV、ライブの演出、歌詞とは別に曲にちなんだ詩や掌編小説も収録されているCDの歌詞カードなど、「言葉を伝える」ために、使える手段は何でも使っている感じで、同じ「言葉」を使って表現している者として、この懸命さは見習わねばと思います。

【2019.5.13 加筆】

「三鷹 ユ(ウ)キ」さんの『新言語秩序』のライブレポートで、かなり詳細な内容が紹介されていました。


こちらの記事を読んで、いずれamazarashiのライブに行きたいなと俄然思い始めました。

しかし、今この時代に「言葉を取り戻せ!」と言って、これほどの共感を喚起できるのは、彼くらいではないでしょうか?
秋田ひろむ以外の人間が、「言葉を取り戻せ!」というメッセージを発信したとしても、こんなにも心の熱を喚起させられるかどうか……。

「言葉」という武器で戦う同士として、「おれら」の仲間として、僕も彼の背中が見えるくらい、100m後方くらいまでは追いつきたいです。

OZZYオススメのMV

amazarashiをよく知る方ならば、それぞれの中にマイ・ベストがあることと思います。
ここでは、まだ聴いたことのない方を想定し、OZZYの感覚で選んだ「はじめてのあまざらし」を紹介していきます。

【つじつま合わせに生まれた僕等】

最初の誦読の部分からもう涙腺がヤバいです。
amazarashiはライブでも朗読という表現方法を多用していて、秋田ひろむの「声」の力を最大限に利用しています。
聴き終えたときには、小説を一冊読んだくらいの密度を感じる曲です。

【エンディングテーマ】

最期のその瞬間に、きっと思い出すであろう一曲です。
後悔のない死など、おそらくOZZYは迎えることはできないでしょう。
それでも最期はきっと「ありがとう」かな、と思うであろうことは、なんとなく想像できます。

【ヒーロー】

「教室に乱入したテロリストを機智と行動力で打倒する」とか、「ここはまかせてお前は先に行け」的なカッコいい死に方、あるいは「あー、隕石とか落ちてきて世界終わんねーかなー」などの妄想を、「おれら」なら何度もしたことがあると思います。
でもそんな危機なんて起こることはほとんどなくて、きっとそんな瞬間に、そんな風にカッコよくは動けなくて、実際は自分自身のことすらままならないヘタレで……そんな「おれら」も、それでも生きていくしかないのです。

【ラブソング】

宮沢賢治や井上陽水の引用が見られる一曲です。MV映像冒頭では、プリンスの「ラブシンボル」が見られます。どんだけひきだしがあるのでしょう、この人。
全編とおして、「おれら」当事者の叫びと痛烈なまでの皮肉で溢れていて、「なんでこの人おれのこと知ってんだよ……(「おれら」の代表だからさ)」と、「共感」の一言では片付けられない名状しがたい感情が喚起される一曲です。

秋田ひろむの言葉は、必要としない人には全く必要ではないタイプの言葉です。
しかし、きっと「おれら」には必要なもので……。
この世界に、この時代に彼がいてくれてよかった、と、「おれら」の一人であるOZZYは思うのです。


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