【note9. 子どもを持てなかったオトナが果たすべき義務について、バカなりに考えてみた】
【年始早々火をつけられた】
過日、オンラインで長く親交があり、リアルでも何度かお会いした方に、初めてサシで会ってきた。
境遇や置かれた状況があまりにも似ていて、いつかしっかり時間をかけて話してみたいと思っていたのだけれど、思うところ、目指すところにも沢山の共通点があって、話にも熱がこもった。
ずっと思っていたこと、ずっと考えていたこと、ずっとそうあって欲しいと願っていたこと。そんな諸々に、同じように悩んで、同じようにぶつかって、同じようにうちのめされて。それでもそこへ果敢に挑んでいく人がいた。そのことが嬉しくて、本当に嬉しくて、別れた後に涙が溢れた。
あの日は、あの時間は、間違いなく僕の人生の宝になった。そのことをそのまま書いても、それは何か違うし、そうすることでこの熱を伝えることは、多分できない。
だから、唯一僕ができる「書くこと」で、僕なりの援護射撃をしたいと思う。
【「だがしかし」をもう一つ重ねられないか?】
生きるうちに、歳を重ねるうちに、鈍磨し、すり切れた心が、「こうあって欲しい」という願いに、「だがしかし」というブレーキをかける。「そういう世界になればいいとは思うけれど、『だがしかし』現実には難しいよね」と。
でも、そう考えるしか、そんなふうに「現実的に」考えることだけしか、本当にできないのだろうか?
「だがしかし」という諦めのあとに、もう一つ「だがしかし」を付け加えることはできないだろうか? 実現は難しいかもしれない。「だがしかし」、当の大人たちが、今現在社会を回して、次の時代につながる世界を作っている大人たちが、そこから目を背けるのは、諦めてしまうのは、違うのではないだろうか。
全ての大人が理想を語らなくなったとき、そこにある世界の有様は、どんなものだろう? なりそこなった「自分」は、「青かったな」と酒のつまみの思い出話にしてよいほど軽いものだったか?
「だがしかし」で溢れた世界は、いまや青息吐息だ。でも、そこにもう一つの「だがしかし」を重ねていけるなら、見える景色は大きく変えられるのではないか?
簡単なことだとは言わない。心身や諸々の事情で、そうできる状況に至れない人たちもいる。そういう人たちは、まずは自分を救うことに専念すべきだ。そうできる状況にあっても、人それぞれにできることも、できる範囲も与えうる影響力も拡散力も違う。誰もが同じようにできるわけじゃないし、同じようにできる必要もない。むしろ、違うからこそ、様々なレイヤーの誰かにリーチできるのではないか?
絶対、とは言えない。でも万に一つでも誰かには刺さるかもしれない。それぞれの立ち位置で、それぞれのやり方で、それぞれの寄り添い方で、過去の自分と同じ轍に嵌まり込んでしまった、かつての自分のような彼や彼女たちに、何かを示してやることはできるのではないか?
お金や品物じゃなくたっていい。技術や知識でなくてもいい。たくさんの人を救えなくていい。「助けよう」なんて大それた覚悟すら必要ない。何も持たぬなら、寄り添いと共感を贈ることはできないか? あなたのしくじりは、そのまま彼ら彼女らの標となり得るのではないか?
それぞれの「だがしかし」に、をもう一つ「だがしかし」を重ねていくことはできないだろうか?
【かっこいいことは、なんてかっこ悪いんだろう】
昨年(2019年)半ば、経団連の中西会長が、「経済界は終身雇用なんてもう守れない」といい、トヨタの豊田章男会長も「終身雇用を守っていくというのは難しい局面に入ってきた」と言っていたが、多くの人々の感想は、「うん、しってた」だと思う。
東芝は、2023年までに7000人のリストラを予定している。富士通は2020年度を目処に、5000人規模、セブン&アイHDは3000人、日産は1万人超(全世界)。
名だたる大企業が、これだけの数の人員を削減する。これだけの人間が、それも優秀と言われる人材が、職にあぶれる。
今後、更にたくさんの人が露頭に迷うだろう。少なくとも、これまでいわれてきた「普通の生き方」ができる人は、「普通」といえるほどの数ではなくなると思う。
僕がnoteでやっている「冴えない貧者(おれら)の育て方」というマガジンは、まさにそういう「普通とされる生き方」から弾かれてしまった人たちの一助になれたらと思い、執筆している。
これまで「普通」に生きてきた人たちからしたら、そういう生活に「落ちる」のは業腹かもしれない。でも、もう「落ちて」いる人や、ずっとそこに居続けるしかない人は、すでにたくさん存在するし、その中で嘆き苦しみ、迷っている人も、きっとたくさんいると思う。
否応なく、老若男女洋の東西を問わず、誰もが生き方をアップデートする必要のある時代に生きていると、常々僕は思っている。そういう時代を生きる上で、「生きることを楽しむ」こと。その中で、「それぞれの界隈で『カッコいい』人になる」こと。僕はそれが、1つの解ではないかと思っている。
それが仕事であっても良い。「楽しくて仕方ない」と働く大人を見て、「働くって楽しいことなんだ」と子どもたちが思えたなら、それはとても素敵なことだ。
趣味だっていい。仕事がほどほどでも、趣味の世界がすごく充実しているというのも、一つの魅力的な生き方だと思う。
ボランティアや社会奉仕活動なんかでもいい。それらは明らかに世界を支える「仕事」だ。
ゆったりと低燃費に、競争を降りて穏やかな生き方をするのもいい。「こういう生き方もあるんだ」、「こういう生き方をしてもいいんだ」というロールモデルになり得る。
大事なのは「カッコいい」ということだ。
【迷える道すらなくなれば、そこには本当に未来がなくなる】
僕が語っていることは、理想だろうか? おそらく理想なんだろう。でも、「大人になる」とは、なにもかも諦めてニヒリズムと停滞に陥ることではない。あなたに子どもがいようがいなかろうが、子どもたちは僕たち大人を見て育っていく。否応なく次世代の手本となる以上、大人は、「カッコよく」なければいけないのだ。あとに続く世代が、「あんなふうになりたい」と思えるような、カッコいい大人に。
「良い歳をした大人」が理想を語ることは、かっこ悪いだろうか? おそらくかっこ悪いんだろう。でも、ニヒリズムと穏やかな絶望に満ちた大人たちを、子どもたちは「カッコいい」と思うだろうか?
サッカーができなくたっていい。高いクルマも高い時計もいらない。(それほど)オシャレである必要もないし、イケメンや美女である必要もない。ジャムの蓋があけられなくたっていい。高いところのものを取れなくたっていい。お金持ちじゃなくてもいい。カッコいい仕事に就いている必要もない。「カッコいい」は、きっと、そういうことじゃない。本当の「カッコいい」は、子どもたちが「カッコいい」と思ってくれる姿は、大人の世界では、たぶんちょっと不格好だ。
なんだっていい。たくさんの選択肢があって、それを自由に選ぶことができるんだよ、と示すこと、「大人」の顔色を伺って選ぶのではなく、自分の意志でそれを選び取ることを躊躇せずに行える空気を醸成していくこと。それが、大人たちがなすべきことなのではないか? そして、そのためには、大人自身が充足している必要がある。
「他所のガキのことなんぞ知ったことか」という人にまで強制はしないし、税収云々とか将来の社会保障云々の意図で話してるんでもない。ただ、個々人がどう思っていようと、どんな生活をしていようと、あなたの行動や言動、ひいては人生も72億分の1程度のインパクトは世界に与えることだけは、わかっていてほしい。
せめて、72億分の1である自分にとって「カッコ悪い」人間にはならないように生きてほしいな、と、少しだけ思った新年の1日だった。