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【note3. 生存コストについて、バカなりに考えてみた】

本エントリの概略。

①:死ぬその時までのコストは約4000万 〜自分の生涯コストを算出してみた〜
②:若い人と親御さんへの進言        〜必須スキル『マネーリテラシー』〜
③:この先生きのこるには          〜ピカソになれ〜

【①:底辺生活でさえ4000万は必要】

あさぎり夕先生がご逝去された。
享年62歳。
平均寿命の延びた現代においては、未だ生産年齢であり、早すぎる一生であった。

誰しも、いつかは死ぬ。
幸か不幸か、それが何時であるかはわからない。
何時死ぬのかがわからないからこそ、『明日も今日と同じように生きているであろう』ことを前提に人生設計を行うことができるし、夢や希望といった将来への何らかの展望を夢想することで、意に染まぬ今日を生きる慰めとすることもできる。

だが、この「何時死ぬかわからない」は、裏返せばリスクである。
今年98歳の祖父を見ているからというのもあるが、現在の筆者は、長生きを手放しでめでたいこととは思うことができない。
ずっと年下のきょうだいも、親戚も友人も、皆鬼籍に入ってしまった。
うんざりするほど多かった隣人親戚付き合いも、ほぼ全くなくなった。
ラクではある。
しかし、祖父のこの状況は、果たして幸福なのだろうか?

筆者は、自分の余命をあと四半世紀程度と想定している。
妻からは、
「私が死んだあとに死んで。あと、私は150歳まで生きるから」
と言われているので、可能な限り努力をしたいとは思うが、筆者自身が積極的に「生きてもいい」と思えるのは、MAXであと四半世紀程度だ。
心身ともに壮健で、経済的にも問題のない生活を送れるのであれば、98歳でも150歳でも、いくらでも長生きしてもいいのだけれど、健康寿命の点で考えれば、70歳くらいから、クリティカルな不調が発生してくるはずだ。
44歳(年明け早々に45になる)の現在でさえ、既に様々な心身の不調に苛まれており、四半世紀『もてば御の字かな』というのが、偽らざる皮膚感覚だ。

しかし、何事も予定通りになど運ばないのが常だし、意に染まない形で延命してしまう(させられてしまう)リスクも考慮しなければならない。

ということで、少し前に、自分の生存コストを計算してみた。そのうえで、どのくらいのお金を月々貯蓄すればよいかについても。
もしもあと40年『生きてしまった』としたら? という、僕としては最悪の想定での計算だ。

基本生活費は、トータル16万円=年間約200万円、年金支給開始年齢を75歳、支給額を8万円と想定して計算した。多分、かなり少ないと思われるだろう。筆者夫婦が生活保護を受給したとして、このくらいかな? という想定金額で考えてみた。『健康で文化的なうんちゃらかんちゃら』というヤツだ。

年金支給開始年齢は、75歳で想定している。現段階で既に70歳で既定路線のようだし、2020年を待たずして75歳まで上がるであろうことは容易に想像できるし、逆に支給開始年齢が早まる可能性を生むような事象は、少なくとも筆者の目では観測でいていないからだ。

200(万円)×20年(64歳まで働いて84歳まで生きる想定)=4千万円

年金支給開始年齢を75歳、支給額を月額8万円程度と想定した場合、

84-75=9年(実質的に働けなくなってから支給開始までのブランクの年数)
8×12=960,000(年金支給見込額(年額))
200-96=104万円(必要生活費-年金支給額=貯蓄必要額(年額))


2200万(11年分・64歳から75歳まで)
936万円(9年分・75歳から84歳まで)


3136万円(20年分)

31,360,000÷20=1,568,000≒157万(年間必要貯蓄額)
157÷12=130,833(月間必要貯蓄額)

……言うまでもないが、不可能だ。少なくとも、筆者の現在の延長線上に想定される生活の経済規模では、不可能だ。
70前後で安らかにコロリが理想ではあるが、寿命ばかりは自分でどうにもできない。
公助のお世話になりつつ、できるだけお国の財布を圧迫しないよう、自分でも可能な限り働く、というのが現実的なラインだろうか。

自分の人生なので自助が前提ではあるし、頑張りはするけれど、届かない可能性も高い。
こんなアホな事態に陥ってしまったのは、ひとえに親子2世代で受け継いでしまった『マネーリテラシーの低さ』故である。

【②:マネーリテラシーを教えるのは親の義務(断言)】

洋の東西を問わず、マネー本は数多存在するが、金持ちになる方法などというものは、東西随一の不明者を自認する筆者でさえ理解している。
極めてシンプルな3つの要素を追求することだけが、「金持ち」になる方法だ。

①:収入を上げる
②:支出を減らす
③:(投資の)運用利回りを上げる

の3つだ。
世に貧者が溢れかえっている現実は、これほど平易な原則すら踏み外すことなく履行できない者が大多数であることを物語っており、筆者もまた、その一人である。
自己弁護になってしまうが、とはいえ①は、現在の労働者階級にはなかなかハードルが高い。
労働者の賃金に対する下げ圧は、先進国と言われる国々で発生しており、特に本邦で顕著な傾向であるが、どうやら単純労働移民の受入が確定となりつつあり、安価な外国人労働力との削り合いは必至となる。
それは良い。
良くはないが、逆らったところでどうにもならないので、受け入れるしかない。
③についても、必要なスキルではあるが、『投資』のステージに行くには、ある程度のボリュームの種銭を貯める段階を踏まねばならない。
単元未満株が購入できるようになったり、釣り銭レベルの少額投資ができるようになったことは素晴らしいことであるし、勉強のため、好きな企業やプロジェクトの応援の為、遊び半分で楽しむために行うのは、宝くじや公営ギャンブル等にお金を張るよりもよほど有用ではあるが、『資産の形成・増加』という目的に合致するほどの運用益を上げることは難しい(というか、不可能だ)。

②だけは、本人のマネーリテラシー次第で、コントロール可能だ。
上記3点の中で、『お金をなるべく使わない』という方法だけは、浪費を抑えることを意識するだけで実行可能なのだ。
そして、そのマネーリテラシーは、言動なり行動なり背中なりで、親が教えるしかない。
私学についてはわからないが、公立の初等〜高等学校教育の場で、『マネーリテラシー』という教科が加えられることは、少なくとも筆者が生きている間にはないだろう。

『お金とは何であるか』をはじめとして、『お金の使い方』、『お金の使い道』、『お金の増やし方』、『お金との付き合い方』、『資産と負債の違い』、『広告と情報の違い』、『初歩的な会計の知識』等々。
特に、『借金』については、すべきでない時とすべき時、そして世に蔓延する『一見借金に見えないトラップ』について、しっかりと教育しておく必要がある。

教える立場の親であるあなた自身が、そのリテラシーを持ち合わせていない場合もあると思う。
それ自体は責められるものではない。
あなたもまた、(筆者とおなじように)親世代からそのリテラシーを継承されなかったのだ。
そして、既に成人した、子を持たない方もあると思う。
いずれの立場であったとしても、今すぐに学んで欲しい。
あなた自身と、次世代のために。
使い古された表現だが、どれだけ残っているかわからぬ余生の中で、「今」は一番若い瞬間なのだから。

note内で何度か、筆者及び筆者の両親のマネーリテラシーの低さについて言及したエントリを執筆した。
『タイムマシンがあったら』とは思わないが、親のことはともかく、自分自身の不明については、思い返しては沈痛な気持ちになる瞬間は日常的に存在する。

”あのときああしていれば……。”
“あのとき、あんなものにお金を浪費していなければ……。”
“親の借金など、それこそ親自身の『自己責任』で処理させておけば……。”
“親任せにせず、自分のお金で大学に行っていれば、あるいは辞めずにすんだのではないか……?”

考えても仕方がない、それでも考えるのを止めることのできない苦悔がある。
人生の亡霊を追いつづけるような無駄足を、あなたの子どもを含む次世代に、踏ませてはいけない。

【③:それでも生きなければならない】

本邦の社会福祉は、「中福祉中負担」であり、欧州や北欧ほどの手厚さはないが、そのかわり、過重すぎる税負担もない、と言われている。
比較対照しやすく、また、現在本邦でも話題となっている消費税率でみてみると、デンマークやノルウェー、スウェーデンといった北欧の国々は25%。欧州では、フランス、イギリスは20%。ドイツは19%と、たしかに高い税率だ。
一方アジア諸国は5〜10%。

なるほどたしかに、高福祉高負担の国々の、半分以下の税率である。
しかし、欧州や北欧のような、「どう転んでも生きられる」というほどの安心感はない。

他方で、中国や北米などは、完全な弱肉強食の世界だ。
生存競争に負ければ、今日から路上がマイホームとなる。
これは、大概しんどい。
失敗や敗北、敗者復活に寛容な土壌と言われるが、本稿及び本マガジンは、弱者≒敗者(及びその予備軍)を想定読者としており、この層が、テストステロン分泌量に人生が左右されるような社会と、極めて相性が悪いのは明白だ。

捕捉率の低さという問題はあるにせよ、この国に生まれ、国籍さえ保有していれば、『健康で文化的な最低限度の生活』を保証すると、この国の憲法は明言しているのだ。

毎度のように筆者が「これ」について言及するため、眉を顰める方もいらっしゃるかもしれないが、前章でも少し触れたように、単純労働移民が認可される流れになりつつある。
既存の製造業、サービス業等の現場からは、続々と日本人が排除され、賃金の安い外国人労働者に交換されつつある。
ナレッジワーカーについては、いっときは少数のインドや中国等の優秀な人材が入ってきたこともあるが、現在の日本は、給与面でも待遇面でも、魅力的な国ではなくなってしまった。
その上、筆者を含む大量の氷河期世代は、連続したキャリアや有用なスキルを保有する者の割合が少なく、非正規雇用率も高く、採用側としても、扱いづらい世代であるため、新卒を使い潰すか、定年後のスキルも経験も豊富な団塊世代の人材を雇う方が、『コスパ』がよく、大量の『氷河期余り』となっている。
年金支給開始年齢を無限に引き上げ、『死ぬまで働け』というのであれば、これらの人材を再教育してでも就労の場に就かせる方が、移民よりはよほどマシな方法に筆者には思えるが、実際問題、私企業がそういった方向に舵を切ることはあり得ない。
IFの話として、ベーシックインカムのようなものがあった上で、最低賃金が撤廃された状態であれば、『安くて日本語が通じる労働力』としての需要は生まれるかもしれないが……。

筆者の皮膚感覚としても、40代半ばの『再就職』、それも、これまでとは畑の違う分野への転職は、なかなかに厳しい。

とはいえ、生きなければならない。
とはいえ、パイの奪い合いに参加しても、徒に疲弊するばかりだ。
地方はともかく、都市部のコンビニは、1/10程度の店舗数になったとしても、多少不便を我慢する程度の話だ。

僅かな差別化の為に、不要かつ過剰なサービスや、過剰な利便が生まれている。
断言してもいいが、これは『革新』ではないし、『おもてなし』でもない。
その職務に就いていらっしゃる方をDisる意図はまったくないが、

服飾店の店員の声がけも
退店時に店先まで荷物を持って見送ることも
跪いてオーダーを取る居酒屋の店員も
車が見えなくなるまでお辞儀をし続けるカーディーラーのスタッフも

筆者は不要であり、過剰であり、むしろ過剰なサービスを押し付けられ、不快とすら感じている。自分が『一般人代表だ』などとは露ほども思っていないし、それらサービスを好ましく思う向きも、もちろんあるのだろうとは思う。
しかし、『いつまで続けられるのだろう?』とも思う。
それらサービスが、極めて『日本人的』な、忖度と自己犠牲精神に立脚したものであることは論を待たぬものである以上、外国人労働者にそれを求めることは、かなり難しいと思うのだ。
また、それら過剰なサービスに居心地の悪さを感じる筆者のような層もまた、一定数存在するとも思うのだ。

接客を最低限にし、セルフレジすら導入したGUなどは、この『時流』や『時代の気分』をよく理解していると感じる。

【ピカソになれ】

Q.では、個々の人間はどうしていけばよいのか?
A.ピカソになれ。

noteでも大人気の「こうみく」さんのツイートを見て、筆者も考えた。

いまどきTVCMを打つだけの体力のある企業が何を商品としているかを考えると、今売れているものは、生活に必要なものではなく
『役に立たないけれど面白いもの』
だけである。それも、
『現物ではなく、デジタルベースのもの』だけだ。
ソーシャルゲームやYouotube、TikTok等の動画系コンテンツなどは、その極みといえる。

一方、現物やサービスを提供する、旧来のビジネスモデルのものは、軒並み不調だ。
外食などはまさにその代表といえる。

コンテンツホルダーのみが生き残れる時代が来た、と、筆者は考えている。
TikTokで結構な金額を稼ぐ配信者もぼちぼち現れはじめ、YouTuberなどは今や子どもがなりたい職業にランキングされるようになってきた。
生配信系コンテンツの投げ銭は、個が稼ぐという点では非常に有用なツールであるし、『役に立たず』『だが暇つぶしになり』『面白いといえば面白く』『現物はなくデジタルで完結』している。時流に乗った収益の得かただと思う。

無論、そこで稼げるのは、一握りどころかひとつまみの人間だ。
若い女性以外で、動画配信や生主界隈で収益を得るのは、割と(かなり)ハードルは高い。

YouTuberを目指せと言うわけではない。
『何らかのコンテンツを保有することは、必須である』と言っている。
それも、しっかりとマネタイズを想定して、『時流』と『需要』を意識しつつ、自コンテンツを磨き上げておく必要がある。
決してゴッホになってはいけない。ピカソとなり、生きている間に収益という名の果実を喰む必要がある。
内容もさることながら、営業方法については特に、『時流』を意識すべきであると思う。

絵画や書、映像作品といった、ビジュアルを見せるコンテンツの保有者は、視覚優位な現代の時流との親和性が高いが、筆者を含む、文章を読んでもらってなんぼのモノカキや、まず一聴してもらうハードルのある音楽系のコンテンツの場合、ビジュアライゼーションが鍵となるような気がする。
音楽ならばMVという手段もあるが、モノカキはどうすれば良いか……有効な方法を検討中だが、手っ取り早いのは「UPした文章の解説動画」かもしれない。
(これは筆者の着想ではなく、とある方の受け売りである)

北浜ジンベエ名義のブログでは、記事のあとにコメンタリー動画を作成し、内容の補足を行っている。

もう少しエンタメに振って、楽しんで頂ける方向性を模索していこうと考えている。

最終的にお金に繋がることが目的ではあるが、この作業は純粋に『面白い』。
『面白い』というのは、とても大切なことだと、”BLACK LAGOON”のダッチも言っている。

なんにせよ、どうあっても生きなければならないし、世界の構造も、収益のあがるネタも変わってきているのだ。
せめて、楽しもう。
コンテンツしか売れない時代は、楽しめる者しか勝てない時代でもあるのだから。

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