かねきょさん作

マジョリカグリーンの記憶〜イシケン&ミキティシリーズ vol.1

本作は、海見みみみさん編集による、に寄稿した掌編作品に、加筆修正をしたものです。
季刊マガジン水銀灯vol.2は、からご購入頂けます。

* * * * * * * * * *

”ドローベンド”ブルースハープの奏法の一つ。10個しか穴のない10ホールズハープで、息の吸い方や唇、顎、舌の動きを変えることで音程を変える、ハーピストの必須テクニック。

イシケンこと石田健太郎のファーストインプレッションは、『最悪』の一言に尽きた。
先程二人で平らげたチリコンカンのニンニクの臭いを盛大に撒き散らしながら、B♭のハープでLittle Walterの名曲をゴキゲンで吹き鳴らすこのオッサンによって、私の人生はドラスティックに変えられてしまった。

これから話すのは、26歳女子(処女)の私の、クソ面白くもない自分語りだ。
少々長くなりそうなので、女の子の話を、批判や上から目線のアドバイスで遮らずに笑顔で「うんうん」と聞き続けることのできる男子力をお持ちでない方や、単純にお時間のない方、『エセサブカル系アラサー貧乳眼鏡っ娘』に特に萌え要素を感じない方は、今すぐ回れ右されるのが賢明だ。

イシケンと私のストーリーは、一週間前の昼下がり、突然に始まった。
いや、始めさせられた。


* * * * * * * * * *


「美樹ちゃ〜ん、多分これ、あなた宛の荷物だと思うの〜」

私鉄沿線の駅徒歩5分。
設計士兼代表者である社長、奥様のマナミさん、そして私。計3名のこの小さな設計事務所が、私の職場だ。

小さな包みをマナミさんから受け取る。
送り主は……石田健太郎?
記載されている住所はお隣の区。
私の家からは、かなり近い。

エアパッキンに包まれた細長いソレは、10コの四角い穴が空いた木片を金属で挟み込んだカタチをしていた。
金属板の表面には『HOHNER』のロゴ。
裏面には『Rei-T』と手彫りの刻印。

Rei-T=友川玲二。
10ホールズのブルースハープ。

もしかしなくても、ブルースバンドのハーピストであった父のものだ。
父が所属していたバンド、『だうん・ほ〜む』は、その界隈では有名であったらしい。実際、ネットで検索するとWikiもあったりする。
Google先生の手助けを借りて検索すると、送り主の正体はあっさりと知れた。
石田健太郎は、『だうん・ほ〜む』の解散直前に在籍していたギタリストだ。
父とドラムスの田嶋氏が、同乗した車の事故で一時に亡くなった後、主要メンバーを欠いた『だうん・ほ〜む』は空中分解的に解散してしまった。
最年少メンバーだった彼は、その後芸能活動を引退していた。

父の死から、かなりの年月が経っていた。
遺品を一人娘に返してやろうとでも思ったのだろう。
この事務所に荷物が届くのも、さほど不思議な事ではない。
マナミさんと私の母は、無二の親友で幼馴染なのだ。
技術も知識もない、高校卒業後の8年間、アルバイトしかしたことのなかった半端者の私がこの事務所で働けるのは、『親友の娘』であるが故だった。

「こんにちわ〜、宅配便でーす。集荷に上がりました〜」

配送業者の声に我に返る。

「は〜い、ご苦労様で〜す」

今日は税理士の高井先生の所への一件だけだったはずだ。

「はい、コチラ一点ですねー」
「はい、よろしくお願いします」
「ところで、今晩お暇ですか? 原町美樹さん」
「!?」
「(にっこり)」

何?
私はネット弁慶だが、リアルは極度のコミュ障だ。
他人から、それも3次元の男性から見つめられることになど、全く慣れていない。
それ以前に何故この人は私の名前、しかもフルネームを知っているのか?
まさか、これが世にいうストーカー!?

助けを求めようと社長の方を振り返ると、2Fの住居部分から降りてきたマナミさんが

「あら、石田くん。荷物、ちゃんと美樹ちゃんに渡しておいたわよ」

と、ニコニコしながら言った。
いしだくん? って、まさか!

「ご挨拶が遅れました、石田健太郎です。イシケンとお呼びください」

これが、わたしがイシケンをイシケンとして認識した瞬間だった。

「もう一度言います。今夜、お時間頂けますか?」

”わけわからない状況に私はフリーズ♪”
”何が起きているのか教えてプリーズ♪”

と、韻を踏みながら、私の脳内に『何故?』と問いかけるライムが溜まっていく。
さあ! 東京都在住の原町美樹さんのお答えは!?

「ごめんなさいっっ!!」

そりゃそうでしょ!


* * * * * * * * * *


理不尽は、世界のそこかしこに遍在する。
私の脳はお昼の出来事を何度も反芻し、グルグルと高速回転を続けた後、パンクした。疲弊した脳はオーバーヒートを起こし、生命維持以外の機能をサボタージュした。瞳孔は開き切り、よだれのひとつも垂らしていたかもしれない。

あおいそら
しろいくも
ちょうちょ
ちょうちょ

見ず知らずの男性のたった一言が、週末の退社後という一週間で最もウキウキする時間を私から奪い去った!
これを理不尽と言わずして、なんと言うべきか!
すっかり傾いた陽の光を眺めていると「ぐぅ」とお腹が鳴った。
そういえば、何も食べてないや―――。

中華圏のどこかの国で生産された購入価格2,980円のオーブントースターが、冷えた油に熱を与え、パン粉を焦がしていく様を眺めていた。
ぽっかりと心が空いてしまうと、途端に母のことを思い出してしまう。
料理研究家だった母が亡くなったのは、この春のことだった。
『節制』という言葉を人の形に固めて命を吹き込んだような人だった母は、膵臓癌であっけなく逝った。
片や高校卒業と共に母からのお弁当の供給がなくなるや、躊躇うことなくポテトチップスを夕飯代わりにしていたような私は、一度も健康を害することなく生活している。これまた理不尽と言わずして、なんと言うべきか。

チン! とベルが鳴り、庫内の光が消える。
アジフライにメンチカツ。紙の丼に入った中華丼のザ・一人暮らし夕食。
生前の母ならば、「トランス脂肪酸ガー!」なんて怒っただろうけど、最早それもifの話だ。

「いただきます」
誰にも聞かれる事のない私の声が、1DKのアパートに響く。
かぷり、とアジフライに齧り付いた瞬間、呼び鈴が鳴った。

「ふぁぃ! ろなファれふふぁ?(はい、どなたですか?)」
「石田です」

ブフォッ!!

咥えていたアジフライは奇跡的な軌跡を描き、中華丼の餡の上に軟着陸した。
『ストーカー』という単語が頭に浮かぶ。
私は、不用意に返事をしてしまった事を後悔した。

「原町美樹さ〜ん。石田で〜す。今日、お約束しましたよね?」

してないッッ!!
32ビートを刻む私の心臓とは反対に、のんびりとした声がドアの向こうから響く。
女一人暮らし+男来襲=警察?
いやいや、まだ何も起こっていない。警察は原則的に「何かが起こった後」にしか動いてくれないし、なんといっても彼は父の知人だ。最初から悪人と決めつけるのも酷い話だ。
要件だけでも聞くべきだろうか?
お昼に引き続き無理やりフル回転させられたアタマから、もつれてつんのめって出た言葉は

「ど! どのような警察ですか!?」

だった。
ブフォッ! と扉の向こうで吹き出した声がする。
滅茶苦茶恥ずかしい―――。

「美樹さ〜ん、開けてくださ〜い」
「イヤです! あとファーストネームを大きな声で呼ぶのもやめてください! 私、あなたの彼女じゃないですから!」
「今夜会いましょうって、約束したじゃないですか」
「してませんッッ!!」
「したかどうかは、ささいな事です。開けてください!」

ささいな事なの!?

「ほ、ホントに警察呼びますよ!」
「待って! 待ってください! 誤解です! これ!!」

と、ドアの隙間から、折りたたまれたボロボロの紙を1枚、するすると差し入れてきた。

「まずはそれを読んで下さい。それで納得していただけないなら、今日のところは帰ります」

今日のところは? 明日も来る気!?
憤慨しつつも、私は手紙らしきその紙を受け取った。
今にも破れそうなほど強く折り目のついた紙を丁寧に広げると、そこには見覚えのある文字がならんでいた。

健太郎くんへあなたがこの手紙を手にしている頃には、私はもうこの世にいないでしょう。私は、あのバカの待つ所へ旅立ちます。玲二は、まだ私の事好きでいてくれてるかしら?あっちでもっと可愛い子、見つけたんじゃないかしら?それが気がかりです。気がかりといえばもう一つ。もう一人のバカ、美樹のこと。あのバカ娘は、一見大人しくて真面目に見えるけど、中身は玲二にソックリ。考えなしにバカなことをやっちゃう大バカなの。でも、臆病な所は私に似ちゃったのかしらね。悪いトコばかり選んで似ちゃって。無気力・無関心・ビビり・不調法・貧乳……キリがないわね。無理を承知でお願いします。健太郎くん、私が居なくなった後のバカ娘を、少しの間だけでいい、側で見守ってあげてほしいの。あの娘に、彼氏なりダンナなりができるまででいい。あ、でも、一生できなかったらどうすればいいのかしら?そうね、私が死んですぐでは、多分なにかとバタバタしてるだろうし、私が死んで3ヶ月経った日から半年。半年でいいわ。こんな事頼めるのは、健太郎くんだけなの。どうか、よろしくお願いします。

                                原町 都子

本文を一読し、文面に散りばめられた『バカ』の数を三度数え直した後、どうやら母が、面倒くさい置き土産を置いていったことを理解した。
あと母さん、貧乳は余計です。

「……どうぞ」

私はドアを開け、これから抱え込む厄介の種を招き入れた。

「ありがとうございます」
「……」
「あの、怒ってますか?」
「……いえ」
「では、その手に持っている釘バットは?」
「母の遺品です。幼い頃から、『N◯Kが来たらこれを持って対応しなさい』と言われていました」
「都子さん……」

石田氏が、母の名を呟き涙ぐみ始める。『わー、めんどくせー』と内心で思いつつ、「立ち話もなんですし、どうぞ」と室内に促した。
 
「お食事中でしたか」
「お食事中でした」
「前衛的な料理ですね」

先程爆誕した「あんかけアジフライ丼」を見ながら、石田氏が言う。

「あなたの来訪に驚いて私の口から逃げたアジフライが、見事に着米しました」
「初めての共同作業ですね」
「気持ち悪い事を言うと、本当に警察を呼びますよ」
「すみません。しかしなんというか、都子さんの娘さんとは思えない粗末な夕餉ですね」
「遠慮会釈のない言い方は嫌いではありません。はい、私は料理ができません」
「そのようですね。都子さんに聞いていたとおりだ」
「はぁ……」
「美樹さん、都子さんが愛用していたSTAUBの鍋があったはずです」
「すとうぶ?」
「はい、マジョリカグリーンの22cmココット」
「何かの呪文ですか?」
「……お鍋の名前です。深い緑色の、光沢のあるお鍋をお持ちだったはずですが」
「あれかな?」

引っ越し以来ずっと台所の片隅に放置されていたその鍋は、埃に塗れて光沢を失っていた。ていうか蜘蛛の巣が張っていた。
石田氏はそれを見てふるふると震え、ギッ! と私を睨みつけた。
え? なに? 怖いんだけど。

「……洗いますよ」
「はい?」

「この鍋、洗いますよッ! そして料理を作ります!!」

「料理なら……」
ちら、と「あんかけアジフライ丼」を見やる。

「あの前衛的な料理は、もったいないので僕が頂きます! 美樹さんは僕の作った料理を食べるのです!」
「私は今まさに空腹なのですが……それに、冷蔵庫の中には何もないですよ」
「ご心配なく」と席を立つと、一旦玄関を出、山盛りに野菜が詰め込まれたダンボール箱を持ち込んできた。

「あの……これは?」
「実家から送られてきた野菜です。都子さんの手紙から透けて見える美樹さんの人物像から、ろくでもない食生活を送っているであろうことが透けてみえましたので」
「さっきからナチュラルに辛辣ですね。気に入りました。台所の使用を許可します」
「かたじけない」

私は人見知りだ。
特に男が苦手だ。
初対面の人間と洒脱な会話ができるタイプの人間とは対極なのだが、何故だろう? 目の前のこの男は、私に緊張を強いない。
出会って早々の男に警戒を解くなど、やっすい三文恋愛マンガのようだが、実際にあるものなのだな、とぼんやりと思っていた。

「石田さん」
「イシケン、と呼んでください」
「嫌です」
「脊髄反射で断らないでください。あなたのお父さんから、そう呼ばれていたのです」
「父があなたを『イシケン』と呼んでいたことと、私があなたを『イシケン』と呼ぶことの関連性が全く見えませんが、わかりました、イシケンさん」
「敬称略で結構です」
「はい、イシケン」

困った。楽しい。
このバカバカしい会話のやり取りが、ものすごく楽しい。
私の中で、イシケンの存在が「ストーカー」から「なんか楽しい人」に三階級特進していた。彼が軍人ならば、殉死していることだろう。

玉ねぎ、にんじん、セロリ、バジル、トマトの缶詰と色とりどりの豆の缶詰、ベーコンの塊。

ダンボール箱から、様々な食材が出てくる。

「良い豆が家にあるのですが、戻すのに時間がかかるので、今日はこれを使います。少し待っていて下さい」
 
小気味よい包丁の音と、野菜や肉が煮える匂い。
この音と匂いを、久しく忘れていた。
叙情的な光景の中、「うわ! 蜘蛛の巣!」とか、「ギャー! マリモ的なビジュアルのふわっふわな毛並のニンニクが!」といったイシケンの声が聞こえるけど、きっと気のせいだ。
40分程すると、イシケンが鍋ごとお料理を持ってきた。

「何か敷くものを」
「あ、じゃあコレを」
「ソレ、『だうん・ほ〜む』のインタビューが載ってる回の幻の『宝沼』じゃないですか! ダメ! 絶対!」
「めんどくさいなぁ……」

英国の高級車のような光沢を取り戻した緑色のお鍋の中身は、トマトベースの豆料理だった。処分を免れた母の遺品の深皿に盛られた一品を一匙掬い、口へ運ぶ。
はじめにトマトの香り。それを追うようにバジルの爽やかな香りが広がる。3種類入った豆はどれも違う食感で、口を飽きさせない。セロリの青い味としゃっきりとした食感がアクセントを加え、玉ねぎの甘みとベーコンの旨味が、それらを下支えしている。

「……おいしい」

と、思わず溜息混じりに口から漏れた。
その瞬間、ぱぁっ、と、本当に子供みたいに、イシケンが笑った。

何故だろう? 顔が熱い。

あんかけアジフライ丼をガッツガッツと掻っ込むイシケンを、目が追ってしまう。
丼をもつ指の無骨さ、二の腕の筋肉、喉仏……
うん……うん?……なんだこれ?
米粒一つ残すことなく「あんかけアジフライ丼」を完食したイシケンは、「ごちそうさまでした」と手を合わせ、立ち上がる。

「では、帰ります」
「えっ! もう!?」
「居てほしいのですか?」

質問の意図を測りかねる。
そして、私自身の気持ちも測りかねた。

「あの……もしかして明日も?」
「はい、明日も来ますよ」

私の心臓が変拍子を刻む。
その夜、私は一睡もできなかった。


* * * * * * * * * *

朝。
冷蔵庫から昨夜イシケンが作ってくれた豆料理を出し、レンジで温める。
ベッドから起き抜けのくしゃくしゃの髪と、カップのないキャミソール。下はおぱんちゅのみという、セクシーなんだか女を捨ててるんだかわからない寝間着のまま胡座をかく。
洗い物を最小にする為、温めた料理は保存容器からダイレクトにいくつもりだ。

もしやこういうシーンは、拗らせた男子の需要があるのではなかろうかと腐った脳で考えながら、容器の蓋を開け、パクリと一口。味覚をトリガーに、私の脳が昨夜の記憶をキャプション付きでプレイバックする。

体温がドンドンあがり、顔が紅潮し、息が荒くなる。
瞳はきっと、トロリと潤んでいるのだろう。

イシケンの親指のでっかい爪、固いんだろうなー、触ってみたいなー。
上腕二頭筋の筋を指でなぞってみたいなー。
あのTシャツから仄見える胸筋ヤベェよなぁー。

……認めざるを得ない。私は今、発情している。
オトコが作った料理を食べながら発情するアラサー女。なにこの珍獣。

ピンポ〜ン♪

ハァハァしながら食事をしていた変態女の心臓が、ビクンッ! と跳ねる。

「美樹さ〜ん、石田です」

イシケーーーーーーーン!!

「あ! え!? 今はまだ9時ですが」
「はい。今日は僕も休みです」
「あなたの休日が土曜日であることは理解しましたが、こんな時間のご来訪の意味がわかりません」
「日曜も休みです。朝食をご一緒しようかと」
「やぶさかではありませんが、私は現在、成人女性としてあってはならない状態にあります。15分程お待ちいただけないでしょうか」
「僕は気にしませんが……」

「私が気にするんです!!」

「来ますよ」って、「朝から」だったのーーー! とりあえず下に何か履かなきゃ! 髪! 髪ボサボサ!
メイク……は、ほとんどしないからいいや!

「イシケン、覗いたりしちゃダメですよ」
「覗きません」
「本当ですか? 鶴の恩返しという最悪の事例があります。ちなみに今私はノーブラです」
「むしろ鶴にあたるのは僕の方かと……って、なぜ実況するのですか?」
「……そうですね、失礼しました。一時の気の迷いですので、お気になさらず」
「いえ……ああ、はい」
「……いいですよ、どうぞ」

家中のブラが亜空間に消失してしまったので、某ファストファッションブランドのブラトップの上にパーカー、母さんの部屋着代わりだった年代モノのメンズのジーンズを履き、ドアを開けた。

「どれほど酷いかと思いましたが、普通じゃないですか」
「さっき一生懸命普通にしたのです。できれば褒めてください」
「えらいですね、よしよし」

不意打ちで頭を撫でられる。大きな掌の感触に、何かのスイッチが入りそうになる。
 
「ご在宅で助かりました。少々多めに作ってきたので」

大振りなバスケットには、様々な具材が挟まれたクラブハウスサンドがみっちりと入っていた。これ、「少々」ってレベルじゃない気が……。

「珈琲はお好きですか?」
「好きですが、マトモなコーヒーを飲める環境がここにはありません」
「お持ちしました。僕が淹れましょう」

よく使い込まれたエスプレッソメーカーから仄甘く香ばしい香りが立ち上る。
はぐ、と齧りついたサンドイッチには、スクランブルエッグが挟まれていた。

「おいしいですか?」
「はい。とても」

満足気な笑みを浮かべ、ゴツい手で持ったカップからコーヒーを啜る。
その手に、私の目が釘付けになる。

「そういえば」
「はい」
「お父様のハープは、吹いてみましたか?」
「いえ。楽器はよくわからなくて」
「幼稚園や保育園で習ったハーモニカと、基本は同じです。息を吹いたり吸ったりすれば音は出ます」
「はぁ……」
「あとでお教えします。お父様の足下にも及びませんが」
「では、お願いします」


* * * * * * * * * *


……舌が痛い。
イシケン先生による『一日で吹ける! ハーピスト養成講座(スパルタ)』は、私の想定を超え、四時間ぶっ通しで行われた。

「タンギングは小学校の縦笛と同じ要領でイケると思いますが……」
「……イシケン先生、舌の先が痛いです」
「HOHNERのハープはボディ材が木なので、仕方ないです。プラスチックならばそこまでしんどくないのですが……」

父の形見のKey:Cのハープで、”Amazing Grace”を吹く。
余分な音が出てしまったり、出るべき音が出なかったり……

「このドローベンドって……よくわかりません」
「舌を喉の奥に引き込むような感じで」

♪〜♪
 〜♪〜♪
……
…………
……………。

「……やっぱりわからない」
「……こうです」

イシケンは右手で私の顎を持ち上げ引き寄せると、ぽかんと池の鯉みたいに開いたままの私の口に唇を重ね、思いっきり舌を突き込んできた。
舌先がグイグイと喉奥の方へ押しやられる。
驚いた私は、されるがままに受け入れてしまう。

唇を離し、「わかりましたか?」とイシケンが私に問う。
全身が熱病の様に熱い。
アタマは完全に熱暴走し、思考? なにそれおいしいの? 状態。
心臓が、オーバーヒート寸前の速度で鼓動を打つ。
これ以上の速さで動かれたら、壊れてしまいそうだ。
こわばった喉から、やっとのことで声を絞り出す。

「なッ! えっっ! あぁぁぁののののの!!」

「……はい?」

「なななななななッッ!! あの! くちくちくちくち……!!」

「?」

額に手を当て、首をひねる。
腕を組んで項垂れる。
え! え!!、まさか……ウソでしょ!?
「あっ!」と思い当たったように声を上げたイシケンの顔が、みるみる真っ赤になり、その後真っ青になった。

「すみませんッッ!」

土下座の見本というものがあるとすればこれだろうという程に、イシケンの土下座は完璧なフォルムだった。

「あぅ! あうぅぅぅぅ……ふぁぁぁぁああ!!」

相変わらず私の言語中枢は麻痺したままだった。
なんて残念な女なんだ。
 
「いえ、言い訳のようですが、全くそういう気はなかったんです!」
「ひぁぁぅぅぅぅぅ……」

ううぅ……やめてよぉ……「うっかり変な気持ちになっちゃいました」でも、「いいじゃねーか減るもんじゃなし」でもいいから、『私が欲しかったんだ』、ってゆってよぉぉ!!

でも、私のそんななけなしの乙女心を、イシケンの言葉が粉々にブッ壊した。

「この上は、僕の人生をもって償います」

…………え?

アタマが真っ白になった。
全身を覆っていた熱が一気に冷めていき、また別な火が灯される。
あ、これは知ってる。『怒り』だ。
償うってなんだ! 私が傷ついてるのはソコじゃないのに!!

「……出てって」

人生初のドスの効いた低い声が、私の平坦な胸で産まれ、口から這い出た。

「あの……」

「出てけ!!」

バタリとドアが閉まる。
その音が呼び水であるかのように、涙が後から後から溢れてくる。
嗚咽をあげ、しゃくりあげて泣くなんて、子供の頃以来じゃないだろうか?
もう一人の私が妙に冷静に、わぁわぁと泣く私を見下ろしていた。


* * * * * * * * * *


人間という生き物は、実に合理的側面のある存在だ。
激動の週末が明け、日曜の朝。
私のお腹はまたぎゅるりと鳴り、栄養をよこせと訴えた。
たったの2日で、私はとても贅沢になってしまった。今、私の空腹を満たすことのできる食事を提供できるお店は、この世界のどこにもない。

私はこれから一生、満たされないおなかを抱えて生きていくしかないの? 
割と絶望的な気持ちになりかけた時、呼び鈴が一つ、鳴った。

ドアを開ける。
今一番会いたくて、顔も見たくないオトコが、そこにいた。

「マナミさんに、思いっきりはたかれました……」

ご愁傷様。母と仲の良かったマナミさんに相談しにいったのね。
筋骨逞しい大の男が、右の頬を腫らしてシュンと項垂れていた。

「あの……ごめんなさい」
「なんについて謝っているのでしょうか?」
「あの……嫌、でしたよね……その、いきなりキ……」
「ちがいます」
「?」
「マナミさんにはなんと?」
「『よくも私の大事な娘を傷物にしなかったわね』、と。意味がわかりませんでした」
「そうですか……」

少し俯き、イシケンの手元をみる。
ごつい指に、あのバスケット。

「これ、中身はなんですか?」
「ああ、今日はおにぎりを……」

屈み込み、バスケットを開けようとするその瞬間、思いっきり背伸びをして首に腕を絡ませる。
顔を引き寄せ、唇をそっと重ねた。

「え! あ! えーと……」
「どんだけ鈍いんですか……」
「えっと、何故?」

ううぅ……イライラする! 言わせるの!?

「あのねぇ! 私、嫌じゃなかったんです! 私が怒ったのは、勝手に『嫌だった』と思われたからです!」
「良く意味が……むぐっ!」

喋らせない。
コトバでわからないなら、カラダに理解させる。処女なめんなよ!

「マナミさんが怒った理由……部屋の中でじっくり考えてみませんか?」
「入って……いいんですか?」
「嫌ならこんなこと言いません。おにぎりの具はなんですか?」
「鮭とおかかと梅干しです」
「ではまずは鮭を頂きます。私はお腹がすいていますよ。早く中へ」

その後の事は……まぁ、言わなくても、ね。

* * * * * * * * * *

「美樹さーん、ごはんできましたー」
「はーい♡」

幸せ♪
でも、ちょっと癪だ。母親のお墨付きのオトコにまんまと恋してしまった私。
さぞや母も安心だろう。そして父も。
なにやら両親にハメられたような気もしないでもない。

ああっ! でもっっ♡

「美樹さーん?」
「今いきまーす♡」

マジョリカグリーンのお鍋から、幸福な香りの湯気が立ち上る。
チョロい私は、今日もイシケンに餌付けされてご満悦なのだ♪


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