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ハードSFの書き方5(タイムリープでの記憶)
バックトゥザフューチャーは厳密にはタイムリープとはいわないが、有名な映画なのでそれを例に説明する。この映画の中では、運命が変わったことを示すのに新聞や写真が変わるシーンがいくつもある。要するに、世界線が変わったので、そういった起こった事実も変わってしまった、ということだ。では、変わるものは写真みたいなものだけなのか?例えば、「記憶」は書き換わらないのだろうか?過去へ行ったり、未来へ行ったり、主人公の”経験”していることはそのまま主人公の記憶として残ったままだ。観客の時間軸も主人公と一致しており、主人公があっちいったり、こっちいったり(パート1から3まであるが)、それを記憶していて、映画を楽しんでいる。しかし、写真が書き換わるならば、記憶も書き換わるのが当然であり、いろいろ飛び回って結局、元の時間・場所に帰ってきたとき、記憶はどうなっているのがもっともらしいのか。記憶が書き換わっていることが前提ならば、父と母が出会うパーティに主人公自体が登場していた事実も残っており、当然、両親もそれを記憶しており、結婚のなれそめの話を主人公にもしているならば、パーティにこんな人物がいたのよ、という記憶が残るはず。そして、ビフのほうも、未来の自分からもらったスポーツ年鑑の話も覚えているはずで、そこに登場したイカレた博士と主人公に奪われたのも記憶しているはずである。つまり、映画の中の時間軸と主人公の経験している時間軸=観客の時間軸の2つが存在してしまっている。そのようなストーリーにしてしまうと、観客は混乱するだけだろうし、映画としての面白みもなくなってしまう。どこまで忠実に再現するか、は「正しさ」の追求ではなく、まずはわかってもらえないと始まらない、ということになってくる。
※ただし、パート2では主人公のガールフレンドは記憶を消されるシーンがある
もう一つ有名な映画で、「バタフライエフェクト」がある。こちらは肉体が過去へ戻るのではなく、”意識”のみが過去へ戻り、その当時の自分に過去を変えさせる話だ。しかも、上で述べた「記憶」の取り扱いを忠実にしており、過去を書き換えたら書き換えた分、記憶が増えている、ということになっている。しかし、これもよくわからない部分がある。いったん、起こってしまった事象はどこへ行ってしまったのだろうか?起こったことが起こらなくなった、という因果律を破っても問題ない、という設定ならば何でもできてしまう。主人公がいる世界線にすべての事象が集約されるならば(つまり、記憶がどんどん増加するという意味においては)、その世界線での因果律も保たれていなければならず、起こったことと起こっていないことが同時に存在してしまっている。おそらく、シュタインズ・ゲートのように書き換えられた世界線(分岐した世界線)と起こってしまった世界線はそのまま並行宇宙(多重宇宙)のように存在し続けるのが問題ない解釈だと思われる。
そう考えると、実は現在の世界が自分にとって好ましくないので過去を書き換える、という行為はその自分の存在している世界線だけが書き換わるだけであり、別の世界線の自分はどうあがいても好ましくない世界に住んでいる、という事実には変化がない、ということだ。少なくとも今、現実と思っている自分が満足するだけでいいのなら、それでいい。