地震予知についてー「地震雑感」「天災と国防」「震災日記より」寺田寅彦著(青空文庫)
日本は、災害が多い、豪雨被害、地震、津波。ここでは、地震についておもうところを書いてみる。最後に、災害に対する寺田先生の著作を紹介する。
地震予知(時間)
天気予報のように地震がいつくるかわかると仮定して、「いつ」ならば役に立つのか考察してみよう。
非常に短い時間、つまり、p波を検知してすぐに大きな地震がくると予報できたとする(これは実際にアラートが鳴ったりして実現されている;予報ではなく、起こってからの情報)。エレベータに乗る直前とか、乗ってから最寄りの階で停止するだとか、家にいて、まず火元を確認するだとか、そういった状況ならば有益な情報といえる。ただ、あと数秒後に非常に大きな地震がきます、と言われてもどうもできない状況も多くある。起こってしまってから、食料や日常品を確保しにあたふたする、のようなことが想定される。
逆に、非常に長い時間間隔で予報したとする。○○地震は周期70年とかそういったタイムスケールに相当する。このようなすケースでは、70年後にぴったり地震がくるとは限らず(しかも、70年後だとしても今日なのか1か月後なのかもわからない)、数年やもっと長い「誤差」があるだろう。結局のところ、70年周期で震度7以上の地震がくる、と予報されても日常生活の中では非常食などの備蓄をする、などの対策ぐらいしかできないであろう。
地震大国の日本なのだから、日ごろから非常事態に備えて準備しておくことが肝心だが、予報としては(できたとして)どれくらいの時間が知りたいスケールなのだろうか。数日ぐらいが適当だろうか。
地震予知(大きさ)
地震予報としては、その大きさも重要になってくる。小さな地震を予報するより、家が崩壊するレベルの大きな地震を予報するほうが重要であろう。現時点では、大きなレベルの地震の予報は非常に長いタイムスケールで統計的な推定しかできていないとおもわれる。やはり、備えておく、ぐらいしか対応策はないのが現状だろう。
地震予知(場所)
大きな地震が起こったとして、場所も重要になってくる。津波が発生しない、まわりに人がいないような海の真ん中で大きな地震が起こってもあまり問題にはならないだろう。大都市の直下や津波が発生するような場所(震源の深さ)を予報することが重要となってくる。いつ、どこで、どのぐらいの大きさの地震が起こるかを予報できる可能性については以下の寺田先生の著作を参考にしてみてください(かなり悲観的な意見)。いずれシミュレーション技術が発達し、地球全体のマントル対流の動きがわかるようになると、熱移送説などの理論にあわせて予報のレベルがあがるのかもしれない。
寺田寅彦先生の著作(青空文庫から)
「地震雑感」
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地震の予報は可能であるかという問題がしばしば提出される。これに対する答は「予報」という言葉の解釈次第でどうでもなる。もし星学者が日蝕を予報すると同じような決定的デターミニステイクな意味でいうなら、私は不可能と答えたい。しかし例えば医師が重病患者の死期を予報するような意味においてならばあるいは将来可能であろうと思う。しかし現在の地震学の状態ではそれほどの予報すらも困難であると私は考えている。現在でやや可能と思われるのは統計的の意味における予報である。例えば地球上のある区域内に向う何年の間に約何回内外の地震がありそうであるというような事は、適当な材料を基礎として云っても差支えはないかもしれない。しかし方数十里の地域に起るべき大地震の期日を数年範囲の間に限定して予知し得るだけの科学的根拠が得られるか否かについては私は根本的の疑いを懐いだいているものである。
しかしこの事についてはかつて『現代之科学』誌上で詳しく論じた事があるから、今更にそれを繰返そうとは思わない。ただ自然現象中には決定的と統計的と二種類の区別がある事に注意を促したい。この二つのものの区別はかなりに本質的なものである。ポアンカレーの言葉を借りて云わば、前者は源因の微分的変化に対して結果の変化がまた微分的である場合に当り、後者は源因の微分的差違が結果に有限の差を生ずる場合である。
一本の麻縄に漸次に徐々に強力を加えて行く時にその張力が増すに従って、その切断の期待率は増加する。しかしその切断の時間を「精密に」予報する事は六むつかしい、いわんやその場処を予報する事は更に困難である。
地震の場合は必ずしもこれと類型的ではないが、問題が統計的である事だけは共通である。のみならず麻糸の場合よりはすべての事柄が更に複雑である事は云うまでもない。
由来物理学者はデターミニストであった。従ってすべての現象を決定的に予報しようと努力して来た。しかし多分子的マルティモレキュラー現象に遭遇して止むを得ず統計的の理論を導入した。統計的現象の存在は永久的の事実である。
決定的あるいは統計的の予報が可能であるとした場合に、その効果如何という事は別問題である。今ここにこのデリケートな問題を論じる事は困難であり、また論じようと思わない。
要は、予報の問題とは独立に、地球の災害を予防する事にある。想うに、少なくもある地質学的時代においては、起り得べき地震の強さには自ずからな最大限が存在するだろう。これは地殻そのものの構造から期待すべき根拠がある。そうだとすれば、この最大限の地震に対して安全なるべき施設をさえしておけば地震というものはあっても恐ろしいものではなくなるはずである。
「天災と国防」
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文化が進むに従って個人が社会を作り、職業の分化が起こって来ると事情は未開時代と全然変わって来る。天災による個人の損害はもはやその個人だけの迷惑では済まなくなって来る。村の貯水池や共同水車小屋が破壊されれば多数の村民は同時にその損害の余響を受けるであろう。
二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内きない地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみればこの事は了解されるであろう。
これほどだいじな神経や血管であるから天然の設計に成る動物体内ではこれらの器官が実に巧妙な仕掛けで注意深く保護されているのであるが、一国の神経であり血管である送電線は野天に吹きさらしで風や雪がちょっとばかりつよく触れればすぐに切断するのである。市民の栄養を供給する水道はちょっとした地震で断絶するのである。もっとも、送電線にしても工学者の計算によって相当な風圧を考慮し若干の安全係数をかけて設計してあるはずであるが、変化のはげしい風圧を静力学的に考え、しかもロビンソン風速計で測った平均風速だけを目安にして勘定したりするようなアカデミックな方法によって作ったものでは、弛張しちょうのはげしい風の息の偽週期的衝撃に堪えないのはむしろ当然のことであろう。
それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟ひっきょうそういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆てんぷくを忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜よこはまから鎌倉かまくらへかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。新聞の報ずるところによると幸いに当局でもこの点に注意してこの際各種建築被害の比較的研究を徹底的に遂行することになったらしいから、今回の苦にがい経験がむだになるような事は万に一つもあるまいと思うが、しかしこれは決して当局者だけに任すべき問題ではなく国民全体が日常めいめいに深く留意すべきことであろうと思われる。
「震災日記より」大正12年(1923年)の東京大震災で先生自らが体験した事柄が書いてある。