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愛する理由(?)

先日、つけっぱなしにしていたテレビから流れてきた音楽とその解説が不意に耳に留まった。

曲の名前は「幻想交響曲」で、解説によると、「作曲家のベルリオーズさんは、失恋をきっかけにこの曲を作った」とのことだった。

失恋をきっかけに作った曲が、なぜ「幻想」なんだ・・?と、調べてみた。(Wikipediaの情報を鵜呑みですが、悪しからず)

幻想交響曲(げんそうこうきょうきょく、Symphonie fantastique)作品14(H.48)は、フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズが1830年に作曲した最初の交響曲。原題は『ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲』(Épisode de la vie d'un artiste, symphonie fantastique en cinq parties )。「恋に深く絶望しアヘンを吸った、豊かな想像力を備えたある芸術家」の物語を音楽で表現したもので、ベルリオーズの代表作であるのみならず、初期ロマン派音楽を代表する楽曲である。現在でもオーケストラの演奏会で頻繁に取り上げられる。
レナード・バーンスタインはこの曲を、「史上初のサイケデリックな交響曲」だと述べた[3]。これは、この交響曲に幻覚的、幻想的な性質があり、またベルリオーズがアヘンを吸った状態で作曲した(と本人が匂わせている)ことなどによる。

アヘンを吸って幻覚的だった、らしい。

ちなみに、この作曲家・ベルリオーズさんと、失恋の相手であるスミスソンさんとのエピソードがこちら。

ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている[誰によって?]。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年にローマ大賞を受賞する。

スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエル(英語版)に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得てローマに留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、ニースにたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。

ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう[要出典]。ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由であろう[要出典]。

しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった[3]。さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている[要出典]。また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(「ロミオとジュリエット」の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性である事に気がつき、失望したのだとする説もある[要出典]。2人は1841年頃から別居し、1854年に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。

なかなかハードな方だったようだけど、結果的には失恋した相手と結婚できたようで。よかったね!ハッピーエンドじゃん!

・・とは、あんまり言えないエピソードでした。

「(スミスソンが)女優として下り坂だった(からベルリオーズで手を打った的な)」とか「(ベルリオーズが)彼女が演じる役に惚れた」とか、なまなましいな。

と、最後は余談ではあるけど、そんな一連のリサーチについて、Twittter(リアル友だちしか繋がってないアカウント)でつぶやいてみた。

恋や、愛や、その喪失のパワーって、吐き出さずにはいられないであろう表現につながる爆発的なパワーって、本当にすごいもんだ・・と。

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と、そのときに気づいた。いや、気づいてしまった。

私はここ数年、ずばり恋愛のパートナーがいない。その間にももちろん、仕事とか趣味とか友達とか家族とか、いろいろなできごとがあって感情の起伏もあったけど、なんとなく、「私もすっかり落ち着いたもんだなぁ、大人になったんだなぁ、うむ・・」なんて思ったりしてた。

でも、それはもしかして、私の生活に、恋や愛や、その喪失、というそういうパワーがなかったからなのかも。そういう爆発的なパワーから離れてしまっていたからなのかも・・と。

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最近ちょうど人から勧められた本を読んで、「愛」について考えてた。

そのせいか、恋愛に限らず、「愛」を連想する夢を最近よく見る気がする。

中でも特に印象的で、目が覚めたときにものすごく狼狽えるのは、届かなかったり結ばれなかったりした記憶だ。

「行かないで!」「戻ってきて!」「置いていかないで!」「離れないで!」「他の人と比べないで!」「何でわかってくれないの!」「もっと私を見て!」「もっとあなたを教えて!」「何で私じゃダメなの?」「もう二度と会えないの?」

そんな、記憶。

埋められない痛み、受け入れられない苦しみ、叶わない悲しみ、自分という存在の無意味さ。そんな、自分を分裂させるような体験と感情が、やっぱり強烈に生々しくて、欲望むきだしで、惨めで、憎くて、でもどうしようもなくて、どうにもできなくて。激しい色や音や光を誘って、強い言葉が渦巻いて、何かを叫びたくなる、吐き出したくなる。それしかできない気がする。

そういう、イメージ。

私にとって、それが「愛」の姿なのかな。

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そういえば大学生のころ、同じ学部だった真紀ちゃんと、「人間は(この話のときは、特に恋愛において)相手との間にある真空を埋めようと四苦八苦しているんだ」なんて話を延々としてた気がする。宗教学の、夏の集中講義のあとの、林の中の喫煙所とかで。浮かされながら。

その「真空」のインスピレーションは未だにある。そして未だに、なんて遠いんだ。

最近も、恋がまったくなかったわけじゃない。けど、それはすごくうっすらとぼんやりとしたもので、前にも後ろにも進まない、進めようとしてない感じの類のもので。

そういうのも「愛」なのかな。

四苦八苦して真空を埋めようとする、そういうハードなものにしたくないだけなんじゃないか?がむしゃらな気持ちで、「表現」せずにいられなくなることが怖いだけなんじゃないか?

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ってな感じの一連のつぶやきに、もう何年も会ってない先輩や同級生たちが強く反応してくれて、その日はすごくおもしろい夜だった。

それもまた静かな夜で、無音の部屋で流れる文字を追う、本当にうっすらとしたパワーで、どんな衝動も表現も起こらない。けど、全然悪くない。

でも、「退屈」に気づいてしまった私は、また「愛」を求めるのかな。

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