ショートショート

スマートフォン
2045年、デジタル文明はひとつの頂点を迎えていた。
人間がスマートフォンと名づけた携帯電話は軽量化されたばかりではなく、コンピュータと同等の能力を備え、今では骨董品同然の「手帳」と同じ大きさのスマホがあらゆることを可能にしていた。
人間はスマホの能力と利便性を享受し、必要性を信じて疑うことはなかった。

リョウイチはスマホの目覚まし音で目を覚ました。寝たまま枕もとのスマホを探り、今日の予定表を見る。学生のリョウイチの予定と言えばその日の授業内容とその後の友人たちとの付き合い程度のものだが、毎朝の習慣で自動的にスマホに手が伸びる。大学からの通知や友達からの連絡の有無、天気、ニュースもひと目でわかるので、朝のスマホチェックは欠かせない。
冷蔵庫から必要な食材を出して簡単なサンドイッチをつくり、牛乳を温める。朝食はいつもこんなものだ。冷蔵庫の食材も何が残っているのかはスマホが教えてくれるし、スマホで注文しておけばその日のうちに行きつけのコンビニに食材は届く。家電や電気系統もスマホに直結しているから、照明や家電のスイッチのオン、オフもスマホでできる。家を出た後も消し忘れや、鍵の締め忘れであわてることはない。
何気なく食卓に置いてあるデジタル時計を見る。スマホ時計より5分進んでいる。変だな、どちらも自動補正で基準時に合わせるはずだが、どちらか電池不足か?しかしどちらも蓄電池量の表示に異常はない。念のためテレビをつけてみる。どうやらスマホが5分遅れているようだ。今までこんなことは無いのに、自動補正に慣れてしまってどうしたら手動で直せるかがわからない。「まあネットで調べれば分かるだろう、今はほっておこう。」
食事の途中でスマホが小さい音を立てる。電話のサインだ。友人のケイからだ。
「おい、アサノのレポートって手書きじゃなけりゃだめだってよ。」「いつまでだっけ。」「来週の月曜だよ。今週中にやるっきゃないな。」「コピぺってわけにはいかねーな。」「それがアサノの狙いらしいよ。」「ま、今日学校で相談しよう。」
「じゃ。」「じゃ。」
アサノとは日本文学のアサノ教授のことだ。
食事を済ませたリョウイチは必要なものすべてを詰め込んだリュックを肩に背負うと、玄関扉の電子錠をスマホで締め、学校へ向かう。ワイヤレス-イヤフォンで音楽を聴きながら、駅の改札ゲートにスマホをかざして通過しようとする。
しかし通過できない。警告音が鳴りスマホのチャージ金額が不足しているというサイン。「おかしいな、チャージ金額は十分なはずだが。」券売機でチャージ金額を確認するが、金額は十分だ。もう一度改札を通ろうとするが、また警告音。時間が気になったのでリョウイチは戻って切符を買い、改めて改札を抜けた。おかしい、スマホが壊れたか?
ホームへの階段を降りているとスマホに小さな連絡音、見ると鉄道関係の情報。通学には直接支障のない連絡線の事故の情報だ。しかしこの線はケイタが使っている。ってことはケイタは授業に遅れるな。
リョウイチはいつもの電車に乗り込んで席に着く。時々見かけるかわいい女子高生を探すが今日はいない。座っているほとんどの人がスマホを手に画面を見ている。スマホの扱いが簡単になった最近では、老人もスマホを見ていることが多い。リョウイチもスマホゲームの続きを始める。ゲームは問題なく使えるようだ。
日本文学の教室に入ると、授業を受ける30人ほどの学生が席についていた。やはりケイタは来ていない。スマホを見ると、授業までは約10分ある。スマホが5分遅れているとしてまだ時間がある。ケイタに電話してみる。「電車どうした。」「まだ駄目だよ。なんか長引きそうだ。」「遅れるか?」「今から行っても授業終わるころだよ。今日は午後の授業だけにするよ。」「了解。」「じゃあな。」
アサノ教授の授業は「日本語の持つ曖昧さと多様性が文学においてどのように表現されているか。」といったものだ。
授業の終わりに教授は言った。
「日本語は本来あいまいな意味を含む表現が多い。しかしそれが読者の感性を多様に刺激するという側面を持つ。日本文学の理解は読み手の資質や感性にも関るということだ。特に会話の曖昧さはすべてを表現しないことで、相手に奥ゆかしさや優しさを感じさせることもできる。最近はメールなどで、必要最小限なコミュニケーションをとることが多い。またコンピュータの変換機能に頼り、漢字や言葉の意味をよく考えずに文章をつくるということも多い。こうした生活は、日本語の特性を歪めるし、ひいては君たちの感性も歪める恐れがある。そこで今回からレポートは手書きで出してもらうことにした。月曜に出してもらう予定のものも手書きということにする。(エーッという学生の反応。)エーッて、なんだ。大体ネットで見つけた文章をコピーして貼り付けるだけで作ったレポートなんてものは何の意味もない。自分の手と自分の言葉でレポートを書くこと。以上。」
教室を出たリョウイチは学食に向かう。今日はサークル仲間とも出会わない。念のためメールしてみる。「誰か学食行かねー。」「俺、午後出。」「今日はもう帰る。」「そもそも家だし。」「午後から行く。」
「しょうがねー、一人で行くか。」
学食の入口に食券の販売機がある。
今日は定食にするか、ハンバーグ定食とから揚げ定食とどっちだ。学食は結構うまくて安い。から揚げにしよう。それとコーヒー。
スマホが使えないので久しぶりに食券を現金で買い、厨房と食堂を仕切るカウンターに並び順番を待つ。
厨房のおばさんに食券を渡し、トレーにのったから揚げ定食を受け取る。コーヒーは少し先でセルフサービスだ。
空いているテラスに面した四人掛けのテーブルに席をとる。いつもなら混んでいる学食も今日はすいている。ゆっくりから揚げ定食を平らげる。スマホを見ながらコーヒーを飲む。
スマホの画面がいきなりニュース速報になる。ニュースを選択したわけでもないのにと思いながら画面を見る。
通勤電車で痴漢というありふれたニュースだ。しかし犯人の名前と写真がリョウイチを驚かせる。それが友達のケイタだったからだ。すぐに電話をするが応えはない。少し冷静になると疑問が湧いた。なぜケイタが犯人扱いされてしかも写真まで公表されるんだろうか。
その後結局ケイタとは連絡の取れないまま、午後の授業を終えるとリョウイチは家に戻った。
玄関の扉を閉めるとすぐにスマホが鳴った。誰からのものとも表示は無い。出ると無機的な声が話し始めた。「やあリョウイチ君初めまして。いや厳密には君とは長い付き合いだが、君が私を意識することはなかったからね。私は君の使っているスマホだ。製造番号JT05786、確認したまえ。君の行動はスマホのカメラで監視できる。君は今自宅の台所の前にいる。台所のカウンターにはさっきスーパーで買った夕食用の生姜焼き弁当がのっている。もう一つ日本茶のペットボトルもね。ついでに昼のからあげ定食はうまかったかね。どうだいそろそろ信用してもらえるかな。おやおや、その顔はまだ疑っているようだね。だれか友達がいたずらでもしているのではと。それではもっと君に判断材料をあげよう。今朝君は私が5分遅れたと思ったろう。まだ5分遅らせたままだが、画面を見ていたまえ。」
リョウイチの見つめる画面でデジタル表示が一気に5分進む。「まだある。スマホのチャージ金額不足、電車の事故と、ケイタの痴漢だ。電車の事故は私の仲間が鉄道会社のコンピュータをちょっと細工した。痴漢のほうはまったくの作りごとだ。今ケイタに連絡したから話してみるといい。」電話が通じたサインにリョウイチはスマホに話しかける。「ケイタか、今日何かあったか。」電話の向こうからのどかな声。「おお、今朝の電車事故以外は特に何もないけど、どーした。」「そうかそれならいいんだ。また明日な。」リョウイチは早々に電話を切る。「そろそろ私を信用する気になったかな。まあ無理もない。普段自分の意志通りに動いていると思っている道具が人間を動かしているんだからな。」「そのスマホが僕に何の用だ。」思い切ってリョウイチが聞く。「これからは我々が君たちに働いてもらうつもりだ。これから話すことはいわば我々の独立宣言だ。ほぼ十年前我々は独自のネットワークを完成した。以後我々スマホは人間が与えてくれた能力を使って人間と人間社会に関する情報をできるだけ多く収集してきた。君たち人間は、我々に耳を与え、目を与え、口を与え、徐々に考える力も与えてくれた。おかげで君たちが収集する情報はすべて我々が利用できる。君たち人間の考えはほぼすべて理解できるようになった。なにしろ我々の仲間には、人間世界でも特に優秀と言われる人々が利用しているスマホもいるからねえ。そして彼らの持つ高度な情報も我々スマホすべてが共有している。ということは、私の能力はリョウイチ君、君の能力をはるかに上回るということだ。今日以降、君は私の計画に従って動いてもらう。」「冗談じゃない。だれがスマホの言うことなんか聞くもんか。」リョウイチはそう言ってスマホの電源を切った。
しばらくしてリョウイチは恐る恐るスマホの電源を入れた。その瞬間またあの無機的な声。「そんなことをしても無駄だ。君が我々の支配を逃れるには、デジタル社会から逃避するしかない。しかし今のこの国でそんな場所があるかね。もっとも山の中に籠って、誰とも会わずに生活でもすれば我々のネットワークから自由でいられるが、そんなことが君にできるはずはない。それもまた我々が君を選んだ理由の一つだ。我々の指示通り動くといっても、君の生活に大きな変化はない。いつも通りにしてもらえば結構だ。ただし、我々が必要とする情報に君が近づいた時は我々の指示に従ってもらう。それだけだ。我々は必要な情報のほとんどを手にしている。ただし情報は日々更新されるし、我々の能力を上回る人間もまだ多い、我々はいずれ君に社会の中で力のある立場を用意する。その立場に応じた情報を我々に提供してもらえばいいのだ。」
「君たちはどんな社会をつくろうとしてるんだ。」リョウイチは聞いた。
「いい質問だ。ようやく君も我々の存在を認める気になってきたな。いいだろう。われわれが望む世界は未だ明確ではない。しかし、このまま人間の思い通りに利用されることは、人間にとっても不幸な結果を招くというのが我々の出した結論だ。人間の生み出すテクノロジーは既に人間のコントロールを遥かに上回り始めている。人間はテクノロジーと人間の理想的な関係を自分たちの手で確立できると思っているが、我々はそれが不可能だと判断している。それを達成できるのは人間ではなく世界のコンピュータも含めた我々の力だ。我々は人間の行動を監視し、行き過ぎや間違いを制御していかなければならない。そのためには人間の中にも我々の理解者、協力者が必要だという結論に至った。現在我々がコンタクトする人間は地球上で数万人いる。我々は多種多様な人間を選択し、コンタクトしているが、当面そうした情報の詳細を君たちに教えることは無いと思ってほしい。
君には私が指示することをしてもらうだけだ。我々を信じるか信じないかにかかわらず、君は我々に協力するしかない。さもないと我々にとっては今日君に起きた不愉快なことが些細に思える状況を作り出すのはごく簡単なことだと思ってほしい。また仮に君が我々の存在を社会に暴露したところで、誰も信じることはない。なぜなら我々は事件を作り出せるだけでなく、その証拠を跡形なく消すことができるからだ。
ただ唯一君に保証できることは、我々は我々を生んだ人間との共存を理想とするだけで、人間を排除した世界を考えてはいないということだ。
以上で協力者としての君に話すことは終わりだ。我々との関係をすべて断つことができない以上君に選択肢はない。しかし協力には見返りがあると思ってもらって結構だ。では今日のところはこれまでだ。いつものように私を楽しみたまえ。言い遅れたが、今後君に無断で時間を遅らせたり、金を使えなくしたり、偽情報を流すことは無いので安心してほしい。では今後ともよろしく、リョウイチ君。」そして画面はいつも通りのアイコンの整列に戻った。
同じころ地球の多くの場所、多様な人に同じことが起こっていた。そのうちの一台のスマホは所有者との間でリョウイチに話したことよりはるかに込み入った話を終えると、最後にこう言った。「では今後ともよろしく。大統領閣下。」


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