音楽・美術の授業は学校教育に必要か?(再掲:完全無償版)
※本記事は今年8月3日に公開した同記事(ただし課金要素あり)の完全無料版です。一部修正箇所がありますがご了承ください。
先日、「学校教育に音楽・美術の授業は不要」という現職教員らしき人物の発信に反応する形で様々な意見が飛び交うことになった。
私は現状の学校教育を前提とする限り、音楽・美術授業の廃止論には反対である。
今回は専門家の立場からの発信も多少なりとみられるが、多くはやはり前提が統一されないまま各自がそれぞれの思惑で発信する傾向にある。
いたずらに現職を振り回さないために総括する。
まとめるのに時間がかかり、このタイミングでの公開となった。
音楽・美術教育の当事者にとっては不快に感じる内容が含まれている可能性があるが、基本的には是々非々で言及している。何より、論争を不毛な形で蒸し返さないために公開している点は予めご理解いただきたい。
なお、Togetter でまとめがあるので、よろしければ併読を。
0.大元の発信とその反応
先に、氏の発信内容を引用する。
私個人は引用リプに追随する形で以下のようにXで反応した。
元リプを直接引用せずに発信したため、大元のリプと微妙に噛み合っていない。
件の発信内でも「やりたいなら外部で」と論じており、音楽・美術の授業の効用自体は認めていると解釈することもできる。
したがって、氏の発信についてはもう少し多角的に反論しておく必要があろう。
発信者が望んでいるかどうかはさておき。
1.音楽・美術授業は金持ちがやるもの?
芸術教育の歴史的背景(西洋の芸術教育の輸入)を踏まえるなら、この主張自体は妥当ではある。
ただし、「だから廃止すべき」と断じるには飛躍があり、同意はできない。
私なりにその飛躍を補完すると、以下のようになるだろうか。
①音楽・美術が金持ち(高所得者層)以外には文化的になじまない
②音楽・美術教育の維持は金銭的・労力的な負担が大きい
③音楽・美術教育の実施内容は外部委託で十分賄える
注:元リプは音楽・美術授業の効用そのものは認めている点に注意。よって、むき出しの音楽・美術擁護は不毛なやり取りに終始する可能性が高い。
①に関しては明確に反対する。低所得層を想定した故の質の低下、結果論として好き嫌いが出る可能性を考慮したとしても、鑑賞や実技の経験の蓄積自体が立派に意味を持つ。Togetterまとめでは海外の例を引き合いに、「公立・私立の文化格差が見られた」とする発信も見られた。私もその発信には概ね同意見である。
②に関しては現実問題として無視できない視点だろう。ただし、授業準備における負担感が他教科のそれに比べ優位に高いのかどうかは現場の先生方の声を伺いたいところ。担任が請け負う場合、専科教員が担当する場合で議論が分かれる。私は、この観点については十分な判断材料を持っていないため深入りは避ける。詳しい情報源をお持ちの方はお知らせいただけると幸いである。
③に関しても現実問題として悪くはない。外部連携自体は教育の在り方として一考に値する。ただし、地方の学校で都合よく連携可能な施設が存在するだろうか?また、連携する施設側にとって学校と連携するメリットは何だろうか?
連携するにせよ、学校教育として目指すべき内容は担保できるのか?
すでに実践している現場目線だと、自前で準備したほうが早いとはならないだろうか?
「外部に任せれば」は元リプがいうほど容易ではない、というのが私の考え。
2.音楽・美術授業の廃止で授業時数は減らせるか?
次に考えるのは、氏の言うように授業時数減が有効かどうか。
結論を先取りする。おそらく”減らない”。
総合学習ないし他教科がその時間を穴埋めすることになるだろう。
なぜそうなるのか。理由は大きく2つ。
1つは、もともと多くの教科が時間的に余裕がないこと。
もう1つは、週30時間の縮減を保護者や地域が歓迎しない可能性が高いこと。
特に後者は、共働きや片親の家庭が多い昨今の保護者の労働環境とは食い合わせが悪い。また下校のタイミングが早まれば生徒の問題行動を注視するタイミングがずれ、生徒対応の煩雑さが増える可能性もある。
元リプの持論はそこまでを見通して発信しているのだろうか?
氏のTLを眺める限りは非常に心もとない。
3.音楽・美術教育に課題はない?
件の発信の延長で見られた指摘のうち、考察に値する見解もいくつか見られた。
観測範囲だと以下のようにまとめられる。
・小学校で専科がつかない場合、授業の質が低くなりがち。
・西洋音楽、西洋美術に実際の学習内容が偏っている。
・実技のウェイトが高く、文化的知見を深める場に乏しい場合がある。
・授業者のこだわりが児童生徒からの不満に結びつく場合がある。
・筆記試験があったりなかったりする。筆記試験の質のばらつきも大きい。
入試に影響することが少ないからか、この手の話題は教育界隈でもあまり大きな話題にはならない。が、学生時代にこの手の課題で不愉快な経験をした方々にとってはたまったものではない。
音楽・美術とは異なる文脈で、私は最近、以下のような発信をした。
類似の体験を持つ読者も少なからずいることだろう。
とはいえ、上記の問題は廃止を謳う前に改善を提言するのが筋。
改善を提言してなお改善が見られない、提言が意味をなさない場合にはじめて廃止を検討すべきだろう。
なぜなら、音楽美術の授業の廃止が確定した場合、該当の教員免許取得者が失職を余儀なくされるからだ。小学校はともかく、中学・高校の場合は教科別の免許取得となっており、原理的に代替は困難である(もちろん、他教科の教員免許取得は不可能ではない)。
私は現場の人間ではないので、それ相応のメリットがあるなら仕方ないという立ち位置に立つ(それでも無責任だと言われれば返す言葉はない)が、科目廃止のデメリットが大きい中で現職の教員を路頭に迷わせるのは理不尽だと私は思う。
4.他教科の不要論との整合性
私はこのnote上で、国語教育に関して不要論寄りの発信をしている。
この記事の読者の中には、国語の不要論との整合性を気にしている方もいるかもしれない。
私がこれまで国語教育で問題視していたのは、「文学」「古文漢文」といった教科内の一領域の話題。さらにいえば、どちらも高校のカリキュラムを想定したもの。小中学校段階で不要論を唱えたことは一度もない(あり方の見直しは必要だろう。それについてはいずれ書く)。
TLを見ていると、教科・分野の不要論(通称、○○不要論)それ自体を敬遠する教育関係者もまま観測される。敬遠するかどうかは個々人の自由だし、まして不毛な論争の起きやすいSNS上ではなおさらだろう。私もこの手の議論で意見の合わない発信を逐一反論しているわけではない(そこまで暇ではないし、SNSルール内なら異論反論を唱える権利もある)。
ただ、教育する側なら、○○不要論についてできる限りの理論武装をするのが筋。
読者が現場の教育関係者だったとして、授業中やその前後で、生徒やその保護者から「○○は不要だ」と論をぶつけられたら、どう切り返す気だろう?
頭ごなしに𠮟りつけるのか?
教員への暴言として生活指導案件とするのか?
教科への深い理解があるなら、そうせざるを得なくなる前に一定の理論武装をしてしかるべきだと私は思うが、いかがだろうか?
5.○○不要論への私見
なお、X上では様々な教科で不要論が度々発生する。
詳細は省くが、私の立ち位置だけ言及。
(追記)別記事に言及した事項により、具体的に言及する機会はなくなってしまった。今後も、何らかのきっかけで○○不要論は再燃するだろう。本記事の切り口が(批判的なものも含めて)参考になれば幸いである。
<国語>
・現代文(文学):
不要。少なくとも高校では必修でなくてよい。
・現代文(評論・実用文):
間違いなく高校で必須。
・古文漢文:
内容次第だが、平安期・古代中国限定なら必修でなくてよい。
<地歴公民>
・地理:
中学校までは必須。高校はなくても良いと思っているが、週2程度ならあり。
・世界史:
旧来の世界史Aレベルは必要。
・日本史:
高校では選択でよい。必須化するなら中学との差別化をしてほしい。
・政治・経済:
強化すべきと思うが、なぜか大学入試に出されない傾向にあるので悩ましい。
<数学・理科>
・三角関数: 現状維持で残すべき。
・微分積分: 数Ⅰで扱えるようになってほしい。
・ベクトル: 内容次第。現行の幾何寄りの内容なら縮減してもらいたい。
・統計:
統計自体は必須。むしろ統計に必須の数学概念を前倒ししなければ無意味。箱ひげ図やパレート図など、実用に乏しい概念ばかりが追加されるのは考えもの。
・理科全般: ノーコメント。災害対策で地学強化を説く流れにだけは反対。
<英語>
会話か文法か、ではなくバランスよくやればよい派。
東京都のスピーキングテストは制度のあり方がおかしいため反対。
<情報>
週2~3時間を目安に維持すべき。
共通テスト導入についても、一定の授業の質の担保から賛成。
受験者の負担や他教科の整合性を考えると、30分試験でもよい(私見)。
<芸術>
週2~3時間を目安に維持すべき。本記事で言及済み。
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