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【尾瀬の歴史】”木道“のはじまり
尾瀬と言えば、ミズバショウとともに思い出されるのが「木道」ではないでしょうか。
湿原を歩き易くするために考えられた木道は、貴重な植物を守るためにも設置され、さらに現在では尾瀬の風景の一部にもなっています。
本記事では、そんな尾瀬の「木道」の歴史についてご紹介します。
※本文中の所属・肩書・役職等は全て書籍に記載された当時のものです。
木道のはじまり
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尾瀬における木道の始まりは、1952(昭和27)年に前橋営林局山口営林署(現・関東森林管理局会津森林管理署南会津支署の前身)の吉成一郎技官が発案した「特殊歩道」を尾瀬沼畔の大江湿原に設置したことが始まりです。
そのきっかけについて、書籍では次のように紹介されています。
この前年の(昭和)26年、林野庁から局長、部長クラスが尾瀬を視察に訪れたのが、木道誕生のきっかけになった。視察があったのは、ちょうど7月の梅雨のシーズン。雨期の湿原を歩くのは、泥田の中をはい回るようなものだ。全員、腰までつかったり、転倒したり、散々な目にあった。
当時、山口営林署技官として視察の案内をしたのが現在、栃木県日光市に住む吉成一郎さん(56)。
「これはひどすぎる。何とかもっと快適に歩ける方法はないのか。」
(中略)
翌27年から3年間「特殊歩道」の名目で、毎年100万円の予算がついた。「当時は、一口に尾瀬3万人(年間)といっていたもんですが、湿原でドロドロになる登山者の不満がようやく強くなりはじめた。とくに年配の方の中には、もう尾瀬はコリゴリ、という人が多く、こりゃ何とかしなければ、と思っていたところでした」と吉成さん。
その後1958(昭和33)年には、尾瀬林業株式会社(現・東京パワーテクノロジー株式会社環境事業部尾瀬林業事業所の前身)によって、尾瀬ヶ原に丸太木道が約3kmにわたり設置されています(※1)。
※1:尾瀬林業株式会社(2001).『創立五十年史』.尾瀬林業株式会社
木道がなかった頃の尾瀬
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この写真は、木道がなかった頃に、ぬかるんだ湿原に足を取られた方をグループの方が助けている様子です。
当時の湿原の歩きにくさについては、「木道のはじまり」でご紹介した話のほか、尾瀬の先人たちの体験談が様々な書籍で紹介されており、当時の苦労が偲ばれます。
昔その木道がなかったときは、わらじばきでひざまで水につかり、泥まみれになって湿原を探勝した。
益子昌(1978).『小屋主の語る尾瀬の秘話』.共同印刷株式会社
ぬかるみを歩くので、泥炭の汁が衣服にしみついて、洗っても洗ってもとれなかった。
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また、尾瀬の木道の始まりは1952(昭和27)年の大江湿原であるとご紹介しましたが、この写真のとおり、当時はまだ「木道」の位置付けではなかったのかもしれませんが、1952(昭和27)年以前から丸太のようなものが設置されていた場所もあるようです。
他にも書籍では次のことが記載されています。
木道の"先駆”として昭和9年、朝鮮の李王殿下が尾瀬に来たとき、尾瀬沼-尾瀬ヶ原の悪路の一部に丸太を渡したことがあった。また、土地の人は古くから川に丸太を渡し、湿原のぬかるみに木の枝を束ねて並べていた。これが木道の起源といえるかも知れない。
初めの頃の木道
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この写真は、木道が設置されたばかりの大江湿原の写真です。単線の木道では、すれ違う際にどちらか一方が湿原に下りなければならない状況でした。そのため、昔はジャンケンでどちらが下りるか決めていたこともあるようです。
今の木道は人がすれ違えるように2本の板が並行に敷かれているが、当初の木道は1本だけだった。前からハイカーがやって来ると、どちらが道を譲るのかをジャンケンで決めて、負けた方が木道を降りるというルールがあった。尾瀬ヶ原を渡り切るまでに何度も何度もジャンケンをしていた。
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写真を見ると、木道の設置が始まったとは言っても、まだまだ自由に湿原を歩いている人が多いことが分かります。その理由としては、単線の木道ですれ違いが難しかった、また現在のように木道の上を歩くという意識や重要性が十分に定着していなかったことが考えられます。
写真中央下にある黒くなった湿原は、登山者に何度も踏まれたことで湿原が壊れてしまった場所です。木道を歩くことが定着した現在では、こうした場所は見られなくなっています。
現在の木道
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現在は、多くの場所で複線の木道が整備され、その工法などにも様々な工夫が見られています(ワイド木道、高架木道、組み合わせ方など)。ぜひ尾瀬を訪れた際は、そんな工夫にも着目していただけると嬉しいです。
また、木道はそれぞれに管理者が決まっており、それぞれの管理者によって定期的に整備されています。
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こうした尾瀬に欠かせない木道ですが、車が入れない尾瀬では、運搬をヘリコプターで行うなど、整備に多くのお金が必要になっています。
インフレのあおりで、木道の建設コストも年々上がる一方だ。たとえば34年、群馬県が竜宮-山ノ鼻に敷いた木道は1メートル5百円ですんだのに、現在は1メートル8千円から1万円。間もなく「ひとまたぎ1万円」を超えるだろう。
木道整備のコストについては、近年では1メートル20万円とも言われており(※2)、この約50年でコストがどれだけ上がっているのかお分かりいただけるかと思います。こうしたコストの問題は、木道整備を進める上で大きな課題になっています。
その他、山の中での力仕事ということもあり、木道整備の担い手確保なども課題になっています。
※2:環境省(2024).第22回尾瀬国立公園協議会議事録
こうした課題を踏まえ、近年新しい検討や取り組みが見られるようになっていますので、またどこかの機会でご紹介させていただきたいと思います。
今後も尾瀬に関する様々なことをご紹介していきますので、ぜひ「いいね」「フォロー」をよろしくお願いします。