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「尾瀬歴史文化圏」を考える① ~山小屋の足跡をたどる~

はじめに

いつから尾瀬はたくさんの人が訪れるようになったのでしょうか。

古くは江戸時代から続く会津沼田街道による交易と、地元民による釣りや狩猟の場として発展しました。
明治時代に入り、利根水源探検隊や銀山平探検隊が尾瀬を訪れると、日本の登山文化黎明期に活躍した小暮理太郎や武田久吉、大下藤次郎らが尾瀬を広く紹介しました。
大正時代には学生山岳部の尾瀬山行やツアースキーが盛んに行われ、徐々に尾瀬が知られるようになります。

時代は進み、戦後の日本でNHKのラジオ歌謡にて「夏の思い出」が放送されると、作中に出てくる尾瀬の人気は飛躍的に高まり、一大ムーブメントを巻き起こす事になります。
一方で谷川岳を代表するような先鋭的な登山をする者も増えた事から、山脈や谷筋を繋いだ大縦走の先に尾瀬へ到達する、挑戦的な山行も行われました。

それら人々の足跡を辿ると、尾瀬を中心に半径25km圏内に表れる秘境エリアと大小かき集めた山塊が見えてくる。
これらを繋いだ人々の往来を「尾瀬歴史文化圏」と名付け、どんな道のりを辿って尾瀬に行きつき、または通過したのか、先人たちの足跡を辿ってみよう。


山小屋の足跡をたどる

2023年現在、尾瀬にある山小屋は尾瀬沼3軒、見晴6軒、赤田代1軒、竜宮1軒、山ノ鼻3軒の計14軒が営業している。
それぞれ民間、村営、TPT(旧尾瀬林業)の山小屋が各エリアに軒を連ねるが、今回は福島県側、檜枝岐村がルーツになる山小屋に焦点を当て、尾瀬と檜枝岐の関りからどうやって山小屋として発展したのか、歴史の一部を紐解きたい。

丸屋のお話し

檜枝岐村の前村長、星広一さんが営む旅館「丸屋」に明治29年から42年までの宿帳が残っている。宿泊した人々は油商人や薬売り、鉱山職人、屋根ふき、養蚕、馬の仲買人などさまざま。 その出身地は県内はもちろん、群馬、青森、新潟と幅広い。ちょうど、じょうごに入れた水がすべて小さな口に集まるように、沼山と三平峠の双方から人と物資が狭い尾瀬の道を通って交流したことになる。街道は悲しい歴史の舞台にもなった。戊辰戦争の際、会津藩が檜枝岐村から尾瀬を越えて片品村に出兵、戸倉集落を焼き打ちした。 広一さんの大祖父・仙三郎さんはこの時、会津藩からの頼みで、尾瀬の峠道を 案内した。後に仙三郎さんは、ひ孫の広一さんに、こう語ったという。「沼田街道を通じて戦争前から戸倉の人たちと行き来していた。だから、戦いとはいえ、とてもせつない気持ちだった」。

燧ヶ岳百年 遥かな尾瀬(1990年)

長蔵小屋の初代主人である平野長蔵氏が燧ヶ岳に初めて登頂した明治23年(1890)から百年を記念して刊行された「燧ヶ岳百年 遥かな尾瀬」
福島民報社による取材から記事にまとめたもので、その中でも上述の文は一番古い口承にあたる。
会津沼田街道は江戸時代に始まり、明治の中頃まで続いていたという。会津からは米や酒、沼田からは塩や油を運び、現在の三平下で交易が行われた。
この交易は直接顔を合わせて取引が行われるわけではなく、それぞれが持ち寄った物資を降ろし、置かれている荷物を積んで帰るという完全な信用取引で成り立っていた。
また、運ぶものは物資だけでなく人の往来も盛んであった事が読み取れる。

燧岳信仰

「父・長蔵は明治三年八月十日、福島県南会津郡檜枝岐村に生まれました。十歳の時に父親を失い、小学校は三年までしか行けませんでした。向学心の強い父は後々まで、残念だった、と言っていました。当時、正月になると軍書読みが流行して、大人の仲間に入れてもらえませんから、窓の外に立ってじっと聞いていたということです。子供心にも、父がいたならば、と思ったそうです」 と長英さんは、父を語る。
檜枝岐村については、かつてここを訪れた深田久弥氏に、村人は「日本一の山奥の村落だ」と語ったという。 水田を持たぬ寒冷地で、四方を山に閉じ込められた秘境であった。
長蔵さんは兄弟三人の末弟で十六歳で分家、独立して山仕事や百姓をしていた。このころ「上州の国見をする」と檜枝岐村から沼山峠を越え、尾瀬沼の東岸沿いの道を三平峠に抜けて群馬県側に出ている。この会津沼田街道は、かつて会津と上州の交易の道で、中間点の尾瀬沼畔に物資交換の小屋が設けられていたというが、長蔵さんの歩いたころは、すでに廃れていたはずだ。群馬県側の最初の村落のあった利根郡片品村戸倉まで、夏道で一日の行程であった。
長蔵さんは「国見」という言葉を好み、国内各地をよく歩いている。新しい社会の情勢に詳しい村の新知識だった。
この旅行で見た燧ヶ岳の印象が強く残り、十九歳、明治二十二年八月に一念発起して初めて登頂し登山道を開いた。明治末年に長蔵さんが記した「嶽開山実記」によると「往古ヨリ数々信者敬神者登山セントスレ共風雨烈シク登ル事出来ズ、人跡ヲ絶頂ニ見ル事能ハザル霊山夕リ」とある。燧岳は檜枝岐村に鎮座する産土神であった。 この年九月二十四日、再び群馬県側の信者ら三十人と登頂し石祠を建祭している。
翌二十三年正月四日、「丈余ノ雪中ヲ越シ」て「道徳高キ人タル」 信濃国福島町の中村神平が滞在している群馬県片品村を訪ね、その門下に入った。さらに沼田在の神道家に紹介されて神習教教師となり、燧嶽教会を開設、営林署から尾瀬沼西岸の沼尻の地所五反歩(約五千平方メートル)を借りて参籠所三棟を新築したのが同年八月一日のことであった。村中の各戸から白米四合ずつを献じてもらい、八月の十日に初めて祭を催した。今でも長蔵小屋では、この日に山頂で日の出を迎え、赤飯をたいて祝う習いで、かつては通りがかりの登山者にも赤飯を供していたという。
<中略>
しかし、信仰の山の生活も村人の反対で断念しなければならなくなった。「神官が宮に奉職すれば、熊やカモシカが獲れなくなる」と村の有力者が 「流言」し、僧侶を招待して山神講を催すという事件が起きたため、長蔵さんは「ソノ原因ノ了解ニ苦シメリ」と思いつつも、社掌の体面に恥辱を加えられた、と辞任している。それ以後、燧岳に参拝する人もなく、拝殿は岩魚釣りの漁師の小屋に変じたという。この事件から約十年後の明治三十八年夏、尾瀬の紹介者でもある植物学者の武田久吉博士が訪れ「広さ畳十枚程度、床あり、炉あり、正面の段に嶽神社を祀る」と書いている。また羽目板に爆嶽探検何某と余地なきまでに楽書がしてあったとも記しているから、長蔵さんが山を捨ててから十年の間に、登山者も漸増していたといえそうだ。

尾瀬 —山小屋三代の記(1984)
後藤允

本書は長蔵小屋の三代目・平野長靖氏の高校同級生だった著者が長蔵小屋の歴史、並びに尾瀬の、日本の自然保護の歴史を描いた名著である。
長蔵小屋三代に渡る自然保護の歴史について、ここでは記述しないが、その始まりは初代・平野長蔵氏の燧ヶ岳信仰にあった。

明治22年、信仰の山として燧ヶ岳を開山し、現在の沼尻オンダシ沢付近に参籠小屋を建設したが、明治27年に村の反対で下山を余儀なくされる。このあと尾瀬へ行く事は無くなり、村で養蚕事業に着手するが、村人との軋轢は増すばかりで、明治37年に現在の栃木県日光市今市へ転居する事になる。
その後、尾瀬に戻る事になるのは明治43年の事であった。

また、本文に沼田街道の交易が既に廃れていたと記載があるが、前述の丸屋旅館の宿帳に明治29年から明治42年にかけて商人が往来している事を考えると、物資交換の小屋はともかく街道としての機能は失われていなかったと考えられる。

明治二十年頃の尾瀬の状況

予の初めて尾瀬を訪れしは明治二十年末の頃であつたが、二十何年であつたかは今日では委しいことは既に忘れてしまった。其の目的は岩魚釣であつた。其の頃は尾瀬を訪れる者は冬は狩猟、夏は岩魚釣の外僅にシナの木の皮を剥ぐものが融雪期に行く位であった。
秋になると山鳥を獲るものが一人か二人位行く位であつた。従って路とても沼尻より今日の路をたどったのであるが、道とは名のみで笹が身長よりも長く茂ってヤッと通行するようで、今日の燧裏林道等はなく、只春猟師は今日の裏林道の辺りを尾瀬へ往復したとの事である(融雪期には潅木、薮等は雪の下敷となり、雪は日光のため表面のみ融けヌカルこと少く、村では堅雪といって遠望もきき遠征するに最も適当である。故に猟等には新潟県、群馬県等、実に十数里の険路を踏破して遠征した。)
小屋は今日の檜枝岐小屋の所に一つあるのみ、それも不完全のもので飲食物は勿論寝具まで携帯せなければならなかった。
<中略>
明治二三十年頃は、尾瀬の乾岩魚は美味でないとして皆にきらわれたものであるが、其の不味の原因は、察する所捕獲者が少数で魚類は非常に多く繁殖し、食餌少く脂肪分の少いためだといふ事が明かとなった。今日は以前とは相反し捕獲者多く、食餌も豊富のせいか尾瀬地方の岩魚は脂肪に富み、檜枝岐川の岩魚よりも却って美味のものとなった。以前は尾瀬地方にて捕れた岩魚は檜枝岐に持ち帰り、更に群馬県及び南会津津郡田島地方に移出されたものが、今日は其反対に檜枝岐地方で捕れたものが尾瀬地方に送られるに至った。 只今は元檜枝岐の人で戸倉へ養子となった末吉という老人が、夏中尾瀬にあって捕獲して需用を満たして居るが、とても需要に応じきれない有様で、何とか養魚の方法を講じて需用を満たしたいと考へて居る。
<中略>
狼も明治初年には居たとの事であるが、今日は棲息するや否やは不明なるも、時には栃木県方面から鹿を迫って来ることもたまにはある様である。予も七八年以前栃木県界附近にて其の足跡を見た事があった。
猪は徳川時代には多数棲息せしも、明治の初年、未だ栃木県地方へ移住せざる前に大降雪があった時、大略捕殺されたそうであるが、今も少しは居ることもあるときいている。
カモシカは檜枝岐ではクラシシという。岩を檜枝岐ではクラといい、クラシシはクラに居るシシの意である。
クラシシは大正十三年から捕獲を禁じ保護することとなったので、尾瀬地方には多く棲息し、殊に利根の水源地方には多く繁殖したという。
猿は人類が山奥まで入り込むに従って次第に希少となった傾がある。今日でも栃木県界鬼怒川の上流地方には多く棲息して居るが、中々狡猾で猟師も捕獲することが容易でない。

檜枝岐道物語(2012)
星大吉 述

檜枝岐道物語は檜枝岐前村長である星光祥氏著書。檜枝岐村へ通じる道を題材にした本で、先人たちが発表した文章を抜粋し、まとめている。
星大吉氏は檜枝岐村に生まれ、福島師範学校で学び、生物学教師であった根本莞爾に感化され植物に興味を持った。
明治期に尾瀬を歩きナガバノモウセンゴケを発見し、牧野富太郎に送り命名された。また檜枝岐村の固有種でもあるアンドンマユミを最初に発見した人物としても知られる。

こちらの文章は当時の尾瀬の状況がよく分かるもので、会津沼田街道として尾瀬は交易の場だけでなく、また、平野長蔵氏による開拓が全てでは無く、檜枝岐の人々にとって、生活の場として「尾瀬」があった事が分かる。

また、絶滅種のニホンオオカミや今に繋がるシカの移動経路に至るまで記述されており大変興味深い文章である。

尾瀬の父武田久吉初めての尾瀬(明治三十八年)

七月九日 寒さが身にしみて目が覚めた。すばやく小屋の前の流れで口を漱 (すす)ぎ食事の準備をした。そして身支度を整えて朝霧の尾瀬ヶ原の前に立った。
至仏山の夜明けの姿に感動した。朝日が次第に残雪を紅色に染めていった。「その神々しさ、拙い筆では表現できないが、ともかく筆を執ってその姿を写した」。本文のこの箇所に至仏山の頂の簡単な素描が載っている。そこに小さな残雪がいくつか描かれていた。
下田代を出てブナ林に分け入った。朽ちた大木を跨(また) ぎ暗い中に白いゴゼンタチバナを見て、ツガなどの巨木の間を登り、四㎞ほどでミズゴケの原に出た。 急に目の前が開けて小さな盆地に出あうと白砂湿原であった。ここまで沼尻川(ぬしりがわ)に沿って登る微かな径に、人の気配を感じた。そこからほどなく沼尻平である 。
<中略>
彼らは尾瀬沼に出て当時「堂小屋」と言われた長蔵連の建てた小屋に立ち寄った。それは小川に面した所にあった。小屋には鍵が無かったのか中の様子が記されていた。それは畳一〇枚も敷かれる程度で床、炉もあり祭壇があった。燧ケ岳信仰の登山道がここから始まっていた証であろう。壁には余地の無いほど住所や句など書かれてあったが、それでもかれらはそこに名前を書いた。
尾瀬沼を北側から回り沼田街道に出て沼山峠に着いた。沼山峠から栃木県の栗山村を経て日光湯元へという考えがあった。しかし帰る時間を考え三平峠を越え大清水に下ることにした。
沼田街道を戻った。途中尾瀬沼の側の街道で県境の標木を見つけた。そこには檜枝岐へ四里三四町、戸倉へ五里一〇町となっていた。沼を前景に燧ケ岳を望んで、久吉は登山道が廃道になってしまった燧ケ岳の開山を思っていた。後に開山の主の平野長蔵と交際を始めるなど思いもよらない事であった。

檜枝岐道物語(2012)
宮沢邦一郎 述

武田久吉はイギリス外交官のアーネスト・サトウを父に持つ植物学者、登山家である。尾瀬のみならず日本の山岳史の中心人物であり日本最古の山岳会である「日本山岳会」創設者の一人。
こちらの文章では初めて尾瀬を訪れた際の情景を宮沢邦一郎氏が分かりやすく記述している。

興味深い事に、尾瀬ヶ原の釣り小屋に宿泊したあと、白砂峠を越えて尾瀬沼へ出た一行は、オンダシ沢の長蔵小屋に立ち寄っている。
「山小屋三代の記」にも記述があったが、小屋の壁中に住所など書かれていたと、この頃すでに人がある程度入っていた事を伺い知れる。

この後、武田久吉と平野長蔵は親交を深め、ダム化計画が発表されると、反対意見の調査報告書を提出するなど、尾瀬の自然保護活動に尽力する事になる。

水彩画家大下藤次郎の尾瀬写生旅行(明治四十一年)

大清水からしばらくして三平峠への登りになった。 急な坂の登り道は流れの底を攀じ登るので足はビショ濡れだった。馬の尻について何度も休みながら歩く。ようやく登りきった所から富士山が見えるはずだったが曇り空で見えなかった。「然し見えないのはかえって幸せで、見える時には翌日必ず雨がふるとのことだ」。
馬子が帰ってから尾瀬沼湖畔で荷物を置いて小屋を捜していたところ、檜枝岐の老漁師が来た。 漁師の話では七、八町先にこれより上等な小屋が五、六軒あるという。さっそくそこへ引っ越すことにした。「幾日ばかりいるか」
と聞かれたので「五、六日だ」と答えた。「ハハア明日は帰るべいに」と軽蔑した口調で独り言をいった。ここでも「用達場も決まっているのでガスから、ソコラヤタラやらかさぬようにたのみヤス」と言ってから行った。
尾瀬沼付近の街道沿いには猟師や釣り師の簡単な小屋が幾つもあったようである。彼らの宿にした小屋は、屋根が栂(つが)の木茸(ふ)きで八畳の広さに土間と炊事場、飽屑(かんなくず)の床があった。これでも“尾瀬御殿”だった。便所は外で二本の丸太が三〇度の角度で立てかけてあるだけのこと。前に雪を頂く燧ケ岳を見て左は洋々たる湖、右は姿やさしい白樺の森と後は百花競い咲く高原で世界一風景の良い便所であった。
夕食には二、三枚の板を並べて食卓を作り、花を水筒に入れて飾った。 こおばしいハムのおかずで祝飯をあげて万歳を呼した。夜には持参の西洋蝋燭(ろうそく)を出して明かりとした。薪を盛んに燃して脚絆や足袋(たび)を乾かした。
<中略>
尾瀬沼から三平峠に少し登った所で写生をしながらウグイス、コマドリを聞いた。それから尾瀬沼湖畔で白樺の森を描いた。燧ヶ岳は「浅雪淡しという景」であった。困るのは蚊やブヨが多く写生をしているとやたらに食われた。湖周辺ではカンゾー(ニッコウキスゲ)とアヤメ(ヒオウギアヤメ)が花盛りであった。
ほーほーと人声がした。見ると会津方面から馬が一〇数頭来た。会津でそれを買った馬喰(ばくろう)達であった。
夜の沼は「実に寂寞(せきばく)の境」であった。太陽が沈めば鳥は鳴かなくなる。風さえ音を立てない。そこに霧が静かに一刻一刻とかかって来る。やがて尾瀬沼も森も山も暗い霧に覆われた。
七月十八日 尾瀬沼の北岸にある一条の細径をとって沼尻平に向かった。根まがり笹の中を潜るような道であった。足探りで歩くので木の根につまずくこと数度であった。
長蔵の建てた小屋である「堂小屋」はひどく荒れていた。燧ヶ岳信仰の礼拝所であるのに荒廃がひどいのは長い間放置されていた事をものがたっていた。
<中略>
七月十九日 霧が大変深く森や山が見えたと思うとすぐ消える。じつとりと濡れる気のする寒い日であった。
午前中に小屋の前で写生していた。そこに丁髷(ちょんまげ)の大男が来た。「お前達ア一体ドッカラ来ただぁ」
と尋ねられた。この小屋の持ち主は檜枝岐の老いた漁師だった。大変驚いた風で事情を話すと安心したらしく岩魚を二〇匹ほど捕ってくれた。 「てんから」という毛針釣りなので一四、五分しかかからなかった。高いと思った
が二〇銭の宿代を払うとまた岩魚を釣ってくれた。漁師は沼尻川や尾瀬沼で魚を釣り会津若松あたりへ持って行って売るという。
沼尻へ行ってみな絵を仕上げた。尾瀬沼の景色は「雄大と言うのでもない。又、優美一方でもない。両方を兼ねているので、風景としては、吾輩が今まで歩いた所で、これ以上の場所はない。
一ヶ所に三脚を据えたら、ただその体の方向を変えさえすれば、何処でも絵になる」。大下は上高地にも入っていてその山岳風景を見ていたが、それと違う景観がここにあった。尾瀬を「これ以上の場所はない」と絶賛し
たのはうなずける。

檜枝岐道物語(2012)
宮沢邦一郎 述

大下藤次郎氏は利根川水源探検隊や武田久吉氏の紀行文を読み、尾瀬に興味を抱いたのが最初のきっかけであった。
この文章を読むと、この頃はまだまだ猟師や釣り師の生活の場である事が分かり、檜枝岐の人々との交流は、その人となりがなんとなく想像できるエピソードである。
また、堂小屋がひどく荒れていたと記述があるが、平野長蔵氏が尾瀬から離れて15年が経過した頃で、荒廃が進んだことも想像できる。
この写生旅行は当時の美術雑誌「みづゑ」に掲載され、絵画として尾瀬が視覚的に紹介される事となった。

また大下藤次郎氏は明治44年、41歳の若さで亡くなるが、死の間際に、もう一度尾瀬が見たいと話していたと聞いた平野長蔵は、感銘を受け、またその功績を顕彰して尾瀬沼畔に記念碑を建てた。

尾瀬永住

大正十一年、一家は尾瀬に永住する覚悟で山に入った。大正の初めころから、一高の旅行部が毎年訪れ、紹介してきたので、世に尾瀬の存在を知られるようになってはいたが、まだ登山者は文字通り数えるほどだった。大正十五年、長英さんの最も古い記録によると、年間の長蔵小屋の宿泊客は、学生三七五人、学生外一九六人の計五七一人。そのほか自炊二〇五人、テント三一人、通行三五〇人。全部で一一五七人。この数がほぼ尾瀬全体の入山者とみていいようだ。
「当時ひまで、退屈していたので、縁側に坐って勘定していたんですよ」と長英さんは笑う。
「昔の尾瀬の冬は寂しいもので、もちろんスキーをする人などまだいない時代でした。 山に入って最初の冬、一家の仕事は、夏の間に刈っておいた沼のフトイでゴザを織ることで、タテ糸もスゲの日陰干しにしたのを使います。翌年に町や村の方に売りに行きます。しっかり厚く織ってあるので、評判はよかったですよ。草の いい香りがして…。
また父が講習を受けてきて、ツガの木で割りばしも作りました。センという両端に柄のある刃物でまず割り、包丁で削るのですが、これもたいした金にはなりませんでした。十月の中旬に初雪があって、解けるのが翌年の五月下旬、四メートルも積もる所ですから、屋根の雪おろしも大変な仕事でした。
食べ物ですが、沼でとれるボヤ、フナなどを食べ、イワナは塩づけにして置いてお客さん用にしました。
野菜など乏しく、小さな畠を借りて菜、大根、ジャガイモなど雪解けを待って種をまき、雪の降る直前に収穫しましたが、育つ期間が短く、他の作物はできませんでした。そのジャガイモを切り込んで、アワ、ヒエ、麦なども入れて米といっしょに炊いたものが常食でした。醬油は高いので買わず、味噌も町のは高価なので、地元の村の手作りを買ったのですが、量を増やすためにフスマなど入れるので、後には自分たちで作りましたよ。日本全体が貧しい時代だったんですね、檜枝岐村では水田がありませんからドングリ、トチの実も食べ、群馬県側の片品村でも、ソバ粉に塩を入れてねって、そのまま囲炉裏の灰の中に入れて焼く”ブチ”というものを食べている生活が、戦後もしばらくは続いていたのです。」
ランプも、石油を節約するため使わず、灯芯だけでホヤのない手ランプを使ったという。油煙が立つ明かりの下で、本を読んだことが忘れられないと長英さんは語る。

尾瀬 —山小屋三代の記(1984)
後藤允

明治43年、平野長蔵氏は移転先の今市から尾瀬に入山し、新しく沼尻に小屋を建設する。
その後、夏は尾瀬沼、冬は今市の二拠点居住の生活をしながら、尾瀬沼の漁業権を獲得し、ニジマス等の養殖を試みる上で利便性を考えて今の東岸へ小屋を建て替えた。

しかし関東水電(東京電力の前身)が尾瀬沼の水利権を獲得し、ダム計画が現実化し始めると、長蔵一家は冬季間も尾瀬に住む覚悟で入山する事になり、ここから本格的な尾瀬の自然保護運動へと発展していく。

語りべの平野長英氏は長蔵氏の長男。本文は当時の生活や入山者数が良く分かる貴重な証言であると言え、生活の厳しさを想像させる。

尾瀬再遊記

明治四十四年九月二日 昨日会津若松から十二里で田島まで来た。残暑厳しい山村の道を歩いて、そこから更に針生峠を越え十二里余りで檜枝岐村に達した。ここで丸屋に投宿した。
村は七・八〇戸で茅葺きの厚い屋根の家並みであった。役場や郵便局もあり街道の村の雰囲気が感じられる所であって、思ったほどの「寒村」でないという印象を持った。
宿賃は三五銭であって、山間の宿としては、立派で居心地もいい。やはり蕎麦が「名物」であった。
九月三日 七入から道行沢をつめて沼山峠へ登った。そこまで行くのに山畑の間を歩いた。
沼山峠に立つと三角形の燧ケ岳が右手秋空に聾(そび) え、正面には尾瀬沼が美しい水の色をしてあった。 峠から下りる道で木の皮を背負った白髪の老人に出会った。「沼の小屋にはいないが、原の小屋には魚釣りが、まだ一人残っている」と聞きほっとした。 木の皮はよく燃えるダケカンバ(草紙樺)の皮かもしれない。
大江川湿原に出ると道がわかりにくく兎の走る道(獣みち)と間違えるようであった。大江川が尾瀬沼へ流れこむあたりで一時間ほど「ボンヤリ」と休む。
<中略>
尾瀬ヶ原へ急いだが、急いでも今のようにいい道があるわけではなく、熊笹を泳いで尾瀬ヶ原に向かう沼尻川に沿った径は川のかなり上にあったらしい。はっきりしない踏み跡をたどったが、熊笹はだんだん深くなり森の奥へ入りこんでいくようで不安であった。 先に進んでも尾瀬ヶ原に出る気配はなく、すでに四時半になっていたので小屋へ戻ろうかと思った。ところが少し開けたところで、銘(なた)で木に付けられた痕(あと)である道標(みちしるべ)を見つけてほっとした。暫くして原に出た。 四時間もかかって今の檜枝岐小屋の辺りに出たのは五時であった。
岩魚小屋が三つ位あった。その内の一つの入口の前に荷物を置き、日の暮れぬ内にと思って、至仏を目がけて尾瀬平を歩いていったが、沼尻川だか大堀川だか、樹立の帯に前途を遮られて歩を帰すと小屋の方から「オーイオーイ」と声がする。夕もやがもう尾瀬の平を覆わんとしているので足を急がせた。
岩魚釣りから帰って来た小屋の主人に頼んでとめてもらう事にして、飯盒で飯をたき、味噌汁と岩魚を一尾やいて貰って、豪華な夕飯をすませ、主人は今日獲ってきた岩魚を串にさして焚火のまわりに立て、白焼になったのは棚に上げて燻製にする仕事をしながら、日露戦争にいって来た話を聞かせている。その焚火の横でいい気持ちになって毛布をかぶって寝たのである。その岩魚小屋の主人の名が橘弥四郎君であることは、当時雑誌 「山岳」に出した紀文にも書いてある。
<中略>
昭和十六年。
弥四郎老が私の名を憶へている。宿帳を見て思い出したというので私の方でも三十年前に泊めて貰ったがこの場所でこの人であることを知った。 弥四郎小屋といっても立派な宿屋で到底以前の岩魚小屋を思い起させないが、成程ここに違いない。 至仏が真ん前に見える。その時は初秋の夕暮で枯れて実になっている甘草が今は夏の初めで黄色に咲いているのである。
都合をつけてくれて、我々の至仏行を案内して鳩待峠からあやめ平へいって見ようということになった。それでこの道が指導標を立てたままで切り払ってないので遅くなり、夜に入ってから、弥四郎小屋に帰って来たので、とうとうこの奇遇の為に尾瀬の三晩を東電小屋と温泉小屋と長蔵小屋に泊ろうという初めの予定を、全くかえて三晩とも弥四郎小屋へ泊まったのである。そして鬼怒沼林道を日光へ出る予定を、これも刈払いがしてないというのでやめて、銀山平へ出て帰ったのである。その途中道を間違へて只見川の河原で三十年振りの野宿をした。

檜枝岐道物語(2012)
開口泰 述

明治44年の記述に出てくる岩魚小屋の主人、橘弥四郎は明治21年(当時14歳)に初めて尾瀬に入山する。
それから職漁者として、他の紀行文に登場する漁師と同様に尾瀬で生計を立てていた訳だが、時代の変化と共に岩魚小屋は山小屋へと変貌を遂げていく。今日の弥四郎小屋である。

ここで、今の尾瀬の山小屋を見てみると、見晴、赤田代、竜宮、尾瀬沼のうち檜枝岐ルーツの山小屋は約8割に上る。そのほとんどが長蔵関連の小屋と、釣り小屋が前身となっている。

開口泰は二度目の尾瀬山行までに30年を費やしており、生活の場としての尾瀬から、ハイカーを受け入れる山小屋へと変わる前後の過渡期を目にした数少ない人物だったと言える。

山小屋とイワナ釣り

オラア、昭和二十九年に結婚してっから、尾瀬さ入っただ。そして入ってからも、最初の方は、あんまり魚釣りしなかったなあ。
オジイサン(興作さんの義父・平野與三郎)が釣ってたから、それでお客さんに出す魚は間に合ってたから、オレ釣らなくってもよかっただ。その頃は、あれだあやぁ、オラアとこは、山小屋って言っても、まだ、見晴らし原の十字路(尾瀬ケ原の見晴)にあった、長蔵小屋の小さい魚釣り小屋借りて、許可とって人泊めてただ。
オラアとこのオジイサンは猟師で、昔から、夏は商売でイワナ釣りしてたからなあ、戦後になって、長蔵小屋から頼まれて、その小屋で魚釣って、燻製にして、それを沼 (尾瀬沼)の長蔵小屋へ持ってってただ。それで、あれだぁ、尾瀬にも、いくらか人が来るようになったからなあ、長蔵小屋からその小屋借りて、山小屋始めただ。
最初の頃は、お客に出しても魚が余って、長蔵小屋に売ってたでねえかなあ。だから、オラア、尾瀬さ入っても、こっち(村)から荷物背負い揚げたり、第二長蔵小屋造る時は、その手伝いしたりしてただ。
木伐ったり、柱削ったり、板挽いたりなあ、木挽きだ。そして、木道敷きの人夫にも出たしなあ。尾瀬の木道敷きは、二十九年の春頃からだなあ、始めたのは。 二十八年だったかなあ。
春、雪の上で、あすこらの木伐り出して、現場へ運んで並べただ。昔は、ブナ、ナラ、アオモリトドマツだ。
<中略>
借りた魚釣り小屋は小せえしなあ、お客もふえてきたから。そこにいて、別の場所に、営林署から土地借りて、六間に十三間の二階建ての小屋、今の燧小屋建てることにしただ。
それ造るに苦労したやあ、金なんてねえだから、借金だから。それ、みんなオレがやらされただ。オレも婿になったばかりだあべ、金借り、いちばんびどかった。財産何もねえだから、銀行では貸さねえだ。みんな人から。
人から借りた額でいちばん多いのが二十万、全部で五十万は借りたあべ。あの頃で五十万て金は大きいだ。 今ならなあ、五十万なんて金、大したもんでねえがなあ。
小屋建てる木材は、向うで (尾瀬)、営林署から木買って、それを伐って柱だの板だのにしただ。ヨキで削ったり、ノコで挽いたりしてなあ、そういう仕事もみんなやっただ、オジイサンと。人も頼んだが、そんなに頼めねえからなあ。建てるには大工さん頼んだ。
そうして、向うで間に合わねえ建築資材は、みんな下から揚げただ。大きいものは、畳とか、トタン、ガラスなんかは、群馬から、富士見から馬で揚げた。富士見峠越えれば、すぐオラが小屋だから。だけど、あの頃は道もひどかったあ、ぬかって、膝までもぐるだから。ほかのものは、たいてえオレが揚げただ、ここ(村)から。あれだよ、日帰りで背負ったよ、尾瀬の原の十字路まで。食糧だの、細けえ資材だの。それ二年やった。
小屋は三十二年に出来ただ。 申請出して、許可とって、完成までには何年もかかった。 七、八年はかかったあべ、申請は、オレが婿に入る前から出してただから。
小屋建てても、あれだあ、最初の頃は、いっぱいになることなかったな。だけど年々ふえてきたからよかっただ。
とにかく、金足らねえで、天井板なんて出来ねえうちに、お客さん泊めてただから、「夏向きでいいなあ」なんて、お客さん笑ってただ。

イワナⅢ 続 源流の職漁者(1990)
平野興作 述

昭和に入ると尾瀬に山小屋が続々と建ち始める。
昭和3年初代東電小屋(気象観測としての役割)、昭和7年温泉小屋(長蔵氏が見つけた温泉の近くに建てた小屋を星段吉、エン夫婦に譲る形で)、同じく昭和7年に釣り小屋だった弥四郎小屋を新築)

少し空いて昭和20年代後半に桧枝岐小屋、昭和32年に第二長蔵小屋が開業すると昭和33年、34年に尾瀬小屋、原の小屋、燧小屋が開業し、見晴は今の形になる。

上述は二代目燧小屋主人の平野興作氏の話し言葉をそのまま文字に起こした臨場感ある文章で語られ、当時の尾瀬の営みや関係性が鮮明に伝わってくる。

山小屋を運ぶ

馬方としてやってきた仕事の中でも特に忘れられないものがある。
それは、私が中学を卒業して正式に馬方になってから二年目、昭和三十二年のことだった。年々増え続けるハイカーに対応するために、原の小屋、尾瀬小屋、燧小屋と、新たな山小屋が、三軒いっぺんに尾瀬ヶ原の見晴地区に建つことが決まった。その建築資材を請け負って運ぶことになった。
見晴は尾瀬ヶ原の東の端に位置し、東に行けば白砂峠を越えて尾瀬沼へ、西に行けば尾瀬ヶ原を渡って山ノ鼻へ、北は三条の滝から裏へ、そして南は富士見峠へ道が延び、見晴十字路などとも呼ばれている。
現在は鳩待峠から山ノ鼻経由での入山が尾瀬探勝の主流となっているため、見晴地区は広大な尾瀬ヶ原を渡った先にあるというイメージが強い。しかし、かつての尾瀬探勝は三平峠を越えて尾瀬沼に入るという行程が一般的だった。その尾瀬沼から歩いてくると、ここで尾瀬ヶ原の広大な景色がパーッと開ける。それが見晴という地名の由来である。
個人で使用していた小屋を除けば、この見晴地区で、現存の小屋では弥四郎小屋が最も歴史が古く、建てられたのは昭和七年。尾瀬の漁師だった橘弥四郎さんが、清水(弥四郎清水)の湧くこの場所に小屋を建てたのが始まりだ。
その後、昭和三十一年には平野長英さんが第二長蔵小屋を建てた。 前年に建ったこの第二長蔵小屋を含めて三軒の山小屋が建っていた見晴に、昭和三十二年、さらに新たに三軒の山小屋が加わることになった。 原の小屋は星幸徳さん、尾瀬小屋は星重郎さん、そして燧小屋は私が熊撃ちのことを教わった平野與三郎さんが建てたものである。
<中略>
長蔵小屋と東電小屋は一年十二カ月間営業していて、冬の期間も宿泊が可能だった。東電小屋は当時は、東電山の家と呼ばれていた。昭和二十五年に、竜宮十字路に竜宮小屋が建てられ、それでも急増するハイカーの受け入れに追いつかなくなったため、同時期に三軒の山小屋の新設ということになった。

尾瀬の語りべ(2023)
松浦和夫

片品村出身の松浦和夫氏は会津沼田街道の関所番を先祖に持ち、家業として馬を使った物資輸送を生業としていた。
鳩待峠の車道開通と共に、生業としていた馬方の需要は歩荷に変わり、登山ガイドやスキー教師など様々な職を経験しながら尾瀬と関わり続けている。

本文は、これまで私が記述した年代と違う山小屋もあるが、完成前からお客さんを泊めていたり、建て替えのタイミングなどでズレが生じていると感じる。

こうして見晴に6軒の山小屋が揃うと、その後は昭和39年に檜枝岐村営の尾瀬沼ヒュッテが完成し、今営業する山小屋が全て揃い、昭和40年代には空前の尾瀬ブームが到来する事になった。

おわりに

今回、会津沼田街道と戊辰戦争のエピソードに始まり、平野長蔵氏による燧ヶ岳開山から参籠小屋の建設、またそれ以前より続く職漁者による釣り小屋と檜枝岐村の関り、昭和に入ると入山者の増加に伴い山小屋の新築ラッシュが始まり、尾瀬の一大ブームへと繋がっていく。

こうして今ある山小屋の土台が完成する訳だが、昭和38年に戸倉~鳩待峠間の車道が開通し、昭和45年には御池~沼山峠間の車道が開通する。
この車道開発は、国道401号線として沼山峠から大清水まで繋げて完成する予定であったが、長蔵小屋の三代目・平野長靖氏が道路開発に対し反対運動を起こした事で、計画は頓挫する事になった。
その詳しい話はまた別の機会として、様々な開発が進んだ結果、より便利になって入山者数も増加。山小屋では発電機の導入や、ヘリコプターの荷上げが始まり、逆にこれまで可能だった尾瀬沼のボートや釣りが廃止されるなど近代化が進んだ。

昭和の終わりになると第二次尾瀬ブームが到来し、平成8年には過去最多の約65万人が入山した。
オーバーユースにより山小屋は大混雑となり、一日600人を超える人を泊める事もあった。宿泊者は畳一畳に2人どころか、更衣室や食堂、屋根裏部屋でも寝させられたという。

しかし、平成15年ごろには30万人台に減少し、平成27年までキープしたのち徐々に下がり続け、コロナ禍の2020年以降は10万人台にまで減少している(新集計方式の影響もあり)
その間、経営が厳しくなった山小屋は閉鎖や売却に転じているが、新しく参入した企業が新しい取り組みを始め、それに触発された既存の山小屋もどうにか工夫して頑張っているさ中である。

一時期と比べるとたしかに入山者数は減ったが、言い換えれば適正利用人数なのかもしれない。しかし、一度回った経済を停滞させるのは、山小屋も地元民も苦しい。
尾瀬の場合はどうしても「自然保護」が強くまとわりつき、経済活動と相反する矛盾を抱えながら進んでいかなければならない。
この先、尾瀬と山小屋がどうなっていくのか、時代の変化と共に、変わる人や価値観にどう応えていくか。

綺麗な景色や整備された木道、尾瀬のルール。それが残された意味や歴史を知って歩くとまた違った景色が見えてくる。
今後も尾瀬の歴史を学びながら発信して参りますので、ぜひ尾瀬を知って、足を運んで、景色や花々を楽しんで頂けると嬉しいです。



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