はじめに
いつから尾瀬はたくさんの人が訪れるようになったのでしょうか。
古くは江戸時代から続く会津沼田街道による交易と、地元民による釣りや狩猟の場として発展しました。
明治時代に入り、利根水源探検隊や銀山平探検隊が尾瀬を訪れると、日本の登山文化黎明期に活躍した小暮理太郎や武田久吉、大下藤次郎らが尾瀬を広く紹介しました。
大正時代には学生山岳部の尾瀬山行やツアースキーが盛んに行われ、徐々に尾瀬が知られるようになります。
時代は進み、戦後の日本でNHKのラジオ歌謡にて「夏の思い出」が放送されると、作中に出てくる尾瀬の人気は飛躍的に高まり、一大ムーブメントを巻き起こす事になります。
一方で谷川岳を代表するような先鋭的な登山をする者も増えた事から、山脈や谷筋を繋いだ大縦走の先に尾瀬へ到達する、挑戦的な山行も行われました。
それら人々の足跡を辿ると、尾瀬を中心に半径25km圏内に表れる秘境エリアと大小かき集めた山塊が見えてくる。
これらを繋いだ人々の往来を「尾瀬歴史文化圏」と名付け、どんな道のりを辿って尾瀬に行きつき、または通過したのか、先人たちの足跡を辿ってみよう。
山小屋の足跡をたどる
2023年現在、尾瀬にある山小屋は尾瀬沼3軒、見晴6軒、赤田代1軒、竜宮1軒、山ノ鼻3軒の計14軒が営業している。
それぞれ民間、村営、TPT(旧尾瀬林業)の山小屋が各エリアに軒を連ねるが、今回は福島県側、檜枝岐村がルーツになる山小屋に焦点を当て、尾瀬と檜枝岐の関りからどうやって山小屋として発展したのか、歴史の一部を紐解きたい。
丸屋のお話し
長蔵小屋の初代主人である平野長蔵氏が燧ヶ岳に初めて登頂した明治23年(1890)から百年を記念して刊行された「燧ヶ岳百年 遥かな尾瀬」
福島民報社による取材から記事にまとめたもので、その中でも上述の文は一番古い口承にあたる。
会津沼田街道は江戸時代に始まり、明治の中頃まで続いていたという。会津からは米や酒、沼田からは塩や油を運び、現在の三平下で交易が行われた。
この交易は直接顔を合わせて取引が行われるわけではなく、それぞれが持ち寄った物資を降ろし、置かれている荷物を積んで帰るという完全な信用取引で成り立っていた。
また、運ぶものは物資だけでなく人の往来も盛んであった事が読み取れる。
燧岳信仰
本書は長蔵小屋の三代目・平野長靖氏の高校同級生だった著者が長蔵小屋の歴史、並びに尾瀬の、日本の自然保護の歴史を描いた名著である。
長蔵小屋三代に渡る自然保護の歴史について、ここでは記述しないが、その始まりは初代・平野長蔵氏の燧ヶ岳信仰にあった。
明治22年、信仰の山として燧ヶ岳を開山し、現在の沼尻オンダシ沢付近に参籠小屋を建設したが、明治27年に村の反対で下山を余儀なくされる。このあと尾瀬へ行く事は無くなり、村で養蚕事業に着手するが、村人との軋轢は増すばかりで、明治37年に現在の栃木県日光市今市へ転居する事になる。
その後、尾瀬に戻る事になるのは明治43年の事であった。
また、本文に沼田街道の交易が既に廃れていたと記載があるが、前述の丸屋旅館の宿帳に明治29年から明治42年にかけて商人が往来している事を考えると、物資交換の小屋はともかく街道としての機能は失われていなかったと考えられる。
明治二十年頃の尾瀬の状況
檜枝岐道物語は檜枝岐前村長である星光祥氏著書。檜枝岐村へ通じる道を題材にした本で、先人たちが発表した文章を抜粋し、まとめている。
星大吉氏は檜枝岐村に生まれ、福島師範学校で学び、生物学教師であった根本莞爾に感化され植物に興味を持った。
明治期に尾瀬を歩きナガバノモウセンゴケを発見し、牧野富太郎に送り命名された。また檜枝岐村の固有種でもあるアンドンマユミを最初に発見した人物としても知られる。
こちらの文章は当時の尾瀬の状況がよく分かるもので、会津沼田街道として尾瀬は交易の場だけでなく、また、平野長蔵氏による開拓が全てでは無く、檜枝岐の人々にとって、生活の場として「尾瀬」があった事が分かる。
また、絶滅種のニホンオオカミや今に繋がるシカの移動経路に至るまで記述されており大変興味深い文章である。
尾瀬の父武田久吉初めての尾瀬(明治三十八年)
武田久吉はイギリス外交官のアーネスト・サトウを父に持つ植物学者、登山家である。尾瀬のみならず日本の山岳史の中心人物であり日本最古の山岳会である「日本山岳会」創設者の一人。
こちらの文章では初めて尾瀬を訪れた際の情景を宮沢邦一郎氏が分かりやすく記述している。
興味深い事に、尾瀬ヶ原の釣り小屋に宿泊したあと、白砂峠を越えて尾瀬沼へ出た一行は、オンダシ沢の長蔵小屋に立ち寄っている。
「山小屋三代の記」にも記述があったが、小屋の壁中に住所など書かれていたと、この頃すでに人がある程度入っていた事を伺い知れる。
この後、武田久吉と平野長蔵は親交を深め、ダム化計画が発表されると、反対意見の調査報告書を提出するなど、尾瀬の自然保護活動に尽力する事になる。
水彩画家大下藤次郎の尾瀬写生旅行(明治四十一年)
大下藤次郎氏は利根川水源探検隊や武田久吉氏の紀行文を読み、尾瀬に興味を抱いたのが最初のきっかけであった。
この文章を読むと、この頃はまだまだ猟師や釣り師の生活の場である事が分かり、檜枝岐の人々との交流は、その人となりがなんとなく想像できるエピソードである。
また、堂小屋がひどく荒れていたと記述があるが、平野長蔵氏が尾瀬から離れて15年が経過した頃で、荒廃が進んだことも想像できる。
この写生旅行は当時の美術雑誌「みづゑ」に掲載され、絵画として尾瀬が視覚的に紹介される事となった。
また大下藤次郎氏は明治44年、41歳の若さで亡くなるが、死の間際に、もう一度尾瀬が見たいと話していたと聞いた平野長蔵は、感銘を受け、またその功績を顕彰して尾瀬沼畔に記念碑を建てた。
尾瀬永住
明治43年、平野長蔵氏は移転先の今市から尾瀬に入山し、新しく沼尻に小屋を建設する。
その後、夏は尾瀬沼、冬は今市の二拠点居住の生活をしながら、尾瀬沼の漁業権を獲得し、ニジマス等の養殖を試みる上で利便性を考えて今の東岸へ小屋を建て替えた。
しかし関東水電(東京電力の前身)が尾瀬沼の水利権を獲得し、ダム計画が現実化し始めると、長蔵一家は冬季間も尾瀬に住む覚悟で入山する事になり、ここから本格的な尾瀬の自然保護運動へと発展していく。
語りべの平野長英氏は長蔵氏の長男。本文は当時の生活や入山者数が良く分かる貴重な証言であると言え、生活の厳しさを想像させる。
尾瀬再遊記
明治44年の記述に出てくる岩魚小屋の主人、橘弥四郎は明治21年(当時14歳)に初めて尾瀬に入山する。
それから職漁者として、他の紀行文に登場する漁師と同様に尾瀬で生計を立てていた訳だが、時代の変化と共に岩魚小屋は山小屋へと変貌を遂げていく。今日の弥四郎小屋である。
ここで、今の尾瀬の山小屋を見てみると、見晴、赤田代、竜宮、尾瀬沼のうち檜枝岐ルーツの山小屋は約8割に上る。そのほとんどが長蔵関連の小屋と、釣り小屋が前身となっている。
開口泰は二度目の尾瀬山行までに30年を費やしており、生活の場としての尾瀬から、ハイカーを受け入れる山小屋へと変わる前後の過渡期を目にした数少ない人物だったと言える。
山小屋とイワナ釣り
昭和に入ると尾瀬に山小屋が続々と建ち始める。
昭和3年初代東電小屋(気象観測としての役割)、昭和7年温泉小屋(長蔵氏が見つけた温泉の近くに建てた小屋を星段吉、エン夫婦に譲る形で)、同じく昭和7年に釣り小屋だった弥四郎小屋を新築)
少し空いて昭和20年代後半に桧枝岐小屋、昭和32年に第二長蔵小屋が開業すると昭和33年、34年に尾瀬小屋、原の小屋、燧小屋が開業し、見晴は今の形になる。
上述は二代目燧小屋主人の平野興作氏の話し言葉をそのまま文字に起こした臨場感ある文章で語られ、当時の尾瀬の営みや関係性が鮮明に伝わってくる。
山小屋を運ぶ
片品村出身の松浦和夫氏は会津沼田街道の関所番を先祖に持ち、家業として馬を使った物資輸送を生業としていた。
鳩待峠の車道開通と共に、生業としていた馬方の需要は歩荷に変わり、登山ガイドやスキー教師など様々な職を経験しながら尾瀬と関わり続けている。
本文は、これまで私が記述した年代と違う山小屋もあるが、完成前からお客さんを泊めていたり、建て替えのタイミングなどでズレが生じていると感じる。
こうして見晴に6軒の山小屋が揃うと、その後は昭和39年に檜枝岐村営の尾瀬沼ヒュッテが完成し、今営業する山小屋が全て揃い、昭和40年代には空前の尾瀬ブームが到来する事になった。
おわりに
今回、会津沼田街道と戊辰戦争のエピソードに始まり、平野長蔵氏による燧ヶ岳開山から参籠小屋の建設、またそれ以前より続く職漁者による釣り小屋と檜枝岐村の関り、昭和に入ると入山者の増加に伴い山小屋の新築ラッシュが始まり、尾瀬の一大ブームへと繋がっていく。
こうして今ある山小屋の土台が完成する訳だが、昭和38年に戸倉~鳩待峠間の車道が開通し、昭和45年には御池~沼山峠間の車道が開通する。
この車道開発は、国道401号線として沼山峠から大清水まで繋げて完成する予定であったが、長蔵小屋の三代目・平野長靖氏が道路開発に対し反対運動を起こした事で、計画は頓挫する事になった。
その詳しい話はまた別の機会として、様々な開発が進んだ結果、より便利になって入山者数も増加。山小屋では発電機の導入や、ヘリコプターの荷上げが始まり、逆にこれまで可能だった尾瀬沼のボートや釣りが廃止されるなど近代化が進んだ。
昭和の終わりになると第二次尾瀬ブームが到来し、平成8年には過去最多の約65万人が入山した。
オーバーユースにより山小屋は大混雑となり、一日600人を超える人を泊める事もあった。宿泊者は畳一畳に2人どころか、更衣室や食堂、屋根裏部屋でも寝させられたという。
しかし、平成15年ごろには30万人台に減少し、平成27年までキープしたのち徐々に下がり続け、コロナ禍の2020年以降は10万人台にまで減少している(新集計方式の影響もあり)
その間、経営が厳しくなった山小屋は閉鎖や売却に転じているが、新しく参入した企業が新しい取り組みを始め、それに触発された既存の山小屋もどうにか工夫して頑張っているさ中である。
一時期と比べるとたしかに入山者数は減ったが、言い換えれば適正利用人数なのかもしれない。しかし、一度回った経済を停滞させるのは、山小屋も地元民も苦しい。
尾瀬の場合はどうしても「自然保護」が強くまとわりつき、経済活動と相反する矛盾を抱えながら進んでいかなければならない。
この先、尾瀬と山小屋がどうなっていくのか、時代の変化と共に、変わる人や価値観にどう応えていくか。
綺麗な景色や整備された木道、尾瀬のルール。それが残された意味や歴史を知って歩くとまた違った景色が見えてくる。
今後も尾瀬の歴史を学びながら発信して参りますので、ぜひ尾瀬を知って、足を運んで、景色や花々を楽しんで頂けると嬉しいです。