見出し画像

トヨタ・ミライがまるで売れていない─水素社会はどこへ行く

水素社会10年の節目に

 いまから10年前の2014年11月、はなばなしく市場デビューした「トヨタ・ミライ」。史上初の量産型水素燃料電池自動車(FCV)だ。70メガパスカル(約700気圧)の水素タンク2本に水素をフル充填すれば、最大700㌔㍍を走ることができ、非常時には電源にもなる。しかも走行中には水しか出さない究極のクリーンカー……。当時の豊田章男トヨタ自動車社長は、「自動車の歴史を大きく変えるターニングポイント」だと胸を張った。ミライは同年12月から注文の受付を開始、第1号は翌年1月15日に首相官邸に納車され、豊田社長から安倍晋三首相(当時)に、記念のゴールデンキーが手渡された。2015年は「水素社会元年」と呼ばれた。そして、2020年に開催が決定していた東京オリンピックは、「水素オリンピック」となるはずだった。

 トヨタ・ミライの販売価格は消費税込みで723.6万円だったが、安倍氏の肝いりでそのうち202万円を国が補助することになった。それに加えて東京都は、国の半額101万円を補助することを決めた。この動きに他の県や区市も同調。その結果、住む場所によっては半額に近い価格でミライが購入できた。たとえば横浜市民であれば、国の202万円、神奈川県の101万円、横浜市の50万円で、最大353万円の補助金が得られた。しかも、「エコカー減税」が適用される。

 東京都は、建設費が1か所当たり4~5億円といわれた、水素を充填するための水素ステーションの整備にも国と合わせて最大8割がまかなわれる手厚い補助金を用意した。まさに至れり尽くせり、政府・地方自治体一体となってFCVの普及を後押しした。

 「水素社会元年」とは、官民そろって水素社会を実現させようとする「水素社会推進元年」にほかならなかった。

 大きな注目を集めたトヨタ・ミライは、12月15日の発売開始時点で注文台数がすでに1000台に及び、同社の2015年末までの販売目標400台を大きく上回った。2015年1月には受注数が1500台にまで伸び、トヨタは急遽ミライの増産を決めた。水素エコノミーを推進する経済産業省(経産省)は、2016年にまとめた「水素・燃料電池ロードマップ」(2014年の改訂版)で、FCVの普及目標を、2020年までに4万台、2025年までに20万台、2030年までに80万台とした(いずれも累計)。2014年版には台数目標は明記されていなかったのだが、好調な出足に強気の数字を打ち出したのだろう。

 2017年12月に経産省は「水素基本戦略」を策定したが、そのなかではFCVの普及目標が2020年までに20万台程度、2025年までに80万台程度と前倒しされた。ミライの出足が好調だったのに加え、2016年にはホンダが「クラリティ・フューエル・セル」を発売していた(ただしリース販売のみ)。

 ところが、その後ミライの販売台数は伸び悩み、2018年3月までの国内FCV登録台数(累計)は、約2200台にとどまった。つまり1500台の注文残があった2015年1月以降、わずか700台しか上積みしなかったことになる。結局、2020年度末までの累計販売台数は4000台強と、目標の10分の1に過ぎなかった。

 ミライ発売当初、購入者の多くは官庁・地方自治体・トヨタ関連企業や水素関連企業だった。つまり「デモンストレーション車(デモ車)」としての購入がほとんどだったのだ。もちろん新しもの好きのユーザーも少しはいただろう。しかし、水素ステーションの数は十分ではなく、それも大都市に偏っていた。ふだん乗りにするには、使い勝手が悪すぎた。

 2020年12月にトヨタはフルモデルチェンジした新型ミライを発売した。初代では4人だった(水素タンクが乗車スペースに喰いこんでいたためだ)乗車定員は5人になり、満充填あたりの走行距離も最大700㌔㍍から最大850㌔㍍へと大幅に伸びた。ただ最も安いグレードでも726万円(走行距離750㌔㍍)と、旧型から価格は変わらなかった。

2020年12月に発売された新型トヨタミライ
出典:トヨタ自動車ニュースリリース

 新車効果は、少しはあったと見るべきだろうか。販売台数は780台だった2020年度から、2021年度には過去最高の1630台にふえた。しかし、2022年度には412台、2023年度には378台と激減してしまった。2024年度は4月~10月の7か月間にわずか63台しか売れていない。FCVのここまでの累計登録台数、つまりほぼ10年間で売れた台数は6500台余だ。そのほとんどがトヨタ・ミライである。経産省の目標には遠く及ばない。というより、まるで売れていないといったほうがいい。

表 FCVの登録台数(補助金交付ベース)
出典:一般社団法人次世代自動車振興センター

 ホンダのクラリティFCVは2021年に生産を終了したが、リース販売という形態とはいえほとんど売れていなかった。日産自動車がドイツ・ダイムラー、アメリカ・フォードモーターと共同で進めていたFCVの開発プロジェクトは、2018年に凍結された。

 ホンダは2024年7月に新たな燃料電池自動車「CR-V e:FCEV」を発売した。これはプラグインFCVというべきもので、外部電源から充電でき水素がなくても電気自動車(EV)として走ることができる。価格は800万円を超え、やはりリース販売のみとなっている。ガス欠、いや「水素欠」になったときに、バッテリーで水素ステーションまで走ることができるというのが売りなのだろうか。この仕様を知ったときには思わず苦笑いしてしまった。FCV開発をすすめるメーカーとしては苦肉の策というべきか。しかし、よほど酔狂な人でなければ買わないだろうというのが、率直な感想だ。実際のところ、リース販売でもありおもな購入対象は水素社会推進をアピールしたい政府機関や地方公共団体だろう。近くに水素ステーションがなくて苦慮している自治体が、ミライから買い替えることを期待したとしか思えない。

開店休業状態の水素ステーション

 その水素ステーションも厳しい状況にある。何しろ顧客がほとんどいないのだから。先の「水素基本戦略」(2017年12月)では、水素ステーションの整備目標を2020年度までに160か所、2025年度までに320か所としており、2020年代の後半には水素ステーション事業の自立化をめざすとしている(この目標は2019年版「戦略ロードマップ」でも引きつがれた)。はたして2020年度末の水素ステーション数は162。みごと達成したというわけだが、補助金で無理やり間に合わせたという感が強い。そしてその実態はかなり危ういといわざるをえない。

図 地方別にみた水素ステーションの整備状況とFCV普及台数
出典:資源エネルギー庁「燃料電池自動車の普及促進に向けた水素ステーション整備事業費補助金について」令和3(2021)年5月

 2021年4月末現在、水素ステーションの数とFCVの普及台数は図のようになっている。水素ステーション1か所あたりのFCV普及台数は、ステーションの数が多い順に関東圏が42・2台、中京圏が32・7台、関西・四国圏が24台、中国・九州圏が16・6台、北海道・東北圏が27・6台、北陸圏が19台だ。FCV(ミライ)の1充填あたり走行距離から考えると、多くても月に1回程度の充填頻度だろうから、関東圏でも1水素ステーションあたりのべ充填台数は42台/月、1日あたりでは1・5台に満たないことになる。中国・九州圏では2日に1台しか訪れないのだ。水素ステーションの経営が成り立つには最低でも1日あたり100台の利用が必要とされるというから、こんなありさまでは採算は取れっこない。

 実際、水素ステーションの多くが「開店休業状態」になっていることを、日本経済新聞が伝えている。2020年度末までに設置された162か所のうち、その時点でまだ整備中だったものが16か所、週のうち1~3日しか稼働していないものが26か所あった。残りの120か所は4~7日だった(「水素拠点、開店休業3割でも『目標達成』 甘い自己評価」2024年7月18日)。要するに、駆け込みでかたちだけは目標に間に合わせたものの、まったくビジネスになっていないということである。7日間、つまり無休で営業しているステーションでも、充填に訪れるFCV(ミライ)はいったいどれほどあるものか。地方では事実上公用FCVのための専用ステーションとなっている。それも年に何度訪れてくれることか。地域によっては、水素の半分を充填のための往復で消費することになりかねない。

東京西多摩地区唯一の水素ステーションも開店休業状態

 「ニワトリが先か、卵が先か」という古典的命題ではないが、水素ステーションが近くになければ、FCVを買う意味はない。顧客となるFCVが近隣に十分な数なければ水素ステーションの経営は成り立たない。そこで国・経産省はまず充填インフラを整えることで、FCV普及の下支えを狙ったのだが、10年も経つのにFCVの普及は遅々として進まず、つくったもののあまりに回転が悪い。いや、悪すぎる。2023年1月現在164か所になっていたステーションの数は、2024年9月の段階で157か所(一般社団法人次世代自動車振興センター調べ)に減っている。「開店休業状態」のステーションを維持する余裕がなくなってきているのではないか。

 一方で、トヨタもホンダもEVへのシフトを急いでおり、2社とも従来のリチウムイオン電池より高性能で安全性も高い全固体電池の実用化をすすめている(ホンダは全固体電池のパイロットラインを近々稼働させる計画だ)。航続距離の長さと充填時間の短さという、EVに対するFCVの強みは、全固体電池の時代になればほぼ失われてしまうだろう。

アメリカでも販売が急減

 アメリカでは、FCVはほぼカルフォルニア州でしか販売されていない。車種は、トヨタ・ミライにホンダCR-V e:FCEVそして韓国ヒョンデのNEXO(ネッソ)だが、7割をミライが占める。実は日本よりカリフォルニア州のほうがミライは売れていて、自動車関連の販売情報を扱うサイト「CAR FIGURE」によると、2015年の秋の販売開始から2023年までの販売総数は1万4105台だ。2023年には2737台と過去最高の販売台数だった。ところが2024年に入ると失速し(実際には2023年第4四半期から)、第3四半期(1月~9月)までに346台にとどまっている。前年同期比87%減という急落だ。

 かつて燃料電池(フューエル・セル)を「フール・セル」だとこき下ろし、その後もFCVは馬鹿げている」とことあるごとに述べてきたテスラのイーロン・マスク氏が、第二次トランプ政権の政策に深くかかわりそうだ。水素とFCVはこれまで以上に逆風にさらされそうな気配である。

 FCVが売れないのに販売店に並びつづけているのは、水素社会構築がほぼ日本の国策だからだ。やめるにやめられないのは「核燃サイクル」と同じか。しかし、核燃サイクルと同じように、このままでは傷口は広がるばかりではないか。

 そういえば、首相官邸に納車された、あのミライ第1号車はどうなった?


 水素と燃料電池自動車の問題点を指摘した『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』(岩波ブックレット)はこちら


いいなと思ったら応援しよう!