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私たちはみな、物語とおとぎ話の生きもの

<ブックレビュー>
失われたものたちの国
ジョン・コナリー著 田内志文訳

東京創元社
2024年6月29日発行
2700円+税

 2015年9月に同じ東京創元社から刊行された『失われたものたちの本』(原作は2006年イギリス)の続編というか、70年以上の時を経た後日譚。前作の舞台は第二次世界大戦さなかのイギリス。本を読む楽しみを教えてくれた母を亡くしたデイビッドは、父の再婚相手と異母弟が暮らしていた屋敷に移り住んだ。屋敷はとても広く古くて、継母の一族に代々受け継がれてきたものだった。デイビッドは継母や異母弟となじめず、しばしばいさかいを起こしていた。ある夜、死んだ母親の声に導かれて外に出ると、そこへドイツ軍の爆撃機が墜落してきた。思わず壁に開いていた穴に飛び込んだデイビッドは、爆撃機の残骸の一部と乗組員のむくろとともに異世界に放り込まれてしまう。そこは誰もが知る物語が少しずつ改変された世界だった。王国の征服を狙う人狼や邪悪なトロル、翼をもつ狩人ハルピュイア、そしてずる賢いねじくれ男の手を逃れ、冒険の果てに元の世界へ戻ることができたデイビッドは長じて作家になり、この体験を本にする。それが『失われたものたちの本』で、それはデイビッドが書いた生涯ただ1冊の本だった。

 そして現代。世界中で異常気象が頻発し、ロシアがウクライナに侵攻していた。シングルマザーのセレスは、8歳の娘フィービーとロンドンで暮らしていたが、ある日トラックにはねられたフィービーが昏睡状態となってしまった。セレスは主治医のすすめで、回復の兆しが見られないまま眠りつづけるフィービーを、バッキンガムシャーにある児童ケア施設<ランタン・ハウス>に預けることにした。近くにはセレスが子どものころに暮らし、いまでもときどき訪れる小さな小屋があったからだ。<ランタン・ハウス>の建つ土地には、ディビッドの継母が相続し、その後デイビッドが住んだあの屋敷が、荒れ果ててはいたが残っていた。ここでデイビッドはたったひとりひっそりと暮らし、本を書き、そして20年前に失踪していた。

 『失われたものたちの本』を書店で買い求めたセレスは、読み終えると、呼び寄せられるように屋敷に忍び込み、そこでツタとツタに紛れた正体不明の男に襲われ、ようやくのことでキッチンにある裏口から外に飛び出した。そこは深い森のなかで、振り返ると屋敷は消えていた。彼女の飛び出してきたところは裏口ではなくて、オークの木の割れ目だった。彼女は異世界に紛れ込んでしまったのだ。それも16歳に若返って。その奇妙な世界で、セレスは『失われたものたちの本』でデイビッドを助けた「木こり」と出会う。しかし木こりは、「ここはデイビッドが来た国と同じではない」という。セレスがこの世界を変えてしまったのだ、と。セレスが紛れ込んだ異世界は、セレスの心がつくり上げた世界なのだった。その世界はセレスが読んだ本や神話や伝説を研究していた父から聞いた話が散りばめられていた。

 新たな支配者となったボルウェイン卿は何者なのか。隻眼のミヤマガラスや「最後のドライアド」カーリオは、何の目的でセレスにつきまとうのか。ねじくれ男は本当に復活したのか。人間を憎むフェイたちの目論みは何か。そして、セレスはフィービーを取り戻すことができるのか。

 汚染と破壊、恐怖と混乱、陰謀と裏切り、憎悪と殺戮にまみれた世界は、現実の(2020年代前半の)世界の写し絵のようにみえる。襲われた村、連れ去られた赤ん坊や子どもはロシアのウクライナ侵攻に重なる。

 著者ジョン・コナリーがこの本の執筆を構想したのは2020年。新型コロナウイルスによるパンデミックで、世界が混乱に陥っていたときだ(ただしストーリーのなかにパンデミックは出てこない)。残念ながら実現しなかったが、『失われたものたちの本』を映画化する企画が進んでおり、そのシナリオを書いていた。その過程で著者は何度もこの世界を訪れていたことに気づいた、という。2冊の刊行の間にどんなことがあったかを考えると、なぜ著者が完成した作品のはずであった『失われたものたちの本』に続編を書こうと思ったのかわかる気がする。このかんに世界ではあまりに多くの人が亡くなった。異世界に住む精霊たちを弱らせ死に向かわせているのは、ほかでもない人間なのだ。

 というわけで、少しネタバレになってしまったが、もし読んでいなければ先に『失われたものたちの本』を読んでから、本書を読んだほうがいい。いや、そうすべきだ。

 生死の境目で見た夢のなかでセレスは語る。「そうした本を収めて超然とそびえる本棚には、新たな本がどんどん加えられていきます。それはひとつひとつの人生はいくつもの物語からできているからです。物語に次ぐ物語、そしてさらにそれに次ぐ物語が人生を作っているからなのです。本が紙とインクと厚紙だけでできているわけではないのと同じように、人もまた、ただ肉と血でできているのではありません。私たちはみな、物語とおとぎ話の生きものなのです。私たちの存在は物語です。私たちはそのように世界を理解し、自分のこともそのように理解されるべきなのです」。

 著者は『キャクストン私設図書館』(東京創元社、2021)のなかで、「書店や図書館とはあらゆる世界を、あらゆる宇宙を、そして一冊一冊の本に綴じられている万物を宿すものだから、自然とそのような力をもつに至ったのだとね。だとすると図書館や書店というものはあまねく、実質的に無限の広さを持っていることになる」と登場人物に語らせてもいる(その無限の空間が本書の最後の方に出てくる)。いずれも、ジョン・コナリー自身の物語や本、そして人間という存在にたいする思いであることはいうまでもない。

 いま流行りの「マルチバース」ものなのか、と読みはじめた当初は考えたのだが、そうではなかった。誰もが、自分自身の物語を、本をもっているのだ。この数年、あまりにもたくさんの物語が理不尽にも途中で終わってしまった。

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