ダメ人間でもうまく行く
脚本家になるのは本当に難しいのか
先日noteで連載をスタートした脚本講座の中で、「脚本家になるのは難しい」と書きました。もちろんそれは嘘ではないのですが、一方で「そうだっけ?」と逆の思いも湧いてきました。
「脚本家なんて簡単になれるよ」と言ったら明らかに嘘なのですが、では僕が苦難にもめげず努力を続ける意思の強い人間だったから脚本家になれたのかというと、そんなことは全然ないからです。どちらかというと僕は適当でサボリ癖のある人間です。
ではなぜそんな人間が脚本家になれたのだろうかと、改めて自分の過去を振り返って考えてみました。そうすると、ダメ人間でも、というより「ダメ人間だったから」だということがわりました。
進学校の落ちこぼれだった過去
僕が入った学校は中学・高校一貫教育の進学校でした。ここで真面目に一所懸命勉強すれば、東大に入れるような学校です。東大は無理でも京大、阪大にはかなりの人数が合格します。
僕は中学に入った途端に落ちこぼれました。とにかく勉強が面白くないのです。勉強ができないというより、面白くないのでやりたくないのです。
「映画」だけが逃げ道
その代わりに何をしたかというと映画を見ることです。中一のときにブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』を見て映画にはまり、それからは休みの日に映画を見に行くだけでなく、授業中も授業を聞かずにぼーっと映画のことばかり考えていました。周りは真面目に勉強する生徒ばかりなので当然成績は最下位クラスです。
結果オーライ?
しかし結果的には、吸収力が高く多感な十代の時期に映画をたくさん見て映画のことばかり考えていたことが、後に脚本家になる上で大きな力になりました。
図Aは、勉強家が中一から高三まで勉強を積み上げた結果、東大合格のレベルに達するのをイメージ化したものです。
一方、僕の場合は図Bです。
僕はろくに勉強しなかったので入った大学は関西学院でした。関学は世間では一流と言われる大学ですが、頑張れば東大に行ける進学校でいい加減にしか勉強しなかったので入れたのが関学だったのです。グラフの線が高三あたりで急に上昇しているのは、さすがにどこかの大学に入らなければまずいと思って多少受験勉強に力を入れたということを表しています。で、勉強家が勉強に費やす残りの時間を、僕の場合は映画を見て映画のことを考えることに費やしていたのです。その結果脚本家になれたということです。
単なる時間配分の問題?
僕は中学の頃にはすでに将来は映画監督か脚本家になりたいと思っていましたが、「将来の夢の実現のために頑張って映画を見よう」などと思って努力して映画を見たわけではありません。ただ勉強するのが嫌で、大好きな映画に逃げていただけなのです。水が低いところに流れるように「ダメ人間がダメなことをしていただけ」なのです。
しかし、結果的にはこの頃映画に多くを時間配分したことが、脚本を書く力の土台になっています。脚本家になったのは32歳のときなので、高校卒業の時点で脚本家になる能力を得たということではありませんが、土台になっているのは確かです。
親も教師も僕が映画を見ることに対して「映画を見るのは素晴らしいことだ。どんどん見ろ」などとは言いませんでした。「映画ばかり見てどうする。もっと勉強しないと将来どうなる」と批判されるばかりでした。一方、東大を目差して勉強することは賞賛されることです。その時点で良いとされるか悪いとされるかは、後の結果のよしあしとは全然関係ないことだったのです。
なぜ自分を貫いたのか
それだけ親や教師から批判されても、僕は「そうだな、ちょっとは勉強しないとまずいな」と思って映画を見る時間を減らして勉強の時間を増やしたりはしませんでした。あくまで勉強をサボって映画に逃げるという方針?を変えなかったのです。これは今になるとちょっと不思議なことです。
それだけ映画が好きだったのか、またはそれだけ勉強が嫌いだったのか。一度決めたことを曲げない意思の強い人間だったからではないことは確かです。好きなことがとことん好きで、好きなことだけをして生きて行きたいと思う傾向が非常に強い人間だったようです。
いずれにせよあの頃大人の言うことに素直に従って勉強時間を増やしていたら、僕は脚本家にはなっていなかったでしょう。
原因と結果の法則は不変
ここに書いた「ダメ人間でもうまく行く」というのはどちらかと言えば人に希望を与える話でしょう。その反面、「努力とか強い意思でないにせよ、あんたは十代という早い時期からそれをやっていたからうまく行ったということでしょ」という意見も出て来そうです。それは確かにそうです。
僕の例から言えるのは、やはり「結果」には必ず「原因」があるということです。意図的にせよそうでないにせよ、ある結果が生まれるには何かその原因があります。ある目標を持ったら、それを達成する原因を作るしかありません。そして、それを「努力」とか「頑張り」ではなく、楽しく効率的にやる方法がきっと何かあると思います。