TSUCHIGUMO~夜明けのないまち~ 16
16
勇助は混乱し、固まった。さっき部屋に残してきたはずの一条が、なぜ半裸で目の前に現れたのか。しかもこんな非常時に。
「お前、何して──」
勇助が事情を尋ねようとした瞬間、恥ずかしそうに体を隠していた一条が、何か吹っ切れたように勇助へ飛びかかってきた。
「なっ……!」
とっさのことで反応できず、二人は床に倒れた。一条が馬乗りになる。
ほの暗い廊下の明かりの下、凹凸のはっきりした体が艶めかしい陰影を作っている。柔らかい尻が、勇助の腹に乗っている。
女性経験の乏しい男子には強すぎる刺激だが、そんな至福の時を味わっている余裕は無かった。
「先輩、脱いでください、早く!」
一条が勇助のワイシャツに手をかけ、ボタンを外そうとしてきたのだ。
「お前、こんな時に何してんだよ! 今、スメルラヴァーズとかいう奴らがこっちに来てんだぞ。たぶんあいつら、この臭いに釣られたんだ!」
うろたえ、勇助は抵抗した。
「だったらなおさら脱いでください!」
「だから、何でだよ!」
「ああ、しゃらくさい!」
一条は勇助の手を素早くどかすと、思い切りシャツを中央から引きちぎろうとした。
生地が裂けてもおかしくなかったのだが、このゲームの設定により外部から衣服を破壊、あるいは脱がすような行為はできないようになっている。おそらくプレーヤー同士の攻撃が効かないのと同じ理由だろう。
「わかったから、理由を言えよ! こっちも切迫してんだよ!」
勇助はメニュー画面を操作し、シャツの装備を解除した。
シャツが勝手に脱げ、二人のすぐ横に落ちていた。
「し、下も!」
一条が勇助のズボンを指差して言った。
「はあ? お前まさか、この状況でアレを──」
「アレって何すか!? 臭いっすよ、臭い! 臭いを排除するためです!」
一条は首を強く振って否定した。
「このすっごい臭いの原因は、自分たちが着てる服にあったんすよ」
勇助はその一言でようやく理解した。
「服──そ、そうか、カメムシの汁か!」
先程から続いていた強烈な臭いの原因は、服に付いた汁にあったのだ。
「そうっす。だから早く解除して、とりあえず、部屋にでも放り込みましょう」
「わ、わかった」
勇助は慌てて学生服のズボンを装備解除した。白いトランクス一枚だけが残る。
脱げたシャツとズボンを一条が抱え、廊下を走って行った。
だが、すぐにそのままの格好で戻ってきた。
「来た……来ちゃったっす!」
「おいおいおい……」
勇助は廊下の曲がり角から顔を出した。反対側の曲がり角から、何本か敵の鼻先が見えている。ゆらゆらと揺れながら、複数の「良いにおい……」の声が重なっている。
「やるしかない、か」
「そうっすね」
一条が勇助の制服を床に置く。二人でそれぞれ武器を出現させた。
カメムシ汁の臭いは未だ残っているが、さっきよりはずっとマシだった。一条の服に付着していた分が無くなったからだろう。
おかげで一条も冷静さを取り戻しつつあるようだった。
「角を曲がってきたら、とにかくひたすら切り刻むっす。百体だろうが千体だろうが関係ない。やられるまで、殺るのみっす」
「俺も、銃弾のストックが尽きるまで援護する。万が一危なくなったら、一旦、屋根裏に逃げよう。危なっかしい奴が上で寝てるが、とりあえずはしのげそうだからな」
「危なっかしい奴?」
「今は聞かない方がいい」
曲がり角で敵を待ち受けるより、屋根裏までおびき寄せて戦った方が地の利があるとは思うのだが、その不安要素があるせいで、奥の手扱いをせざるを得ない。
もしあの『フロントマン鈴木』の死体が何かの拍子に起き上がりでもしたら──最悪だ。
一条は「そうっすか」とだけ言って、チェーンソーを構えた。勇助も鼓動やレーダー、敵の声や足音に神経を集中させた。
その時、乱暴にドアノブを回そうとする音が聞こえた。そしてすぐに、大きな音が響いた。ドアを破壊したようだ。
「自分たちが居た部屋っすね」
一条が廊下を覗きながら言った。
勇助も顔を出し、観察した。勇助たちが居た角部屋の二〇一号室に、大勢のスメルラヴァーズが侵入していく。もちろん全員が入りきるわけもなく、次々と後ろから押し寄せ、すし詰め状態だ。部屋に入りきらない余った大群は、前に並ぶ同胞の後頭部に、その長い鼻をくっつけている。そういう習性なのだろうか。
プレーヤーが居ない部屋で、連中は何をしているのか。
何かを吸引するような、ずぼっという音が聞こえた。
すると突然、スメルラヴァーズたちの体が深紅に染まり、「イイニオイ」の声が一斉に大きくなった。まるで軍隊のようだ。
軍人たちが、こちらに向きを変えた。
ぞっとしたが、同時に勇助は閃いた。
「やっぱりあいつら、カメムシの臭いに釣られてここに来たんだな」
「何を今さら。どう見ても臭いに敏感な感じの見た目っす。それより、どうやって奴らを倒すか考えないと」
「いや、だから、奴らは臭いの発生源だけに敏感なんじゃないかと思って。臭いがするプレーヤーを求めてるなら、無人の部屋に執着するか?」
それにたぶんさっきの音は、部屋に放置されていた一条のセーラー服を吸引した音だ。
「……なるほどっすね」
一条は思案するように下を向いて呟いた。
「だからこうすれば、無茶な戦闘を避けられるかもしれないぞ」
勇助は下に落ちていた自分のシャツをズボンに包み、両脚部分を繰り返し結んで歪なボール状にした。
「いくぞ」
それを廊下の方に投げる。制服ボールは廊下の半ほどまで転がった。
「もうちょっと遠くまで投げて欲しかったっすね」
一条が言った。
「悪かったな、強肩じゃなくて」
二人は敵の様子を窺う。
二〇一号室の探索を終えた大群は、こちらに向かってきた。真っ直ぐ続く廊下の進行方向には、勇助が投げ捨てた臭い制服ボールが落ちている。
連中の足取りが心なしか速くなった。
二人の鼓動が知らせる危険レベルは4になった。苦しいくらいに、心音が鳴り響く。
深紅のスメルラヴァーズの先頭二体が、その落ちている衣服の塊を察知したようだ。
床を長い鼻で探り、まるで掃除機のように、服を吸い上げた。
ずぼぼっ、という音と共に衣服の結び目が解け、それぞれの鼻の中にシャツとズボンが吸い込まれる。
「イイニオイ、イイニオイ!」
象のように鼻を上下に揺らしながら、大群が吠えた。
宿全体がびりびりと震える。
勇助と一条は、かたずをのんでその様子を見ていた。
「頼むから、そのまま帰ってくれよ……」
勇助が願いを込めて呟く。
ところが連中は、鼻で周囲を探りながら、再び前進を始めてしまった。
「マジかよ……!」
勇助は舌打ちし、銃を構えた。臭いの元を取り除けば帰ると思ったのだが。
「先輩、もしかして臭いが付いてるのって、服だけじゃないとか?」
「え?」
一条はそう言うと、突然正面から勇助を抱きしめた。つま先立ちで、チェーンソーは床に置き去り。
「……!?」
言葉が出なかった。
どうやら一条は、勇助の頭を嗅いでいるらしい。
一条の肌と勇助の肌がぴたりとくっついている。すべすべの肌。ゲームの中とは思えない質感。
すぐ目下に、一条の胸。
間近で女子の胸の谷間を見たのは初めてだ。女性経験の無い男子高校生にとっては、これこそ魔物。あやうく、今日このまま死んでもいいとさえ思いそうになった。
「髪は臭くないっすね。あとは……パンツっすか」
一条はそう言ってしゃがみ込んだ。
え、まさか──と思った瞬間、一条は振り返り、チェーンソーを手にした。
曲がり角を隔てた先。
そこから、揺れる鼻先がちらりと二、三本見えた。ぎしぎしという廊下の軋みが重なる。
勇助の頭から雑念が吹き飛び、ショットガンを角に向ける。後方支援のため、一条のやや斜め後ろに立つ。
やるしかない。
これから百体単位の敵を殺し続けなければならない。
……でなければ、俺と一条は力尽きて死ぬだろう。十七歳。わけもわからず飛び込んでしまった世界で、短い人生を終える。好きな相手に、その想いを伝えることもできずに。
そんなの嫌だ。
勇助はショットガンをぎゅっと強く握った。
一体目の頭が、角からぬっと現れた。やはり目や口は無い。
一条はまだ動かずに、じっと構えて待っている。もう少し引き付けるつもりだろう。
敵の鼻先が上や下に動き、ふんふんと臭いを嗅いでいる。
勇助は武器を構えたまま、静かにその時を待った。ゲームの中でなければ、息を詰めて、体中にじっとりと汗をかいていただろう。
一条の体がぴくりと動いた。
始まるか──!
一条が姿勢を低く落とし、一歩踏み込む──が、その瞬間、敵の鼻がひゅっと角から引っ込んだ。
「へ?」
二人はその姿勢のまま、しばし呆気に取られていた。なんと無数の足音が、少しずつ遠ざかっていくのだ。
レーダーを見ると、細い廊下の形に合わせて密集している赤い点の大群が、ゆらゆらと反対方向へ進んでいる。
何分間そうしていただろうか。
赤点の数々がレーダー円上から消えた時、ようやく二人は武器を収め、へろへろとへたり込んだ。
「助かったんだな……」
「そうみたいっすね」
「思わせぶりな動きしやがって。寿命が縮んだな」
こんなことが続くなら、仮に現実に戻れたところで長生きできないかもしれない。
「きっと、臭いの残りが少しあったんすね。だからこっちまで来たけど、やっぱり何も感じなくなって、引き返したってところっすか」
一条は静かになった廊下の先を、四つん這いの姿勢で覗いた。 ……ピンチを切り抜けたからといって、気を抜きすぎだ。自分が今どんな格好をしているのか忘れている。
勇助は目のやり場に困り、下を向いた。
「あれ……? ちょっと待っててください」
一条はそう言い、一人で廊下の先へ行ってしまった。
「どうしたんだ?」
勇助が首をかしげていると、すぐに彼女は戻ってきた。
「報告します」
移動の間に自分の格好を思い出したのか、一条は角から顔だけ出して言う。
「はい、どうぞ」
「ドアが大破していて、現在、自分たちの部屋にはプライバシーがありません」
「そうか」
出費は痛いが、念のため部屋を変えるべきだろう。
「あと、もう一つ重大な報告が」
「もう一つ?」
「自分たちの服が無いっす。奴らに持って行かれたみたいっす」
勇助は頭を抱え、「そうか」と嘆息混じりに返した。
(次回、服が無い二人はこれからどうするのか。新たな服は手に入るのか──17につづく)
表紙画 : 梅澤まゆみ
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