廃棄物と廃材で使ったものを作ってアートと呼ぶのは薄汚れた心を持つ人間だけ

誰かに必要とされる生き方でありたいと思うこと
それは誰かに必要とされることではない
それに気づいていない時
すでに真逆の存在になっている

人間に対する需要は
役割によって変化する
「遊ぶ友達が欲しい」時に
「勉強を教えられる人」は必要ない
遊ぶ友達が欲しい人の力になるには
一緒に遊べるようになる事が
必要とされる生き方になる

もしも
一生懸命に勉強を教えられる人を目指した人間は
遊ぶ友達が欲しい人の為に生きることはできない

人間はプログラムではないので
本来は融通が利く
臨機応変に状況を鑑みて問題を解決する

しかし
同じく人間はプログラムではないので
どれだけ理屈を集めても解決しない問題がある
人間はその解決しない問題に挑み続ける生き物

と思うとしたら
それはバグだと思う
解決の放棄ができるのも人間だから

バグが起きて
「この人に必要とされたい」と思った時に
必要とされる要素が無い事に気づけない人間はどうなるか

模範解答は
必要とされる人間になればいい

不正解は当然
自分の持っているもので必要とされるためにはどうすればいいか

ただこの不正解は
手札が無くなった時に他の回答の可能性に気づける

すなわちここで発生する問題の本質は
不正解をすることではなく
不正解から正解にシフトする際に
人間としてのカロリーをどれだけ消費するかという点にある

人間は食事によってカロリーを確保できる
栄養が世界に存在する以上
永久機関である

しかし人間はプログラムではない
不調という言葉も人間は生み出さない

摩耗した意志力を補填する栄養素は
誰もが確立するわけではない

もしも
生きている理由が
誰かに必要とされることで
その需要を満たしてもいない人間が
何もわからず八百屋で魚を売り続けていたら
1000人999人が「捨てたほうがいい」というような雑巾ができあがる

雑巾になって不正解に気づいた時は
何ができるだろう

強いていうなら
「こうなるな」
と残すことだろうか

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