小説 「江ノ島フレンズ、フレンズ」
注意;作中の季節は冬ですが、参考に載せた画像は取材の都合上、夏のものになってしまっております。ご承知おきくださいますよう、よろしくお願いいたします。(いつか冬の江ノ島にも行ってみたいと思っております。)
1
「ねえ、憂花。寄り道付き合わない?」
ごった返す江ノ電の車両の中で、牧原涼香(まきはらすずか)は、いたずらっぽく笑いながら、鈴江憂花(すずえうるか)にそう提案した。
牧原涼香は、鎌倉市に住む、極めて真面目な高校2年生である。彼女の通う学校の校則は、他校に比べて比較的厳しいとされており、少しのことで注意されることも少なくない。やれ前髪が長すぎるだのスカートの丈が短かすぎるだの、必要以上に注意をされる。たいがいの生徒は必ず何か指摘を受け、高校生活の息苦しさを感じた経験を持っている。この学校に入学した者の運命と言ってもいい。
しかし、牧原涼香は入学以来、1度たりとも注意されたことがない。厳しい教師陣の目をかいくぐり、平気な顔をして、日々を過ごしている。まるで指摘する隙を与えないかのように、制服はいつも新品のようにシワひとつない。品行方正な、極めて真面目な高校2年生なのである。
そんな牧原涼香が、定期券範囲内の江ノ島で途中下車しないかと言い出したものだから、同級生の鈴江憂花は驚天動地の思いであった。
校則では、定期券は学校のある駅と自宅のある駅の往復のみにしか利用することができない。許可なく私用で途中下車することは禁じられている。江ノ島駅は、彼女たちの通学ルート上に存在するだけの通過点であり、彼女たちが下車する因果関係は何一つないように思われた。
電車はすでにホームに到着し、扉が開いていた。人でごった返した車内を、せわしなく乗客が乗り降りする。
「ねえ、憂花。寄り道、付き合わない?」
牧原涼香は、もう一度そう言った。
「え」
憂花は自身が思い描いていた『校則を破らない』という牧原涼香のイメージを超えた提案に脳が硬直し、「え」の一文字しか声を発することができなかった。
電車の扉が閉まる直前、牧原涼香は電車から飛び出した。反射的に、憂花もホームに降り立っていた。踏んだことのない駅の地面の感触が、靴越しに伝わってくる。プシュー、という音を立てて、電車が2人を置き去りにしてホームを出発する。
やってしまった、という罪悪感が、憂花の心の中に、透明な水に絵の具を垂らしたかのように広がっていった。
2
そもそも何故このようなことになったのか。憂花は回想する。1人で下校する涼香の後を追って、一緒に帰ることになったところからすべては始まったように思われた。
通学路の先を行く涼香に追いついた憂花は、涼香に声をかける。
「すーずか、一緒に帰ろう」
「わ。びっくりした。うん、帰ろう」
「冬休み入ったばっかりなのに、よく会うね。部活か何か?いや、涼香は帰宅部だっけ」
「実はお恥ずかしい話、補習なんだよね。と言っても赤点とったわけじゃなくて、理系で日本史選択って私だけだからさ。補足の居残りみたいな感じ?」
「そうなんだ。たいへんだね」
「そうでもないよ」
「いや、冬休みなのに、涼香のために来させられる先生がさ」
「そっちかーい」
「冗談冗談。私のお兄ちゃんが先生やってるんだけど、生徒がいないときも学校行かなきゃならないらしいよ。何やってるんだろうね」
「それは元蔵先生も言ってた。いろいろあるみたいだよ」
元蔵先生とは、日本史の補習を施してくれている、若い女性講師である。勤続3年目で、教諭への採用試験を受けなかったために年度末で契約が切れるので食うに困る、と生々しい嘆きを放っていたという。そのあけっぴろげすぎる素直な性格のエピソードに対して、憂花は会ったことのない元蔵講師に対して好意的な印象を抱いていた。
「憂花は? 部活?」
「うん、ちょっと図書室にね。来年の文化祭で出す小説のネタ探しをちょっと」
「あー、今年憂花が書いた小説、読んだよ。私好きだったなあ。憂花の書く文章って、独特で不思議で、私好きなんだよね」
「よせやい照れるだろ」
「私が憂花のファン1号だよ」
「えへへ、本気で照れるなあ」
「ところどころ笑えるのが味になってて、いいんだよね」
「嘘でしょ。今年の作品は一応、ゴリゴリのハード路線で書いたつもりだったんだけど」
「え、そうなの」
「え、そうだよ」
気まずい沈黙が流れた。
「と、ともかく、私は憂花の書いた小説は好きだから、次も期待してるね」
「精一杯のフォローどうも、ファン1号さん、今後とも宜しく」
そんな風に何も中身のない会話の応酬をしているうちに、駅に着いた。
電車に乗り込んだ。なんとなしに会話が途切れがちになる。
涼香は入口のドアに寄りかかって、ボーッと夕日の刺す窓からの景色を眺めている。憂花は手持ち無沙汰になり、特に用があるわけでもないが携帯を取り出し、Twitterなどをチェックする。いつもと変わらない、何の変哲もないタイムラインに退屈と安心を覚える。きっと今日も、まっすぐ帰って、冬休みの課題でも適当にやって、家族とテレビを見て、夕飯を食べ、お風呂に入って、就寝するのだろうと予感した。
そんな時だった。涼香が、ふいに何か呟いた。「奢るか」と呟いたように聞こえたが、「怒るか」「残るか」と言ったようにも聞こえた。正確に何と言葉を発したのか、聞き取れなかった。江ノ島駅に到着する直前のことだった。
「涼香、なにか言った?」
そして憂花は、途中下車に誘われた。涼香とともに、江ノ島駅に降り立っていた。校則で禁じられている、途中下車である。これまで一度も校則を破ったことのない、清く正しく、制服の折り目すら正しい牧原涼香の手によって、である。
3
改札の外に出た涼香は、夕暮れ時の江ノ島の香りを胸いっぱいに吸い込むように深呼吸をしていた。
「ねえ、うちの高校、校則厳しいんだから。途中下車寄り道禁止でしょ。制服のままウロウロしてたら生活指導のゴリラ先生に見つかっちゃうよ」
「大丈夫だよ。制服の子、他にも結構いるし、堂々としてたら案外バレないよ」
校則破りのベテランのようなことを言う涼香に、憂花はため息をつく。
「あのさ、何かあったでしょ」
「うーん、別にないよ」
「嘘つけ、校則一つ破らない涼香が急に寄り道なんて、絶対おかしいもん」
涼香は車止めの上に施された雀の装飾の頭を撫でながら笑う。
「別にそういう気分のときだってあるよ。人間だもの」
「何が人間だもの、だよ。リップクリーム一つ持ってきたことないんだから」
喫茶店や露天の立ち並ぶ歩道に出ると、平日にもかかわらず路上は人でごった返していた。外国人の比率が多いのも目についた。
「おお・・・」
涼香が少し気圧されているような気配を感じ、憂花は推測を口にした。
「涼香、もしかして江ノ島に来るの初めて?」
「う、実はね。地元だしいつでも行けると思ってたから、逆に来たことなくてさ。憂花は?」
「や、実は私も初めてなんだよね・・・」
人が往来する通りの真ん中で、憂花はスマートフォンを取り出し、涼香に近づき、セルフィーを撮った。
「どしたの急に」
「いや、なんとなく記念に。初江ノ島だからさ。で、ここまで来たら一応、寄り道付き合ってあげるよ。どこへ行くの?」
涼香は宣言するかのように憂花の方に体を向けた。
「行くんじゃなくて、登ります」
「登る?」
「そう、登ります。灯台に!」
登る?灯台に?憂花は首を傾げた。
4
江ノ島には灯台がある。涼香が呟いたのが、奢る、怒る、残る、ではなく、『登る』だったのかと憂花が得心したのは、昔ながらの写真館やおしゃれなオープンカフェ、謎のTシャツ屋さん等が雑多に立ち並ぶ通りをしばらく歩いてからのことだった。次第に海の香りが、近づいてきたように感じられる。
通りを抜けると、少し開けた場所に出た。橋が見えた。川があるのだろうか、それともすぐそこが海なのだろうか。
初めて来たという割にスタスタと歩いていく涼香に憂花はついていくしかない。
「えっと、どっちに行けばいいんだろう」
そこで初めて涼香が足を止めた。眼前には一方に横断歩道があり、もう一方には地下に通じるトンネルがあった。どちらに行けば江ノ島へ行けるのか、標識がなかったので判断しかねたが、人の往来の多さから、トンネルに入るのが正解ではないかと憂花は推測を口にした。
行ってみてダメだったら戻ればいいか、と涼香はあっさりと憂花の提案に乗った。トンネル内も人の往来は多かった。道なりに進んでいくと、少し大きな広場のような地下空間が広がっており、異国の太鼓を鳴らすパフォーマーがドコドコと太鼓を鳴らしながら自身のCDを販売していた。
「わあー」
涼香が気を取られて近づいても、異国のパフォーマーは笑顔一つ見せない。無愛想なのか、そのつっけどんな感じもパフォーマンスの一環なのか。
「わあー、じゃないよ。ほら、涼香。標識があるよ」
広場中央の柱に『東浜』『江の島』『西浜』の3つの看板が掲げられ、それぞれの方向に矢印が書いてあった。
「憂花の推測どおりだと、この方向に進めば江ノ島にたどり着けるってことかな」
「たぶんね・・・案内がざっくりしすぎてて、よくわからないけど」
「ええと、浜に寄る必要はないから、直進でいいんだよね。悩んでても仕方がない、とりあえず進んでみよう」
5
結果的に、涼香の予測はあたっていた。人の往来は、江ノ島に行った人と、帰ってくる人のものであった。トンネルを抜けるとそこは、江ノ島に通じる大きな橋へと続いていた。ここからはひたすら橋を歩いていくだけになる。
「あのさ、もう一回聞くけど」
人混みの中を歩きながら、憂花は口を開いた。空が薄暗くなりかけている。ふと目をやると、空と海の境界に、新月に限りなく近いやせ細った月が見えた。
「どうしてまた途中下車したの」
「なんでだろうねえ」
涼香の口ぶりは、本当にわかっていないようにも、はぐらかしているようにも聞こえ、憂花は釈然としない気持ちになった。
「教えてよ、なんで江ノ島に来たかったの」
「江ノ島に来たかった理由かあ・・・なんでだろう」
今度は、独り言を吐き出すように呟いた。
しばらく、沈黙が続く。人混みの喧騒だけが耳の中に入ってくる。
「なんでだろう、自分のことでもわかんないことはあるよね」
「人間だもの、って? でも、急に、灯台には登りたくなったわけだ」
「灯台には登るよ」
今度は、決意を込めたように、涼香は言う。
「なんでだろうねえ」
「うん。自分でも・・・なんでだろうねえ」
「不思議だねえ」
「不思議だなあ」
もくもくと歩きながら、憂花は言った。
「行けばわかるよ、なんで急に登りたくなったのかが」
「うん、きっとわかる。鈴江隊員、前進あるのみだよ。登ろう、登ろう!」
6
憂花は目を輝かせていた。
「見て!涼香!しらすのアイスが売ってるよ!」
「あんた急に私よりエンジョイしだしたな」
しらすのアイス、1カップ350円也。
江ノ島の入り口も入り口の屋台で、名物のしらすスイーツに引っかかった二人は、それぞれ1カップずつのしらすアイスを購入し、路上に立ち尽くした。
「ん・・・これ、どこで食べればいいんでしょうか、牧原隊員」
「ろ、路上じゃないでしょうか、鈴江隊員」
二人は少し逡巡した後、路上でアイスをぱくついた。
涼香が首をかしげる。「しらす感ある?」
「しらす感・・・ん? あとから来るよ!」
「本当だ。微妙に・・・しょっぱいというか、魚の風味が」
「絶妙に美味しい! 名物たるだけのことはありますな」
「美味しいけど」
涼香は少し赤面した。
「美味しいけど、初買食い初路上立ち食いだよ。なんだかはしたない気分だよ」
「そんな涼香を激写」
スマートフォンを構える憂花。きゃー、とわざとらしい声を上げて逃げ回る涼香。
「やめてよ!私は清く正しく、制服の折り目も正しい、校則も破ったことのない牧原涼香なんだよ!」
いやいや、それは自称しているのか、と憂花は意外に思う。遅れて、アイスの冷たさで頭痛が襲ってきた憂花は小さく叫び声を上げた。
7
「うわあ、けっこう登るなあ」
名物のしらすコロッケを頬張りながら、山なりに建設された神社の鳥居に続く階段を見上げながら、涼香は呟く。
「って、結局食べ歩きするんかい! 校則破らずの涼香さんはどこへ行ったんですか」
「いやあ、せっかくなのでね」
「あっ見て見て! でかいしゃもじに江島神社って書いてあるよ! あはは! 大きなしゃもじ」
鳥居前の三味線を象った看板を見て、憂花が笑う。
「いや、たぶんだけど由緒正しいものじゃないかな・・・バチ当たるよ」
とりあえず二人はしゃもじの前でセフルィーを撮影し、階段を登っていく。
8
薄暗い仏像の前を抜け、階段を登っていくうちに、憂花は次第に足の筋肉に疲労を感じてきた。神社の前に出たときには、普段の運動不足が祟ってか、すでに辛みを感じていた。
「け、けっこうきついな・・・」
「そう? 大丈夫?」
対象的に、涼香は平気そうだ。
「お賽銭並びつつ休憩する? けっこう並んでるから足を止められると思うけど」
涼香は休憩を提案したが、憂花は首を横に振った。
「いや、大丈夫っす・・・ご縁もいまのところ必要ないっす」
スマホを取り出す憂花。
「一応、セルフィーはするんだ・・・」
一応、二人で自撮りをする憂花と涼香。
9
「あれ?さっきと同じところに出た?」
階段を登ると、また神社が現れた。
「また神社だね。きっといくつか建っているんだよ。あれ? 憂花、見て、なんだろう」
憂花が目をやると、いかにも『近未来を感じさせる』建物が鎮座していた。
「エスカー・・・って書いてあるね。車かな?」
「これにお金を払って乗れば、山頂まで一気に行けるんじゃないかな。100円だって! どうする?」
「山中に突如として現れた文明の利器に、私は少しテンションが上っていますよ、牧原隊員」
「偶然ですな、鈴江隊員。私もです」
「牧原隊員、小銭の用意を! ここで一気に攻め込みますぞ」
「ラジャー!」
何故かテンションの上がった二人は、エスカーなる、言ってしまえばただのエスカレーターなのだが、その機械に乗るべく「チケットくださいな」と受付のお姉さんに現金を渡し、チケットを購入した。
「では!」
「いざ!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれ? もう終わり?」
意気揚々と乗ったのは良いものの、会話が弾む間もなく、30秒足らずでエスカレーターは地上に到着してしまった。
「もっとこう、何kmもある長い特殊なエスカレーター的なやつを期待していた」
「同じく」
「普通のエスカレーターだったね」
「うん・・・」
あっさりと山頂に到着してしまい拍子抜けした二人は、無言のまま、そそくさと灯台の方へ向かう。
10
山頂は平日にもかかわらず、江ノ島駅前同様、老若男女でごった返していた。灯台に登るにはチケットが必要で、灯台へ登るには待ち時間が30分と書かれていた。
「え、こんなに待つの!」
「急いで買って、急いで並ぼう!」
中華風の庭園を楽しむのもそこそこに、慌てて長蛇の列の最後尾に並ぶと、続々と後ろに観光客が並んだ。
「いつになったら登れるのか、ぜんぜん先が見えないね。ねえ、涼香・・・?」
突然のことだった。
涼香はうつむいたまま、手袋もなく冷たくなった右手を、憂花の左手に、そっと重ねてきた。
憂花は、自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。
「あの」とか「どうしたの」とか「手、冷たいよ」とか、何かを言いたかったが、なにか一言発しただけで、しゃぼん玉がすぐにはじけてしまうかのように、繋いだ手が離れてしまうような、そんな儚さを感じて、憂花は何も言葉を発することができなかった。
先程までとは打って変わって、列に並んでいる間、二人は目を合わせることもなく、一言も発することもなく、ずっと、手を繋いでいた。
歩を進める途中で、少しだけ、涼香の手を握る力が、ぎゅっと強くなるように感じられた。憂花は、釈然としない居心地の悪さと、涼香の意図はわからないが、不安を払拭するように自分にすがってくるように絡められた手の居心地の良さとを覚え、不思議な気持ちになった。
太陽が、完全に沈んでゆく。
11
灯台の上にはエレベーターで登った。登った先で、更に階段を登ると、吹きさらしの展望台に出た。
灯台の最上階から、江島駅方面を見下ろす二人。涼香が一歩、前に出て、身を乗り出した。
江ノ島に向かう途上で歩いた橋が小さく見え、その上にうっすらと歩道の明かりがついていた。その先にほんのりと街がライトアップしてかたちが浮かび上がっている。薄ぼんやりとしたその夜景は、なんとも形容しがたいきらめきを放っていた。
「そっか、こっち側から見た向こう側って、こんな感じなんだ」
涼香が呟いた。
「うん」
しばらく沈黙が続くが、何分も経たないうちに涼香が提案した。
「降りよ」
「え? もういいの? せっかく来たのに」
涼香が踵を返した。
「うん、もういいの。降りよう」
12
地上に続く螺旋階段を降りながら、強風に負けないよう、憂花は声を張り上げる。
「わかったの?涼香、どうして灯台に登りたくなったのか」
「ううん」
「わからなかったの」
「ううん、実はね、もともとわかってたと思うんだ。理由」
「うん」
「ずっと見てみたかったんだよね。江ノ電で通るたびにさ、遠くの江ノ島にぼんやりと見えるあの灯台から、こっち側の景色はどういう風に見えるんだろうって。知らなかった。こっちから見ると、あんなふうに見えるんだ、あっち側」
それから二人はひたすらに歩き、ふもとへ降り、橋を渡り、トンネルを抜けて、開けた通りへと戻ってきていた。食べ歩きをしたはずなのに、ひどくお腹が減っているように感じられた。あたりはすっかり暗くなっていた。
振り返ると、江ノ島の山頂に、灯台が見える。きらびやかに光り輝いていて、まるで手の届かないところに飾られた宝石のようだと憂花は思った。
「思ってたのと違ったな」
「違った?」
「うん、この街の夜景ってもっとこう、キラキラしているのかと思ってた。・・・あそこから歩いて来たんだよね。遠いよな。それでもあの灯台は、綺麗なままなんだよね」
涼香が鼻を鳴らした。その瞬間、憂花は涼香が、自分の手の届かない遥か遠く、いや、高みへ登っていってしまうのではないかという恐怖に囚われた。理由はわからないが、ここで彼女を離してはならないと、本能的に察知した。
気がつくと、憂花は涼香を後ろからぎゅっと抱きしめていた。可能な限り優しく、しかし、可能な限り存在感を感じさせることのできるよう、強く。
「私がいるよ」
憂花は畳み掛けるように告げる。
「私は、ここにいるよ」
何かの判決を待つかのように、憂花の心臓は、激しく脈打っていた。憂花から、涼香の表情は見えない。しかし、なんとなく泣いているか、泣くのを我慢しているのがわかっていた。少し鼻声で、涼香が憂花に言う。
「あー、なんか私、今日謝ってばっかりだ。ごめんね、憂花。その気もないのに付き合わせちゃって。本当、ごめんね」
瞬間、憂花は理解した。すでに、涼香にとって自分は『友達』以外の何者でもないのだということ。そして『友達』以上のものにはならない。その土俵にすら上がっていないことを。
涼香が繰り返し、呟いた。
「ごめんね」
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「ごめんね、先生」
「ん? 何が?」
牧原涼香と鈴江憂花が校則を破り、江ノ島の灯台に登る数時間前。牧原涼香の唐突な謝罪に、元蔵灯里(もとくらあかり)講師は首を傾げた。
「日本史、私一人しかとってないから、冬期講習私一人で。余計な手間でしょ」
「そうだなー、冬期講習さえなければ、私もウィンターヴァケーションを楽しめるのになあ」
「えっひどい!そこは生徒のためならーってところでしょ」
元蔵灯里は、少し栗色がかったショートカットを揺らして、笑う。
「あはは、冗談冗談。あのね、だいたい授業がなくても先生に冬休みなんてないから。授業以外にも山ほど仕事があんだからね」
「そうなの?」
「そうだよー。忙しいのなんのって」
少しの間、沈黙が広がった。
「先生、先生を辞めるんでしょ。3年経つからって」
その問いに、
「そうだね。なんだ、嬉しそうだな。そんなに私がいなくなるのが嬉しいかあ」
いやいやいや、と牧原涼香は3回繰り返した。
「そんなことないって。あのさ、その後はどうなるの」
「そのあとかー、その後ね」
「あのさ」
牧原涼香は、座ったまま、机の上に寝そべるような格好になる。
「あのさ、先生が先生じゃなくなったら、私達、先生と生徒の関係じゃなくなるんだよね。だったら私達の関係もさ」
牧原涼香が言い終わらないうちに、元蔵灯里は言葉をかぶせるように言い放つ。
「悪いね、牧原」
二人の視線は合わない。いや、合わせないように、しているのだ。
「私、婚約したんだ」
「え?」
「だから、さ」
コチコチと、教室内の時計の秒針の音だけが響いていた。正確に1秒ずつ刻んでいるはずのその音で、ほんの数秒しか立っていないことは認識できるが、二人にはその沈黙が永遠のもののように感じられていた。
「あ、ああ、そうなんだ。いや、なんだ。私達てっきり・・・ていうか、そうなんだ。よかったじゃん、先生」
牧原涼香は、笑った。「じゃあ、これまで通り『友達』ってことで、さ」そう、笑ってみせた。元蔵灯里は、まだ、目を合わせてはくれなかった。
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鈴江憂花は、校門の近くでスマートフォンをいじりながら、牧原涼香を待っていた。待ち合わせなどの予定はない。部活動なども口実に過ぎなかった。冬休み中であっても、牧原涼香に会う理由ができるのならば、なんでもよかったのだ。ふと顔をあげると、牧原涼香が帰宅する背中が見えた。
まずい、出てきたことに気が付かなかった。
鞄にスマートフォンをしまい、通学路の先を行く涼香に走って追いついた鈴江憂花は、少し息を切らしながら、まるで久しぶりに飼い主に会った子犬のように、牧原涼香に声をかける。
「すーずか、一緒に帰ろう」
「わ。びっくりした。うん、帰ろう」
「冬休み入ったばっかりなのに、よく会うね」
鈴江憂花は、顔を綻ばせる。
終