エッセイ「ジブリ映画『もののけ姫』とサウスパーク『恋するケニーの熱帯夜』の話
自然嫌いの僕が「もののけ姫」を見た
いま、劇場でジブリの映画がリバイバル公開されていますね。こんな機会でもないとジブリ映画を劇場の高品質な環境で見ることは出来まい!ということで、昨日のレイトショーで「もののけ姫」を鑑賞してきました。劇場の豪華な音響や大きなスクリーンで見ることのできるジブリ作品はまた、格別の趣がありました。
流石に前回見たのが10数年前のことであるので、詳細は忘れてしまっていて、例によって「ああ、こんな映画だったのか」と様々な発見がありました。
その発見の一つとして、宮崎駿監督の自然信仰観(この言葉のセレクションで合っているかどうか、非常に疑わしいですが)についてです。宮崎監督は「自然とは人のコントロールの及ばざるもの、畏敬の念を持って接するべきものである」という価値観を確固として持っているのだなあと、今回改めて強く感じました。
言うまでもなく「たたら場」は人間の文明化のモチーフです。そしてその功罪を、善とも悪とも取れない多面的な描写で印象づける手腕は見事の一言です。作中では自然に対する明らかな敵として描かれながらも、悪役としては機能していない。「たたら場」には「たたら場」の存在意義があり、その後「もののけ姫」の世界でも避けられない文明化の一面として機能しているのです。文明化は人間の発展に避けられないプロセスであり、その進行には必ず自然への侵略が伴うものであるという描き方がなされています。ラストシーンでシシ神の首が還された後、山々が緑に生い茂り自然への畏敬を描きつつ、文明化も避けられない事象として描かれている。矛盾です。
この矛盾というのが「もののけ姫」においては非常に重要なファクターで、文明と自然との対立と調和をなんとか模索できないものか、という部分を非常にうまい塩梅で描いていると思いました(この「うまい塩梅で」という言葉にはいい意味も悪い意味もあって、それは後述したいと思います)。それはサンが「アシタカのことは好きだが人間のことは許せない」と言って、結局は森へ戻っていってしまうシーンにとても象徴されているように感じました。
さて、ここまでは客観的に見て「ああ、そうだったんだ」という感想なのですが、個人的に抱いた感想はもう少しラジカルなものでした。というのも、僕は自然があまり好きではなく、「うーん、この話は総体的に見てあまり受け入れられないな」と思ってしまったからです。
ご注意;以下、「もののけ姫」に対して肯定的ではないと思われる内容が含まれる可能性があります。不快に思われるかも知れないと思った方は、すぐにブラウザバックしてください。
僕の自然嫌いについて少しお話ししましょう。まず虫のたぐいが苦手で、触りたくもありませんし、出来れば見たくもありません。田舎の方の草むらが広がる風景なんかには心ひとつ動いたことがなく、「さっさと伐採してしまって、この辺に店や施設を建てて街を作った方が明らかに便利じゃないか?」と思います。また、舗装された道路のほうが圧倒的に好きです。砂利道やぬかるんだ泥道など足を痛めてしまうので、足を踏み入れたいと思いません。動物は好きですが、無類の動物好きと言うと少し語弊があり、獣臭かったり衛生面を考えると、基本的にあまり近寄りたいと感じたことはありません。どんな病気や寄生虫を持っているかわかったものではないからです。モンゴルで放牧をして暮らしている方のゲル(移動式のテントのような居住施設)にうかがったときに、「よく来たね、まあ食べなさい」と言われてハエがうじゃうじゃたかった乳製品のお菓子を振る舞われたり、地面に直で寝て身体が痛くなってふかふかのベッドが恋しくなったときの気持ちたるや、いまも思い起こすことができます。(おかげで海外でのイレギュラーな暮らしに耐性がついたのは、ありがたく思っていますが。)
そんなわけで、自然を無条件に礼賛するのもいかがなものか、というのが個人的な信条にあるのです。そこで、「もののけ姫」のラストも「うーん?なんだろう、この釈然としない感じは? 果たして、これでいいのか?」と思ってしまいました。
だってそうですよね。結局山々を緑に返したシシ神の力ってすげえ…やっぱり自然は大切にしなきゃな! という気分になんとなくさせられるのですが、具体的に文明と自然の調和をどの様に取っていくべきか、という部分については触れられていないのです。そこは観客が考えろ、ということなのかもしれませんが、これでは「自然はすごい! だから大事にしようね!」というところで思考がストップしてしまうお客さんも少なからず存在するはずだからです。エボシ様も「みんな、はじめからやり直しだ。ここをいい村にしよう」とか言ってますけど、自然と調和していくような価値観に改心したかのように見せかけていますが、どんな風にいい村にしていくかの具体的な方針は明言されません。「たたら場」を作る以上、結局は文明化からは逃れられないはずなのに…。
だから一見、自然と文明の調和を模索していく的なエンドに見える「うまい塩梅」の描き方になっているのですが、実は、さっぱり何も解決してないのです。そこに垣間見えるのは、やはり自然への畏敬の念という観念のテーマとしての優越性です。
テーマ曲が流れて、なんとなくいかにもそれっぽく終わってしまいますが、自然を礼賛するというのが大テーマである以上、「もののけ姫」の”その後”を想像することは非常に難しいのです。これが今回宮崎監督が仕掛けた、とてもイヤらしい「うまい塩梅」の終わらせ方なのです。宮崎監督自身も、その部分についての決着の付け方は、たぶんよくわからないままに作ってしまったんじゃないかと思います。
熱帯雨林の拡大を防ごう!キャンペーン
そうこうしているうちに、ふと思い起こされたのが、サウスパークというアニメーションのエピソード「恋するケニーの熱帯夜」です。シーズン3のエピソード1で、初出は1999年4月7日。「もののけ姫」の公開が1999年7月12日なので、サウスパークのほうが先に世に出たことになります。
簡単にエピソードの内容を説明すると、主要4人組が熱帯雨林を救う活動をしている団体と一緒にジャングルを探検していると、ガイドが蛇に噛み殺されてしまい道に迷うことに。巨大な虫や食虫植物、人食い族たちの脅威にさらされて、さんざんな目にあい、結局は熱帯雨林を開発していたブルドーザー軍団に助けてもらって改心(?)し、もう熱帯雨林なんて危険な場所はこりごりだ、開発バンザイ!という風になるという話です。エピローグの解説では、熱帯雨林では毎年3,000人の方が亡くなっており、発ガン性物質も700種類以上存在している、とテロップが出ます。
自然の脅威を少しでも知っている人は、こちらのエピソードの方が共感できるのではないでしょうか。「自然嫌い」の僕は、開発バンザイの主張がハッキリしているサウスパーク側の方が共感出来ました。「そうそう、これでいいんだよ」と。
流石に、自然嫌いの僕であっても、僕たちの生活に自然が必要不可欠であるということはわかっています。そして、さらにはこの情勢下では自然がいかにアンコントローラブルなものかということは痛いほどに思い知らされています。なので、サウスパークの主張が振り切りすぎている節があるということも重々承知しています。
それでも、自然のもたらす負の側面から目を背けて「自然ヤベェ! みんな敬おうな!」と、なんとなく映画を終わらせてしまうことは、ある種の詐術と言うか、フェアではないと今回「もののけ姫」を改めて見た僕は感じました。
「じゃあ、お前はすべての自然をさっさと伐採してしまえというのか?」といきり立つ方もいらっしゃるかもしれませんが、何もそこまでは言っていません。前述の通り、自然が僕たちの生活に必要不可欠なことは明白であり、そこを侵してまで自然を目の敵にするつもりはありません。生態系を積極的に破壊しようとか、絶滅危惧種の動物を根絶したいとも思っていません。
要はバランスなのです。文明と自然が調和してこれからの地球で共存していく態度とはいかにしてあるべきか? 自然主義を一方的に押し付けるだけではフェアではありません。文明が文明としてあるべき姿をしっかりと見定め、その倫理に反しない形で開発を進めていくべきなのです。そこで犠牲になるもの、逆に生み出されるもの。そこを文明の発展を主導する人類が判断し、文明を「文明」たらしめていくこと。それこそが本当に肝要であり、主義主張として盛り込まれるべきテーマだったのではないのでしょうか。
今回は多くのファンを持つジブリ映画に対して少し反旗を翻すような記事を書いてしまったため、不快に思われた方がいらっしゃったかも知れませんね。申し訳ありません。あくまで私個人の感想であり、以下の画像のように一笑に付してくだされば幸いでございます。
それではまた。