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「十九の散華」(八)
「父上様、母上様、嫂様、その後お変わりないでしょうか。
この前の盆休暇に帰省した折には父上の丹精込めて作られた西瓜を馳走になり、甘くて誠に美味しく頂きました。また嫂に茹でて頂いた素麺も格別の味で、本当に有り難うございました。
隊から三日も休暇を頂けたので、墓参りにも家に居た頃と同じように迎え盆、送り盆と、きちんと出来ましたことは、今思うと、ご先祖様に対してのせめてもの勤めを果たせたのかなと、心に来るものがあります。
そして、父上や母上、嫂と親しく語らいの時間を持てたことは、今の私に取って、掛け替えのない出来事だったようにも思えます。
盆休暇から戻って一週間と経たない内に、私に取って重大な決断を迫られる事態が発生しました。
その日午前の訓練が終わった十二時少し前に隊内放送があり、予備学生及び私達予科練上がりの練習生全てに対し、「搭乗員は一三〇〇、全員司令庁舎前に集合!」と声が掛かりました。
私達予科練出の同期生は食事中何事かと訝っていましたが、時刻になって庁舎前に集合すると、予備学生も含め、全部で七、八十名程の練習生が集っていました。まだ残暑は厳しい季節でしたが、この日は曇っていてさほどの暑さは感じませんでした。
司令は藤吉直四郎という少将です。開口一番、「我軍及び大日本帝国は、今や一大危機を迎えている」と告げました。「今般のマリアナ沖海戦の結果、サイパン、テニアン、グアムが落とされた」と、司令は具体的な戦況と共に日本軍が劣勢に立たされていることを強調しました。そして、「この困難な状況を打開するために、海軍で新兵器が開発された」と続けたのですが、此処まではまだ戦線の経過を伝える通常の訓示に似て、聞いている隊員一同に整列の乱れなどは起こっていませんでしたが、以下の言葉が続けられると、明らかに一隊の中に動揺が走りました。
「これは必中必殺の強力な兵器で、一機のみで、相手の空母でも戦艦でも、間違いなく撃沈できる。但しこれを使う搭乗員は、生還を期待することが出来ない」
「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」・・・・・・・・・・
生還を期待することが出来ない新兵器とは?
私達隊員一同は固唾を飲んで司令の次の言葉を待ちました。
「この新兵器を乗りこなす者は、相当な覚悟と、そして訓練とを要する。従ってこの機に搭乗せんとする者を、これより志願により選別する」
「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」・・・・・・・・・・
隊員内の動揺は収まる様子を見せませんでした。
「今から丸一日の猶予を与えるから、訓練に参加しようという意気に富んだ者は、熟慮の上、明日の正午までに、自分の名を書いた札を、司令室の俺の机の上の箱の中に入れておいてくれ―――」
「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」・・・・・・・・・・
「――だが、決して、一時の興奮や、己の名誉心から志願してはならぬ。良く良く考えてから、決めてくれ―――」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
解散となってからも、それぞれ午後の訓練に向かう練習生の間の動揺は、消えることが無いように、私には見えましたが、それは私自身も同様で、何か頭の中がこん絡がってしまったようで、その後思うように自分の考えを辿ることが出来なくなってしまいました。
零戦に乗って、勇躍華々しい空中戦を繰り広げ、その結果として、飛行機諸共海に落下し、武運拙く命を落とすこともあることは勿論私も覚悟していましたが、始めから死ぬ覚悟で、いや死ぬことを前提に出撃する、と考えたことは、それまで一度としてありませんでした。
父上、母上、嫂、私は一体どうすれば良かったのでしょうか。
家に戻って皆様とも相談したい、皆様のご助言を仰ぎたい、と切に思いました。
しかしたった一日の猶予ではそれも叶いません。
夕食は喉を通りませんでした。食事に現れない隊員もかなりの数に上っていました。
ベッドに伏せっても(此処では釣床ではなく寝床です)、勿論眠れません。周囲の殆どの隊友が、目を瞠っているように伺われました。
ふと、私は、横になりながら霞ヶ浦航空隊時代の初歩練習での、「赤トンボ」を使って行われた急降下の飛行のことを思い出していました。
単独飛行に入って最初に行った特殊飛行で、広い霞ヶ浦の一角に浮かぶ一隻の漁船に向かって、上空千二百メートル位の高度から、一直線に降下して行きました。
勿論訓練では高度百メートル位で操縦桿を引き、上昇に転じていたのですが、この時ベッドの上で思ったのは、もしあの時操縦桿を引かずにそのまま漁船に突っ込んでいたらどうなっていただろう、ということでした。
漁船に激突し、機体諸共湖水に散っていただろう。死を迎えていたかも知れない。
・・・・・・・・・・・・
しかし私はその時寝床の上で不思議と懐かしい想いを感じました。
湖水に包まれた私は決して怖がったり、苦しがったりしていませんでした。
(あ、もしかしたら死とはあのようなものなのかも知れない・・・・・・)
その時私は寝床の上で何かがすうっと目の前を通過して行くのを感じました。すると、不思議に自分でも心が落ち着いて来るのがわかりました。
私はベッドから起き上がり、兵舎を出て、司令庁舎に向かいました。手には自分の名と、「訓練を希望します」と裏に書いた、一枚の名札を持っていました。名札は飛行服や事業服に着けるために筑波に入隊時に幾枚か隊から支給されていました。
司令室は司令庁舎の二階にありました。
階段を昇って行くと、ドアが開け放され、天井からは電燈が吊るされていて、点けたままになっていました。
部屋の中央の机の上に、白い箱が置いてありました。
・・・・・・・・・・
庁舎を出て、滑走場の一つの草地に向かいました。微かな夜露に湿った草の上に座って、暫く夜空を見上げていました。
そのまま目が慣れてくると、私と同じように、草地に座って雲の空を見上げている隊員が数名居るのがわかりました。司令庁舎では中に入ってから出て来るまで、他の誰にも会いませんでしたから、私の前か、後に名札を箱に入れ、此処に来ていたのに違いありませんでした。
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特殊兵器志願の名札を入れてから、今は一週間が経っています。
父上、母上、嫂、私はあれで本当に良かったのでしょうか。
一昨日、再び司令庁舎前に集合するよう、隊員に呼び出しが掛かりました。
但し今回は新兵器の訓練の応募に志願した者だけ、という限定がありました。
集まったのはしかし前回集合した練習搭乗員とほぼ同数に近いように、私の目には見えました。欠けていたとしても、二、三名だったかと思います。
この日は隊司令ではなく、飛行長が台上に立ち、新兵器についてのより詳しい説明と、今後のその訓練予定についての話がありました。
それによると、新兵器は「○大」と呼ばれるもので、現在海軍で計画、製造中の同様の決死の兵器が他に九種あって、それらには①から⑨までの名が付いているので、今度の兵器は十番目なので、考案者の大田少尉の名を取って、そう付けられたそうです、頭部に一トンを超す爆弾を充填し、通常の機種のようにエンジンで飛ぶのではなく、尾部に装備した小型ロケット推進機で飛ぶ、一人乗りの滑空機だそうです。当然自力で長時間飛行することは出来ず、目標の敵艦までは一式陸攻(一式陸上攻撃機、八人乗り)の下部に懸吊して運び、目標地点に到着したら切り離され、操縦者諸共、敵艦に体当たりする、特攻兵器だそうです。ロケットのみの推進力で、しかも切り離されてからは高速で接敵しなければならない、高度な操縦を要する新兵器のようです。
そしてこの新兵器を扱う専用の航空隊が、十月一日から百里ヶ原航空基地に編成されることになっていて、七二一航空隊、略称で神雷隊(別名で桜花隊)、と呼ぶそうです。百里ヶ原基地は今から五年ほど前、筑波航空隊の分遣隊として、ここ友部から一部が独立して百里ヶ原に開隊された航空隊です。
この「○大」という特殊兵器は、従って単独では機能せず、一式陸攻を母機とします。またこの一式陸攻は、速度が余り出ませんから、目標地点到達前に敵戦闘機に撃たれる恐れが十分にあり、それを防ぐために、直掩機としての零戦も攻撃行動に加わるということです。従って「○大」機を扱う部隊の他に、一式陸攻と直掩機の零戦の、それぞれ別の部隊も加わった形で、七二一航空隊は編成されるということです。
選ばれて私も百里ヶ原航空基地に移るかどうかは今の所全く不明ですが、希望を出した以上、指名をされたら、勿論応じなければなりませんし、またその覚悟はもう出来ている積りです。
新たな基地に移る場合は恐らく直前に短期の休暇を与えられるかと思いますので、もしかしたらその時が、最後の御目文字になるかも知れませんが、是非とも帰省をして、皆様にお別れを述べたいと考えています。
それでは母上始め皆様、季節の変わり目に当たるこの頃、どうかお身体をお厭い下さい。
徹より」