第一部 誕生、そして分岐点もしくは回帰点へ

 第一章 帰還
 
 (一)復員
 昭和二十一年四月半ば、常磐線の土浦駅から西に向かう県道土浦-石下線(現在の土浦-坂東線)のバス道を、一人の壮年の男が歩いていた。
 見るからに復員兵とわかる、国防色の服に前つばの兵隊帽を被り、荷の詰まった雑嚢を背負って下向き加減に歩くその男こそ、二年後、この物語の謂わば主人公である横山修久の父となる横山実だった。
 一日数本しか動いていないバスを待つ余裕の無かった実は、この時故郷の九重村を目指して歩くことに決めた。真っ直ぐに辿れば二時間は掛からぬ距離の道だったが、実にはその時一つの思惑があった。
 実の妻である照乃の実家が県道沿いの集落である、上高戸にあって、歩いて帰る途中にそこに立ち寄り、復員の挨拶をして行こうと思ったのである。
 いずれかほどにも遅くなってしまった今回の復員の報告に出向く必要があるなら、早いに越したことはない。勿論本来なら真っ先に我が家に帰り、妻や父上や子どもに顔を見せるべきであろうが、この先いつ上高戸を訪れることができるか、それも不明だった。
 敗戦と同時に日本の世の中が混乱と変貌の渦に飲み込まれてしまっていたことは、実らが戦っていた、中国の西南部で終戦を迎えた実ら兵隊達には実はさほどの実感は生まれていなかった。
 八月十五日に日本がポツダム宣言を受諾したことにより、現地では部隊が投降、武装解除を余儀なくされ、以降ほぼ半年以上に渡って、部隊毎中国国民党軍の監視下に置かれ、捕虜生活を営む運命を辿った。
 投降後始めの内は、日本の軍隊はそのまま中国に留め置かれ、在留内地民同様、中国各地の居留地に移されるのでは、という噂も流れていたが、秋も深まる頃からは、邦人、軍人を問わず、日本への引揚げが決定されたようで、年が明けてからは引揚げの計画に沿った各地部隊の移動が行われ、実たちも駐留していた重慶市から、延々列車を乗り継いで上海に移り、引揚船を待って、狭い船倉の蚕棚のような枠床にぎゅう詰めになり、一両日掛けて東シナ海を渡り、ようやく本土である佐世保の地を踏むことができたが、船から降りた途端、実は思わず目頭が熱くなるほどの喜びを感じた。
〈ああ、帰って来た...〉
 廻りの戦友すべてが、同じ想いに因われているように見えた。 
 しかしながら、佐世保の駅から引揚者専用の列車で九州を博多に向かい、さらに乗り継いで山陽、東海道本線で東京、さらには上野から常磐線で土浦に降り立った時には、実は日本が敗戦により様変わりしてしまっていたことを、否が応でも感じなければならなかった。
 車窓から見えた都市の焼け跡は焦土と化した国土をまざまざと見せ付けられたし、それ以上に実が感じたのは、同胞の日本人の変わり様だった。
 駅々に停車する度に、引揚げ専用列車にも関わらず、大きな荷を背負った一般の乗客がどかどかと乗り込んで来ては、車内はすし詰め状態となったが、制止する駅員もいず、まるで無法状態という有り様だった。
 戦時中あれほどにも軍人に対し畏敬の念を示してくれていた一般市民は、最早我々復員者に対し一顧だにせず、むしろ白眼視する風情だった。--

 土浦の市街地を抜け、下高戸辺りに来ると、畑や田圃が広がる農村風景が実の前に現れた。
 下高戸、そしてそれに続く上高戸は、行政区としては土浦市内に入るが、特に上高戸は九重村と隣接する市の周辺集落の一つであり、市街地の趣きは殆どなかった。
 畑では麦がそろそろ穂を付け始め、田圃では田起こしの済んだ田も幾枚か見られた。
〈今年も間もなく田植えの季節だなあ・・・〉
 実は思わず独りごちたが、故郷に帰って来たという安堵感の一方で、これから従事する家での農作業の行方に、実は実は一抹の不安を覚えない訳には行かなかった。
 重慶からの列車や、引揚船の船倉で、部隊内の特に元一等兵や二等兵の若い兵士たちがしていた噂話が、実の耳を離れなかった。
「我々小作人にも田畑が貰えるらしい・・・」
と、ひそひそ語る彼らの表情には、単に明るいだけではない、卑屈の裏返しのような不純な笑みが含まれていたように、実には感じられた。
 地主の次男であり、長男が早逝したため跡取りとなっている今の実の立場からすれば、小作人に田畑が与えられるということは、それは地主として現在保有している農地の多くを手放すことであり、年々彼らから受け取って来た小作米がもはや我が家には入って来ないことを意味していた。
 右手に上高戸の集落に入る三叉路が見えて来た。
 この三叉路を右折し、道沿いに暫く歩くと、右手の一段高くなった敷地に、妻の実家である村中家があった。
 道を挟んで左の平地はやはり村中家所有の土地だが、納屋や物置小屋が幾棟か並んでいた。平地の先にはやはり村中家所有の田圃が五反歩ぐらいの広さで続いていた。
 と、納屋の一つから、野良着にもんぺ姿の老婦が藁を何束か抱え、出て来た。照乃の母のお留さんだった。
「・・・」
 どう挨拶したらいいのか、ふと戸惑ってしまった実に気が付いたように、
「・・・あれ、まあ、実さんかね」
とお留さんに先に挨拶された実は、直ぐに軍隊式に直立不動の姿勢を取り、
「ただいま戦地から帰りました」
と挨拶を返していた。

 小一時間後、実は再び県道土浦-石下線を西に歩いていた。
 あの後村中家の母屋に通された実は、暫くの時間村中家の家族と復員について会話をした。家の長男である高志さんも出征していたが、福岡の部隊での内地勤務だったため、終戦早々に復員が叶い、今はもう一家の主として目一杯家業に従事しているとのことだった。今日はお留さんが準備していた藁も使って、別の田で苗代を作る準備を始める作業中らしかった。
 戦争に負けたことについてはお互い一言も口にすることはなく、それよりはやはり農地改革の話で、終戦後GHQの司令で改革は急速に進んでいるようで、今年中にはもう法律が公布されるかも知れない、といったことを高志さんは話した。すでに物故していた、高志さんから見れば妹である妻の照乃達の父である村中家の先代は、元は土浦市の議員を務めていたほど政治に熱心で、高志さんもその血を受け継いでいるように実には思われたが、世の中のその方面での世事に明るかった。
 九重村に入った。
 自然に早足となるのを実は如何ともし難かった。
 故郷を離れて四年目だった。
 徴兵は二度目だった。尤も最初は近衛兵として宮城の警護に当たっていただけだったので、戦争の実感はなく、二十歳と若かったこともあって、宮城警護にあるまじき遊び心に時には誘われることもあった二年間だった。
 それから二十五歳までを嫁探しに費やし、ようやく照乃を迎えたのも束の間、帰休兵招集で二度目の応召となり、支那に送られた。
 長男の光雄が生まれたのを知らされたのは、支那の湖北の戦地でだった。
 それに気を取られ過ぎていたからでも無かったろうが、間もなくの戦線で右腕に被弾し、台湾の病院送りとなって半年間療養した。
 治療が済んで部隊に復帰してからほぼ一年、重慶で終戦を迎えた。
 上高戸に続く九重村の上広台は実家のある下堤の隣の集落だった。
<もうすぐだ...>
 逸る心を抑えるように実は上広台の中心坂を降り、花咲川に掛かる木橋を渡って下堤に入った。家は目の前だった。
 瓦作りの門を潜ると、母屋の先から続く屋敷庭に足を踏み入れた。
 と、母屋の横に繋がる炊棟の勝手口の先で、赤のタスキ掛けの若い女が掘り出した筍の皮を剥いでいるのが見えた。小作の娘のおみよだった。
 「今帰ったぞ」
 さすがに家の使用人に改まった挨拶も出来なかった実は、近づいて行くとそう声を掛けた。
「あらあ、旦那さんーー」
 驚いて立ち上がったおみよは、そう声を上げ、勝手口の方へと駆けて行きながら、「奥さあん、旦那さんが帰られましたあ」と声を張り上げた。
 それを聞いて、妻の照乃、続いて妹の富江が、駆けるようにして勝手口に出て来た。照乃は男の幼児を負ぶっていた。
「お帰んなさい」「兄さん、お帰り」
「今帰ったよ」
 言いながら実は、<あれが光雄か>と照乃が負ぶっていた男の子を見ながら思った。男の子はきょとんとしたような顔を実に向けていた。
 照乃が実に幼児を抱かせようと思ってか、負い紐を解こうとするので、実は自分も背負っていた雑嚢を肩から下ろそうとした。
 その時声を聞き付けたのか、家に寝泊まりするもう一人の小作の使用人である敬三が、炊棟の裏手から庭を伝って駆け付けて来た。
「旦那さん、お帰りなせえ」
 敬三は深々と頭を下げた。炊棟の裏手にある牛小屋で牛の世話をしていたようで、野良着に藁が付いていた。
 実の父と母、そして祖母は、身体のこともあってか、そこへは顔を出さなかった。
 実は自分の息子をその時初めて抱いた。

 実は母屋の玄関口に廻ると入口で
「只今帰りました」
と声を上げた。
 土間と表座敷を仕切る腰障子は開かれていて、やがて座敷に実の父と母、少し遅れて祖母が姿を見せた。
 畏まった挨拶をしなければならないと思った実は、土間の靴脱口で兵隊靴を脱ぎ、座敷に上がると正座した。
「只今戦地の支那から戻って来ました」
と手を着いて挨拶した。
「うん、ご苦労だった」
 袷を着た父親が言うと、
「ご苦労様でした」「ご苦労でしたのお」
と着物姿の母と祖母もそう言って実に挨拶した。
 実の祖母は七十を疾うに越し八十を目の前にしていたし、母親は重い病に侵され、寝たり起きたりの生活がもう五、六年は続いていた。医者は重篤な腎臓病と診断を下していたが、どうやら不治の病のようだった。
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 父の後で何年か振りで我が家の風呂に浸かった実は、清々した気分で膳の前に座った。
 板の間の上座から父と祖母と母、そして実と照乃、妹の富江の膳が並んだ。
 出征の時は盛大に赤飯で祝ってもらっていたが、今はありきたりの汁と菜の他は、先程おみのが皮を剥いでいた、筍を入れて炊いた飯が椀に盛られているだけだった。
「まあ、兎に角無事に戻って来て良かった」
 父親がそう言って実の杯に熱燗を注いだ。
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 夕食が済むと実は書院に向かった。
 横山家は母屋の他に棟続きの書院と呼ばれた別棟を持っていて、畳敷きの渡り廊下で繋がっていた。書院は独自に外から出入りできる、母屋の玄関同様の東向きの上り框を持ち、その先に三畳の小部屋と、八畳の二間、それに裏手の西端に広縁と独自の便所とを付けていた。
 渡り廊下が小部屋と繋がり、手前の八畳間が実達夫婦の寝間になっていた。奥の八畳間は普段は誰も使わない客間で、どちらの八畳間にも押し入れがそれぞれ付いていた。
 床に就いた実は、何年か振りで身を横たえる布団の温もりに改めて帰還の喜びを感じた。軽い酔いがその喜びを倍加させていた。
 うとうとし始めた頃、光雄を抱いた照乃が部屋に入って来た。
 起き上がって、改めて光雄を抱いてみたが、光雄は実に懐く様子を見せなかった。
<三年も逢えずにいたんだ。仕方ないか>
 実は光雄を妻の寝床に戻した。
 照乃の方と言えば、ようやくにして水入らずで夫婦と子供三人、川の字になって寝めることに安堵と満足を覚えていた。
<これからはこうして当たり前の夜を過ごせる>
 夫である実が出征してからは、同じ三人で川の字になって寝むとしても、向い側に寝るのは義母か祖母に限られていたのだった。

   第一章(二)に続く







 





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