「探偵とごはん」(再録)
2016年10月に発行したニンジャスレイヤー二次創作ファンジンの再録になります。
ガンドーさんが、シキベさんやフジキドやクルゼ所長とごはんを食べる短編集です。
続編めいたものが↓
1.
けたたましいアラーム音がガンドーを眠りから引きずり出した。唸り声とともに、太い腕が騒音の方向へと伸ばされる。
(うるせえ)
未だ瞼は閉じたまま、ガンドーは何故起きねばならないのかをぼんやりと考えた。ばしばしと己の手がサイドテーブルを叩く音がアラーム音に重なったが、肝心の目覚ましには届いていない。
(誰だこんなもんセットしやがったのは)
ニューロンが緩慢に覚醒してくるに従って、頭痛も彼を襲い始めた。寝起きのZBR切れの症状だ。甲高い電子音と頭痛のハーモニーは最悪に近いものだ。ここに二日酔いの嘔吐感まで加わっていれば完璧な最悪になる。手は未だ音を止められない。
(アー、この目覚ましをセットしたのは俺だ。つまり俺には起きる理由があるはずだ)
ここのところ急ぎの依頼など入っていない。朝から捜査に出かける必要はないのだ。自ずと目が覚めてから動けばいいだろう。来客の予定もないはずだ。
(客……?)
ようやく指先が何かに当たった。おそらくこれが音源だ。勢い込んで近くをやみくもに叩いたが、手には目当てのものを押しやって遠ざけた感触がもたらされた。床に何かが転がる音が続いた。
「クソッ」
ガンドーは悪態をつくと渋々片目を開いて体を起こした。古びた医療用パイプベッドが彼の巨体に不満を述べるようにお決まりの軋みを立てた。頭痛。ZBRはどこだ。騒音が続いている。ぶつぶつとブッダへの不平を呟きながら寝床を出たガンドーは、床に転がる目覚まし時計を掴むと乱暴にアラームボタンを叩いた。ようやく騒音はおさまった。頭痛は変わらない。
「何だってんだまったく…」
時計は午前八時五十分を示していた。デジタル表示の数字の並びを眺めながら、曖昧にガンドーは思案する。この時間に起きる理由とは? 客でも来るというのか?
いや、客ではない。客ではないが……ZBR切れのままのろのろと動いていたニューロンがようやく答を見つけ出すのと、事務所の出入り口のロックが外された音が響くのは同時だった。
「オハヨーゴザイマス。……まだ寝てんスかね」
「起きてるぜ! オハヨ!」
起床済みを主張したガンドーは慌ただしくシャツとスラックスを身につけると、本棚を挟んだ事務用UNIXの置かれたエリアへと顔を出した。そこでは今しがた出勤したばかりの助手のシキベが、コケシマートの袋をガサガサと開いていた。
「なんだそりゃ?」
「朝飯ッス。アー……あそこの角のコケシマート、早朝特売やってて。朝の内に昨日の特売品の、さらに売れ残りをワゴンで」
そこから取りだされたのはインスタントコーヒーの瓶にスライス済みブレッド、バイオバターなどの食材だった。ブレッドの袋を開け損ねて斜めに破った助手を見ながら、ガンドーは何とか部分的に活動しているニューロンのさらに三分の一ほどで、世界に朝飯という概念が存在することを思い出した。そういえば朝に何らかの食事を摂るという習慣も世間にはあったのだ。彼も昔はそのような習慣のあった時期があったはずだった。そして、この助手はそうした習慣を保持しているらしいということと、通勤途中に特売品を購入してそのまま職場で食べるという判断は合理的であるということも、ガンドーはぼんやりと理解した。この助手が事務所へ来てまだ二週間ほどだ。大まかなところは以前から知ってはいたが、細かい行動パターンには未知のものが多い。ガンドーの残り三分の二のニューロンはZBRのありかを考えていた。
簡易キッチンに作りつけられた戸棚はZBRストックの保管場所のひとつのはずだ。大柄なガンドーが自分の目線の高さの戸棚を覗きこんでいると、腹の側にボーダーニットに包まれた助手の腕が伸びてきた。古びたトースターにブレッドを入れている。この助手の服装はいつもながら体の線がほとんど出ないものだ。腕回りも余分な空間があるようで、袖口のサイズとそこから伸びる手首の太さはかなり食い違っていた。
「そいつは動くのか? 大分使ってねえぞ」
「ウェー……マジスか。掃除は昨日したんスけど」
シキベがトースターのスイッチ兼タイマーを捻ると、機械式タイマーがいささか軋んだ作動音を出しはじめ、加熱部が点灯した。どうやらこのトースターはまだ何とか生きていたようだ。置き忘れられたままホコリを被ったガラクタの中にも、まだ使えるものがあったということだ。
ガンドーが巨躯をしゃがみこませてシンク下の収納を漁っていると、横に助手の足が来て彼の頭上から食器を取りだす音が聞こえた。若干不穏な衝撃音も混ざったが、破損には至らなかったようだ。ZBRはまだ見つからない。推理机の脇に据えたキャビネットを開くために、手前に積まれたジャンク基盤の山とガンドーが格闘するころにはコーヒーの香りが漂ってきた。先ほどの特売のインスタントコーヒーのものだろうが、それでもコーヒーの香りは好ましいものだった。このように頭痛に悩まされている時にも。
トースターから軽快というにはややひび割れたベル音が聞こえた時、ガンドーはようやく開いたキャビネットの中に腕を突っ込んでいた。サイバネやUNIXの古いカタログの奥を探るが、ここにもZBRはない。後はどこが考えられるだろうか。助手に尋ねるかガンドーは思案する。みっともない真似はできるだけ避けたいと躊躇する気持ちもあった。今日は助手の出勤時にも寝過ごしているという失態はぎりぎりで避けられたのだ。このペースを保ちたい。
彼は数日前にインターホンや電話を鳴らされても助手を閉め出したまま昼近くまで寝過ごすという不始末をしでかしていた。ようやく飛び起きたガンドーが事務所の入り口を開いた時、シキベは龕灯を手にした鴉の描かれた看板に寄りかかってペーパーバック読んでいた。そして顔を上げて寝起きのガンドーを見ると、眉根を大げさに寄せて無言で溜息をついた。二度としないと断言する自信のなかったガンドーは、彼女に事務所のスペアキーを渡しておくという合理的な解決法を選択した。
そんな事態から間もないうちは、ガンドーはできればあまり情けない姿は回避したかった。しかし、事務所内の物品のありかについては、来てさほど時間の経っていないあの助手の方が把握していることも多い。ガンドーはさりげなく聞き出そうと決めた。
おもむろに助手へと向き直ったガンドーは、二枚の皿に乗せられたバタートーストと、二つのマグカップに入れられたコーヒーに困惑した。
「ア?」
皿もカップも、それぞれ大きさも色もバラバラの、ガンドーがかつてどこからか拾ってきたか譲られるかしたものだった。不揃いな食器に、同じようにバターの塗られたトーストが置かれ、同じようなブラックコーヒーが入っていた。
「朝飯ッス」
「……朝飯。ああ、朝飯な」
「所長も朝飯まだなんじゃないスか」
「ああ、そうだが……」
「所長の分も焼いちゃったから食ってください」
朝食という概念が自分と結びつくものでもあるらしいことを、ガンドーのZBR切れのニューロンはようやく理解した。今すぐにZBRのありかを尋ねて即座に純度の高いZBRを血管に流し込みたい。彼にはその欲求は確かにあった。だが、今更ではあるがブザマはできれば見せたくないという逡巡と、予期せぬ光景に戸惑う鈍い思考は、結局彼女に言われるがままにする方を選んだ。シキベは特に押しが強いというわけではないが、こうした有無を言わさぬアトモスフィアを纏うことがあった。渋るガンドーに三ヶ月だけという留保をつけさせつつも、助手として雇用することを認めさせたのもこれだった。
「アー……これ、使うなら」
席に着いたガンドーに差し出されたのはアンコの缶だった。買い置きしてあったものを見つけたのだろう。オハギと比べれば子供だましめいた純度のこれは、ZBRには遠く及ばないものの、しかし頭痛や朝の倦怠に多少はキく。ガンドーはアンコ缶に続いて差し出された大振りのスプーンでアンコを掬うと、黒い甘味をトーストの上にべったりと広げた。
ガンドーが大きな口を開いてアンコトーストに齧り付くと、アンコの甘さが即座にニューロンに響いた。イイ。続けてもう一口。恍惚や酩酊の域には遥かに遠いが、頭痛は遠ざかった。もっとだ。
ガンドーがアンコトーストを咀嚼し嚥下し終えた時、助手はまだバタートーストを齧っている途中だった。食べる合間にコーヒーを啜りながら自分を見ているシキベの視線に、ガンドーは少し落ち着かない気分になった。視線の色は非難や軽蔑というわけではないが、では何であるのかというと判然としなかった。彼女はマグカップやトーストに、あるいは皿に落ちたパンくずに視線を動かすこともあるが、主にガンドーを見ている。
この助手の感情や思考を読むのは難度が高い。彼女の口調も態度もティーンエイジャー男子めいたぶっきらぼうなものであるが、特に表情に乏しいというわけでもないし、感情の隠蔽や偽装を意図的に行っている様子はない。思考パターンが常軌を逸しているということもない。既に幾度も見ている疑問や呆れの表情などは、探偵ならずとも苦労なく察せられる程度に分かりやすいのだ。だが、わざわざ時代から取り残された探偵事務所で働きたいと思う変わり者の若い女の心理というものは、ガンドーにとっては実際不明瞭な部分が多すぎた。
今は彼女は何を思っているのか? その不確かさは落ち着かないものであったし、興味を引かれる小さな謎でもあった。凝視にならぬよう、周辺視野で助手を観察しつつ、ガンドーはコーヒーに手を伸ばした。アンコに加えてカフェインも流し込めば少しは頭も動くかと思ったのだ。一口、二口と熱く黒い液体を口に含む。甘味の後の苦味は好ましいものだし、寝起きの回らない頭にコーヒーの香りと味は程よい刺激だ。悪くない。
トーストを咀嚼しながら、わずかに傾いたセルフレーム眼鏡越しにガンドーを眺めていたシキベは、視線を少しばかり和らげたように見えた。そこには幾ばくかの安堵の色があるようだった。そして彼女はトーストの最後の一口……いや二口を飲み込んだ。そもそもこの助手は自分とは口の大きさも根本的に異なることをガンドーは知った。彼女は改めてコーヒーをゆっくりと飲み始めた。助手の視線のわずかな変化の意味は未だ分からなかったが、とりあえず悪いものではなさそうだ。ガンドーはそう判断し、この件は一旦保留することにした。喫緊の課題に着手しなければ。
「なあ、シキベ=サン」
「何スか」
「俺のZBR知らねえか?」
「…………ウェー」
2.
「どうした?」
「アー……買って帰るのかと思ったんで」
僅かに首を傾げてヤタイではない方が良かったかとガンドーが考え直しかけたところで、シキベは慌てて手を振ってその考えを否定した。
「いやって訳じゃないスよ!? ウェー……むしろ嬉しいデス。あの、ヤタイのオデンって初めてなんで。アー……前から食べてみたかったんスけど、なんか一人じゃ寄れなくて」
アンダーガイオンを横切る水路沿いには、しばしばヤタイが商いをしていた。アッパーガイオンからの排水量が増えるたびに氾濫する水路の側は、住居とするにも建物を構えて恒常的な商売を行うのにも不向きだ。それ故に、奇形生物じみた違法建築の継ぎ接ぎが密集するアンダーガイオンにあっても、水路に沿った領域にはヤタイを開くスペースがあった。
彼らが今立っているのもそうしたヤタイの横であり、そのノレンにはオスモウ体のショドーで「ん」「で」「お」と書かれていた。オデンを商うことを示す古式の表記である。
こうしたヤタイは別に客を選んでいるわけではない。座って注文すれば誰でも客だ。そうした気軽さこそがヤタイの利点の一つだ。しかし、どういった店舗にせよ、店構えと、すでに居る客たちが、この場所がどのような者のための場所なのかというアトモスフィアを醸すものだ。そして年季を感じさせる色味を帯びた木製のヤタイ、顔に気難しげな皺の多く刻まれた老境の店主と、仕事帰りの肉体労働者と思しき中年男性を主体とした客たちの作るこの空間は、確かにシキベのような若い女には不可視の敷居を感じさせるものだろう。その上、キョートには不可視の敷居が実のある暗黙の敷居となって、不用意に越えたものをシツレイと見なす場所も少なくない。
「ああ、俺のクレープと同じか」
捜査の途中で、小腹が減った時にシキベの提案で寄ったクレープヤタイのバンをガンドーは思い出した。その時にガンドーはわずかな逡巡を覚えたのだった。クレープという甘味の存在は知っていたが、自分が食べる機会はこれまでになかったし、その機会をあえて作ろうともしていなかった。取り立てて珍しい食品というわけではない。アッパーガイオンの観光地はもとより、アンダーガイオンでもしばしば通りすがりにクレープを商う店を見かけることはあった。だが、何となく、それはガンドーにとって自分が立ち寄る場所とは思われなかったのだ。
おそらくあの「何となく」を生んだのもまた、パステルカラーに塗装されたクレープバン、若い女性や子どもが熱心に見入るカラフルなメニューボードや、小奇麗なエプロンをつけて愛想よく接客する店員などの醸し出すアトモスフィアであったのだろう。そしてその時の「何となく」はシキベの「おいしそうスね」という他愛ない言葉で押しやられた。
あの時、捜査で歩き回った体には、柔らかく甘い菓子は確かに魅力的なものだった。メニューボードを眺めながら幾度かシキベに尋ねたガンドーはイチゴ・モチ・クレープを選び、シキベはブドウ・モモ・アイスクリーム・クレープを選んだ。彼らは午後のアッパーガイオンの公園でベンチに腰を下ろし、観光客の雑踏を眺めながらクレープに齧り付いた。クレープ皮はほの暖かく、中の果実はよく冷やされていた。
そして今日も彼らは捜査でアンダーガイオンからアッパーガイオンへ、そしてまたこのアンダーガイオンへと階層を越えて動き回っていた。この時刻には人工太陽の照明はすっかり落とされていた。水路沿いで商いをするヤタイから漏れるタングステン灯の明かりと、暖かな食物の存在を確かに知らせるダシ・スープの香りもまたとても魅力的なもので、ガンドーの「今日はオデンにしようぜ」との言葉に即座に助手は諾意を示したのだった。
ノレンに手をやりかけたガンドーに一旦は戸惑いを見せたシキベも、今はむしろ期待の勝る表情になっていた。改めてノレンをくぐると、彼らは並んで席に着いた。ガンドーはこうした店ではどうしても他の客よりも余分に幅をとってしまうが、今日は小柄なシキベが相殺するので、彼らはちょうど標準的な二人客分の幅を占有した。
カウンターの客席のすぐ向こうでは、間仕切りが縦横に入った大きな四角いオデン鍋に、さまざまな食材が浸っていた。湯気を揺らめかせる淡い琥珀色の透明なダシ・スープの中には、バイオダイコン、コンニャク、チクワ、ガンモドキ、コンブ、スジ肉、ハンペン、バイオジャガイモ、モチキンチャク……およそ一般的にオデン・ダネとされる品々が一通り並び、それぞれが間仕切りの中で群れめいてひしめき合っていた。さらにいくつか見慣れぬ食材もあった。
一面のオデンに、シキベは目を丸くしてじっと見入っていた。
「ウワー……アー、どれにしようか、迷っちゃいマスね…」
彼女は鍋のあちらこちらに視線を動かしながら、決めかねている様子だ。
「そういう時は店主に任せるって方法があるぜ。おやじ、お勧めを適当に。それからホット・サケを。オチョコは二つで」
「アイヨ」
店主は彼らの前にトックリとオチョコを置くと、皿に手早くいくつかのオデン・ダネを盛っていった。
「今日もお疲れさん」
ガンドーは助手のオチョコにサケを注いだ。己の分は手酌だ。
「ウェー……所長も、オツカレサマデス」
互いに小さくオチョコを掲げると、彼らは暖かいサケを口に含んだ。サケは切れ味を楽しむならば冷やす方がいいが、温めると角が取れて口当たりも香りも柔らかいものになる。大きさのかなり違う二つの疲れた体に暖かいウマミとアルコールが染みていった。
サケを酌み交わした二人の前にオデンの皿が置かれた。飾り気のない白い強化セラミック皿に盛られたオデン・ダネはヤタイの天井から吊り下げられた旧式のタングステン灯に照らされ、今すぐ食べろと誘うような湯気と香りを立ち登らせていた。彼らは揃ってそれぞれバイオダイコンを口にした。口中をまず熱さが襲い、そしてダシ・スープの染みた根菜の味が広がる。はふはふと熱さを逃がしながらダイコンを咀嚼し、飲み込んだシキベは、眼鏡を湯気で薄らと曇らせたまま呟いた。
「おいしいッス」
「うまいな」
続いてチクワ、コンニャク、スジ肉……次々に新しい味と変わらぬ熱さが口中に広がり、合間に程よく暖かいサケで一息つく。そしてまた熱いオデンを口に含む。
「アー……実際、おいしいッス。マジで」
湯気で曇った眼鏡を拭くシキベは、オデンの熱さにわずかに涙目になりながらもガンドーへ笑顔を見せた。
この助手は、新しいものに出会った時は目を輝かせ、うまいものを食った時は笑顔になる。改めて考えれば何とも単純でありふれたことではある。ガンドーは、どちらかといえば彼女からは呆れられたり小言を言われたりすることの方が多かった。だが、最近は若干こうした表情を見る回数が増えた気がした。
シキベはこうしたヤタイは初めてだという。そしてここのオデンはうまいのだ。
「何スかこれ?」
彼女が鍋の一角を指差した。そこには穴の開いた白い棒状のオデン・ダネが入っていた。形状はチクワに近いが、チクワにしては太く、長く、そして側面に歯車めいた凹凸があった。
「そいつはチクワブだ。こっちじゃあんまり見ねえが、ネオサイタマのあたりじゃメジャーなモンらしいな」
「所長はこれ食ったことあるんスか?」
「いや、知ってるってだけで実際食ったことはねえ」
ならば謎を解き明かすことが生業の探偵たる者、当然食べてみるべきだろう。彼らは早速チクワブを頼み、ハシで摘まんでしげしげと眺めた後、軽く息を吹きかけてから口に入れて噛みしめた。
「グワーッ!?」
「…………!?」
その未知の食材は、予想以上に柔らかく、弾力があり、そして内側に多くのダシ・スープを含んでいた。それも鍋から上げて間もない、熱い、熱いダシ・スープを。表面に息を吹いて適温まで冷ましたとウカツに判断した探偵とその助手を、具材内部で熱を保っていたダシ・スープが襲ったのだ。ガンドーはブザマな悲鳴をあげ、シキベは声も出せずにカウンターに突っ伏している。
彼らの醜態に、店主が小さく肩を震わして笑った。
「おやじ! 言ってくれよ!」
「いや、すまねえ。アンタらがあんまり興味津々だったからな。余計なことは言わねえで直接味わった方がいいかと思ったのさ」
店主は冷水の入ったグラスを渡しながら笑っていた。
「わびの代わりと言っちゃなんだが、こいつはオゴリだ」
ようやく落ち着いた探偵と助手に、新たなトックリが差し出された。店主は続けた。
「その嬢ちゃんがうまそうに食ってくれるしな」
未だ涙目で冷水を煽っていたシキベが、グラスを傾けたまま目を丸くした。
「新しい珍しい客が、うまそうに食ってくれるってのは嬉しいもんさ」
「……アー……」
「だとよ。ありがたくもらっときな」
「アー……エット、アリガトゴザイマス」
新たに注がれたホット・サケのオチョコを傾けたシキベは満足げな息をついた。コンブとハンペンを摘まみ、再びオチョコを口にする。店主に喜ばれたからというのでもないのだろうが、シキベは、これおいしいっスね、こっちもおいしいデスと、繰り返し語り、そうでないときは頬を膨らませてもぐもぐとオデンを噛みしめているか、サケを口にしていた。
助手がうまそうに、そして楽しそうにしているので、ガンドーもそのまま彼女と同じペースで飲み食いしていたのだが、気付くと彼女の頬はオデンの熱気によるものだけではない赤味を帯びていた。
シキベは特にサケに弱いということもなかったはずだが、同じ量のサケを飲んでいるとしても、彼女の体重はガンドーの半分もないのだ。アルコール耐性を度外視したとしても、アルコールの影響はシキベの方が強く出る。しかもガンドーは日常的に飲酒泥酔を繰り返す酒飲みだ。
そろそろ飲み過ぎなのではないか、止めて水でも飲ませるべきだろうかとガンドーは思った。だが、いつになく緩んだ顔で嬉しそうにガンモドキを食べた助手は、小さなオチョコを両手で持ってガンドーへ顔を向けるとへにゃりと笑みを浮かべた。
「アー……所長……おいしいスねェ」
「……そうだな」
ガンドーはすっかり酒がまわり始めている助手について、まあいいか、と思い直した。どうやらガンドーの体内でも、大分薄れたZBRよりも、アルコールが優勢になってきたようだった。彼女が潰れたとしても背負って帰ればいいだけだ。シキベの重さなどガンドーには荷物のうちには入らない。
ガンドーは自分も杯を煽り、暖かなダイコンを齧ると、追加のホット・サケを頼んだ。助手が調子の外れた鼻歌を歌い始めていた。
3.
「俺はキツネ・ウドン大盛りで。アンタはどうする?」
「スシを」
瞼を半分閉じた店員が注文を間延びした声で復唱して去ると、客の男二人は無料サービスのチャを啜った。アンダーガイオンの路地のくたびれた食堂でも、席についた客にはまず無料でチャを供すという奥ゆかしい飲食店のしきたりは守られている。継ぎ接ぎを繰り返した非合法建築の一角とはいえ、こうした建物を構えた店と、路上で商うヤタイを区別する重大な要素のひとつだ。
チャを啜る男の片割れは白髪の大男だ。彼が手にするとそこそこボリュームのあるはずのユノミが一回り小さく見える。同行者の男をこの店へと案内したのは、大男の方、ガンドーであった。向かいに座っている同行者も、彼と比べると目立たないが長身と呼んでよい上背と、トレンチコートの上からも察せられる鍛えられた体躯を持っていた。
ガンドーと彼の目の前で静かにチャを飲んでいる男とは、これまでにも幾度か飲食を共にしたことがあった。だが、それらはほとんど慌ただしいブリーフィングを兼ねたものであり、挙句に話の要点を把握すると同行者は即座に飛び出していくこともしばしばであって、このように食事それ自体を目的として飲食店に入るというのは初めてのことだった。
ガンドーは個人ではヤタイを利用することも少なくないが、他人と食事を共にする時はこうした食堂を選ぶこともあった。単純に選択肢が多いからだ。食事についての好みや思想は実際人それぞれだ。何を好み何を忌避するのか定かでない相手と食べるならば、とりあえず相手にも選ぶ余地が大きいほど良かろう。
この店は特に是非にと勧めるべき名物料理があるというわけでもないが、メニューの品数が多く、どれも値段の割には悪くないという使いやすい店だった。立地と店構えに比して客が絶えないのにはそれなりの理由がある。
主として選択肢の豊富さを理由に店を選んだガンドーであったが、実際のところ彼は向かいに座る鋭い視線の同行者の注文を半ば予想していた。
「アンタ、いつもスシだな」
「スシは完全食品だ」
「なるほど、合理性ってやつか」
頼んだ料理が来るまでの中途半端な時間の埋め草めいた呟きには、これまた予想通りの言葉が返ってきた。
このネオサイタマから来た男はスシを好む。彼はスシは完璧で効率的な栄養補給源であると主張した。これは一般的な常識とも合致する。ガンドーのようなニンジャに非ざる者でも彼のようなニンジャでも、そうしたところは変わらないらしい。
またこの男は食の好みとしてスシを好んでいる可能性もある。あるいは、このガイオンにあって、ネオサイタマとさほど変わらぬ食物を求めると、自ずとスシになるということかもしれない。ヴァレイ・オブ・センジンの西と東では、オーゾニのモチの形から異なることはよく知られている。
もっとも、この男はスシのみを食し、他の食品は受け付けないということは特にないようだ。彼らが今潜伏場所にしている廃ビルの一室にガンドーがオコノミ・ガレットを持ち帰った際に、アンタもどうだ、そのように勧めたところ、彼は素直に受け取って口にしていた。もっとも食べながらガンドーの調査結果を聞き、そして聞き終わると即座にニンジャを殺しに行ってしまったが。
ともあれ、このイチロー・モリタ、あるいはニンジャスレイヤーという男が自発的に選択して食べるものは主としてスシであった。
「オマチー」
先ほどの店員が料理の配膳を知らせる語を、やはり間延びした口調で告げた。彼らの前に木目風加工の施されたイミテーション・スシゲタに乗ったスシと、強化樹脂のドンブリに入ったキツネ・ウドンが置かれた。スシゲタは標準サイズのものであり、ドンブリは大盛り用の大型のものだ。
ガンドーは食事と共に運ばれたオテフキを大雑把に使うと、テーブル備え付けのワリバシを割った。ワリバシとは、扁平な細長い直方体の集成材に、縦方向の溝と切り込みを加工した使い捨てのハシである。切込みから溝にそって割ることで、一本の棒が即席の一対のハシとなる。
今日はワリバシが綺麗に割れたことにガンドーは気を良くする。ワリバシは、そのものが粗悪な品質であるか、あるいは割る人間のワザマエ次第で、不格好なアシンメトリーに割れることが少なくないのだ。また、割れた後も口に含むハシ先部分を含めた破断面に棘めいた小木片が残ることも多い。ガンドーはハシ先同士を擦り合わせて小木片の処理をした。
ガンドーと同時にオテフキを手にしていた同席者は、ガンドーがハシのセッティングを済ませた時もまだ丁寧に手を拭っていた。スシは手づかみで食すものであるから、衛生上、手の清拭は重要である。だが、ニンジャにもそれは必要なのだろうかとガンドーは訝しんだ。おそらくこの男の性分なのだろう。手の清拭を終えたニンジャスレイヤーは、広げていたオテフキを再び畳みなおして脇へ置いた。そのまま適当に置かれただけのガンドーのオテフキとは対照的だった。
油で揚げたトーフをオアゲと呼ぶが、これは古代に神獣であった狐の好物であると言われている。狐からオアゲを盗んだ鳶への苛烈な復讐の逸話で有名だ。キツネ・ウドンとはそのオアゲがトッピングされたウドンのことである。淡い赤金色の透明なウドンツユ・スープに泳ぐ、柔らかさとしなやかさを併せ持った白いウドン、その上に乗る鈍い黄金色のオアゲという色の取り合わせは実際奥ゆかしく、キョートの人びとに愛されていた。
ガンドーは早速キツネ・ウドンをズルズルと啜った。麺類は温かいうちに食べるに限る。いつも通りの味を確認したガンドーは小さく頷いた。そして、続いて啜るべきウドンをハシで手繰りながら、今目の前でスシを摘まむ男を見るともなしに眺めた。
男はいつも通り背筋を伸ばした姿勢でスシに手を伸ばしている。その手つきは実にまっとうなものだ。何らかの特別な礼儀作法の訓練を経ているほどの隙のなさではないが、さりとて無作法の気配はない。適切な教育と適切な環境の中で長く過ごしてきたのだろう。
あえてこの男の背景を詮索しようという気はガンドーにはなかったが、探偵の訓練と習慣を重ねてきたニューロンは、視界に入ったものから自ずとそうした情報を読み取った。この男とはあの夜から、ガンドーの事務所へ持ち込まれたフロッピー・ディスクをきっかけとしたザイバツ・ニンジャの襲撃の時から、行動を共にしている。四六時中生活を共にしている訳ではないものの、彼に関する様々な断片的な情報はガンドーの中に蓄積されつつあった。
ガンドーよりもよほど几帳面な性分であるらしいこの男は、ガンドーの用意した隠れ家や潜伏場所を利用した後も、散らかしたりゴミを放置したりするということはまずない。だが、ニンジャスレイヤーが滞在している時間と生ゴミ用の(ゴミの分別を始めたのもこの男である)ゴミ袋に残されたスシ・パックの様子からすると、おおよそ通常の成人男性よりもかなり多くの食事を摂っているらしいことも分かっている。そして、今、この男の前に置かれたスシは一人前だ。
ガンドーは目の前で減っていくスシを視界の端に見ながら、ウドンツユ・スープを吸った柔らかいオアゲを齧った。オアゲの甘辛い味付けと、暖かいウドンツユ・スープの奥ゆかしい滋味が絡んだ味だ。続いてウドンも啜る。淡泊寸前といった柔らかな味と程よい弾力だ。悪くない。高級なオーガニック食材など望むべくもない店であるが、バイオ食材と合成調味料も調理人のワザマエ次第で、それなりのものが作れるものだ。この店はおおよそキョートの水準と言ってよい味付けだった。しばしばこの店を利用しているガンドーが未だその姿を見たことのないこの店の調理人は、腕は確かなようだった。
今現在、ガンドーが一定のペースで啜るウドンは運ばれてきた時のおよそ半分に減ったところだった。一方で向かいの男の前に置かれたスシもまた初期の分量から半減していた。しかしスシの減る速度は序盤はガンドーのウドンが減る速度よりも若干早く、そして先ほどからその速度を落としていることにガンドーは気づいていた。
満腹が近づいたために食べる勢いが落ちた可能性もあるが、ガンドーは別の可能性を考えた。そして、ウドンを手繰り、啜る間に短く思案し、差し出がましいかと思いながらも尋ねた。
「アンタ、それで足りてるか? いやなんだ、アンタは……アレだ、飛んだり跳ねたり、運動量が多いだろ? 俺よりもかなり。なら、もっと食わねえでいいのかと思ったんだ」
問われた男はスシを摘まもうとした手を止め、ガンドーを見返した。
「アー、俺に合わせようとか気にしないでいい。それよりは食いたいだけ食ってもらった方がありがたいぜ。ニンジャの相手はアンタじゃないとできねえしな」
ガンドーは、最近になってこの男は実際とても生真面目であり、かつ遠慮深い、ということが分かってきていた。であれば、同席者に合わせるために食事の量や速度を控えるということもありうるのではないか。ガンドーの懸念はそれだった。
今日は彼らは一仕事を終えていた。ガンドー自身もクローンヤクザ相手に立ち回りを演じる羽目になり、それゆえに彼は空腹であったのだが、目の前の男はさらにニンジャを相手にガンドーの目には断片しか捉えられないイクサと殺戮を行っていた。ならばガンドー以上に食物を必要としても不思議はないはずだ。
ザイバツを潰す、全てのニンジャを殺すと、一片のジョークも交えずに語るこの男はどう考えても狂人であり、その上大抵のニンジャを容易に殺すことが出来る。従ってもし彼がガンドーを殺す気になれば一瞬で終わる。殺されたことに気づけるかどうかすら怪しいだろうとガンドーは思う。ニンジャ以外を積極的に殺す気はないようであるし、最初の出会いの時から基本的に信用できる、つまり理由なく、あるいは軽易な利害の問題でニンジャでもない者を傷つけるような奴でないことは分かっている。分かっているが、不要に踏み込んだり、ウカツな場所に触れたりしてはいけない相手である。ガンドーが己の身を守るためにも、また彼自身のモラルや配慮の上でも。
しかし、この狂気の殺戮者であり常人ならざる極めて危険なニンジャであるはずのこの男は、同時にどこかひどく奥ゆかしい面があるようだった。異邦から訪れた奥ゆかしい年少者が遠慮をしているのならば、気にするなと促すのが土地に馴染んだ年長者のやるべきことだろう、そうガンドーは思った。
いささかの緊張を持ってガンドーが鋭すぎる目つきをしたネオサイタマから来た男の様子を見守ると、彼はしばし沈黙し、そしてややあってから口を開いた。
「……私はニンジャだ。一ヶ月程度なら食べなくても活動できる。……だが、実際のところ、今はもう少し食べたいと思っていた」
おおよそこれまでにガンドーが彼から聞いた言葉は決断的で簡潔なものであった。だが、今の言葉は少し趣が違っていた。なるほどこいつは遠慮深い年下の男だ、とガンドーは幾ばくかの感慨と共に納得した。
「なら、もっと食うといいぜ」
笑みを浮かべながら、ガンドーは手を振って店員を呼んだ。
「追加で、キツネ・ウドン大盛りを頼む」
店員が来るまでのわずかな時間で残りのスシを食べ終えた男の注文を、先ほどと同じように瞼を半分閉じた店員が伝票を片手に復唱した。またスシを頼むのだろうと思っていたガンドーは虚をつかれ、わずかに瞠目して目の前の危険で遠慮深い男を見た。ガンドーが今食べているものとまったく同じメニューを頼んだ男は、一瞬目を伏せた。そして真っ直ぐにガンドーを見返して、いつも通りの真剣な顔つきで答えた。
「……オヌシが、うまそうに食べていたからな」
ガンドーは破顔し、歯を見せて笑った。
「そうだな。うまいぜ。ネオサイタマのものとはちっと違うと思うが、ガイオンはウドンもうまいんだぜ」
程なくして新しいドンブリが運ばれ、厳めしい顔つきの男はズルズルと勢いよくウドンを啜った。慣れた仕草だ。
「うまい」
「そうか」
この無愛想な男の表情の変化について、ガンドーは最近は若干判別できるようになってきたところだ。ニンジャとその非道に対する怒り以外の感情をほとんど見せないようであるが、よくよく見てみると、怒り以外の感情の起伏がないのではなく、表現が極めて控え目であるようなのだ。注意深く観察すれば、些細ではあるがそれなりに状況に応じてこの男の表情も変化していることが分かる。今ウドンを啜っている彼は少しばかりリラックスしているようだった。といっても、常に極めてシリアスなこの男の中で相対的にリラックス寄りであるというだけで、ガンドーの基準からすれば依然として全く以ってシリアスな佇まいであるのだが。
「なんにせよだ、食べるってことは大事にした方がいいぜ」
「ウム」
ガンドーはどこか愉快な気持ちになっていた。カートゥーンじみて現実離れした、しかし生々しい死と殺戮の匂いを持つニンジャであるこの男は、同席者に遠慮して飯を食う量を控え、ウドンを啜って少し寛ぐような男でもあるのだ。
ガンドーが自身のウドンの残りを目の前の男と同じようにズルズルと啜っていると、不意に声がかけられた。
「……オヌシも、ハッキングに夢中になって食事を忘れないよう注意した方がいい」
「ア? アー、こないだのアレか。アレはたまたまだって! たまたまいいところで手が離せねえ状態になっちまったわけで……」
「スシなら片手でも食べられる。仕事を中断する必要はない」
「アー、わかったわかった。次からはそうするさ」
「ウム」
ネオサイタマから来た男は満足したように頷くと、再びズルズルとウドンを啜り始めた。
4.
棒切れでも握るような形でレンゲを掴んだ少年は、次々と湯気を立てるフライドライスを口に放り込んでいった。不器用な手つきからは驚くほどの速度で。決して美しいとは言えない食べ方であるが、余さずすべてを今すぐに胃の腑に収めようとするような勢いは、見方によっては爽快感すらあっただろう。
古い文化と伝統と因習を捩り固めたこのガイオンにあっては、貪ると言っていいこの食べ様は少年の出自を如実に示していた。決してアッパーガイオンの、日の当たる整然とした歴史建築物の中に暮らす者にはあり得ない仕草である。地下の澱んだ空間に押し込められたアンダーガイオンの中でも、教育も環境も劣悪な下層出身の子どもと一目で分かる振る舞いだった。
ここはアンダーガイオンでも中層に位置する商業地区の中華料理店だ。客もまた、いい暮らしとも堅実な仕事ともいえぬが、だがとりあえず金を払って席について食事を摂るくらいのことはできる、そうしたアンダーガイオンの中流民が多かった。少年は他の客からの若干の注意を引いていた。
しかし一方で、明らかに育ちの悪いこの少年に眉をひそめ、複雑な礼儀作法プロトコルの中でスムーズに排除する機会を伺う視線もこれといってなかった。それはこの少年の痩せた体躯や飢えの気配を感じさせる行儀に反して、その身なりに薄汚れたところはなく、つまり貧困と犯罪の徴候が希薄だったからだ。彼の髪は散髪したてと思しき小ざっぱりとした短髪であり、真新しくサイズのあったまともな衣服を身につけていた。そして少年の向かいにはそれらを与えたであろうスーツの男が座っていた。彼らの関係は周囲の客からは判断し難かったが、不明瞭な存在などアンダーガイオンではまるで珍しくはなかったし、己に害を与えないであろうものなら気にすることでもなかった。そうしたことにいちいち目くじらを立てて無作法な異物を排除する余裕があるのは、アッパー暮らしの者だけだ。アンダー暮らしの者は、不要な詮索は自分の身を危うくすることにしかならないと熟知しており、当面の自分の生活以外のごたごたを視野に入れる余地など持ち合わせていないものだ。
少年の向かいで同じフライドライスを食べている顎髭の男は、痩せぎすの体を引き立てるピンストライプの細身のスーツを纏っていた。手入れの行き届いたスーツの仕立ても、脇に置かれたハットのシルエットも、見るものが見ればその質の高さが分かる品だった。飾らなさと奥ゆかしさを含んだ、華美ではないが洗練の垣間見える仕草と相まって、こちらの男は少年とは逆の形で店内の客たちから浮いていてもおかしくはなかった。しかしなぜかこの男は、少々の猥雑を含んだ日の当たらぬ場所に生きる庶民の日常の中に、自然と溶け込んでいた。
少年は皿に最後に残った数粒のコメやわずかな肉片と格闘しつつ、何とか掬って口中に収めた。わき目もふらず一気に食べ終えた少年は、そこでようやく目の前の男が未だ半ばほどしか食べ進んでいないことに気付いて戸惑ったような顔をした。
「うまかったか?」
男の言葉に少年はさらに困惑した。おそらく、うまかったのだと思う。少なくとも不快な感覚は全くなかったし、口に含んだ時の味は快いものであったと思う。少年は問われて初めて自分が味がどうであるかなどまるで気にせずに、ただ暖かい山盛りの食糧を貪ることに夢中だったことに気付かされた。
「……うまかった、と思う」
どう応えるのが正解なのか分からず、彼はとりあえず思ったままを口にした。それはいかにも不器用でぎこちないふるまいだと少年は感じた。
「まだ食えるだろ? もう一杯いっとけ」
少年は即答しなかった。それまでの様子からすると、男の申し出は実際希望通りであったろうが、何らかの逡巡がよぎったようだった。それは既に自分に多くを与えている男から、さらに貰うことへのためらいなのか、それとも先ほどの問いに対して、おそらくきちんと応えられなかったことによる気おくれなのか、彼自身も判然としなかった。
「気にすんな。いくら大食いだろうとガキの飯代に困ったりはしねえ。それにな、ここの飯はうまいんだ。折角来たんだから目いっぱい食っとけ」
程なくして、新たに運ばれて来たフライドライスを少年は改めてまじまじと見つめた。きれいに丸く盛られ、ほかほかと湯気を立て、食欲をそそる香りをまとった彼のための食事だ。そしてこの店は食事をするための場所で、目の前の男は自分が食べることを望んでいる。ここではすぐに胃に収めなければありついた食事を誰かに奪われることも、食べ終える前に訳の分からぬきっかけで殴られることもない。自分はもうあそこにはいないのだ。そのことは、少年は分かっているつもりだったが、馴染むのに時間がかかるようだった。だが、今また少し、理解できた気がした。
少年は男のレンゲの持ち方をしばし観察すると、見よう見まねでぎこちなく彼の手のレンゲを握りなおした。そしてそっと彼のフライドライスを口にした。それはひどくうまかった。多くの味があり感触があり、しかしそれらが全体としてうまかった。少年の持つ言葉と経験では、この味の説明にはとても足りなかった。どういえばいいのか分からないがとてもうまい、そのことは良く分かった。
「そうか、うまいか」
少年が顔をあげると、男は少しだけ目を細めて頷いた。まだ口に含んだフライドライスを咀嚼していた少年は物言いたげに首を傾げた。口に物を入れている時に喋るものではないということは、既に教わっていたからだ。
「お前の顔見りゃ分かるさ」
少年は自分がどんな顔をしていたのかはよく分からなかったが、この男は探偵であり、ならば表情から考えを読み取ることくらいは造作もなくできるのだろうと思った。そして今食べている食事のうまさは彼にもはっきりと分かることで、口は何より食べる方の仕事をしたがっていた。少年が食べ進める様を見ながら、男も自分のペースでフライドライスを食べた。
彼らはちょうど同じタイミングで食べ終わった。うまかったな、と男からかけられた言葉に、少年は今度は自信を持って頷き、うまかったと応えることができた。
少年は結局さらにラーメンも食べていた。隣のテーブルの男が麺を啜る姿に興味を示していたら、男が注文したのだ。俺はビールを飲みたい気分だ。ガキはその間メシを食ってろ、と言いながら。
ハシで適量の麺をきれいにつまむのは、レンゲでフライドライスを掬うよりもいささか難度が高かった。先ほどと比べて空腹が多少なだめられた少年は根気強く箸先を麺と格闘させることができた。そしてその間に仕事の減った口は疑問の解消に使うことにした。
「なあ。アンタ、なんでいちいちうまいかって聞くんだ?」
確か、最初にこの男から食べ物を与えられた時も、そう問われたことを少年は思い出していた。その時は彼は警戒して睨みながら、見慣れぬ不可解な男の様子を伺うだけだったが。
「誰かと飯を食う時は、特にうまいものを食う時は、味わった方がいいからな」
うまいものを味わう方がいい、ということは少年も理解できた。今日知ったことのひとつだ。彼はようやくつまんだ麺を啜りながら男の話の続きを待った。
「いつでもって訳じゃねえ。味わう暇なんてない時もある。そういう時に早く食えるのも探偵には重要だ」
「早く食うのは得意だ」
そうだな、と答えた男は破顔した。あの食いっぷりなら問題ねえと笑い、そしてビールを飲んだ。少年は、そのビールはとてもうまそうな気がした。
「なんにせよ、自分が一緒に食ってる奴が、飯をうまいと思って食ってるってのは、いいモンだぜ。ガンドー、こいつは覚えておけ。大事なことだ」
確かに、不味そうな顔で食われるよりはうまそうに食っている方がいいだろう。少年はそこは分かったが、しかしビールを片手に自分を眺めるこの男の視線は、未だ自分には分からない何かも含んでいるような気がした。この小さな謎は少年の気を引いたが、彼は当面は目の前のラーメンにスープを絡ませて啜ることの方が重要だった。
男は満足そうにビールジョッキを傾けていた。